和歌山の地名の由来は「和歌の浦」から

和歌山は都が置かれなかったこともあり、注目されることは少ないようだ。しかし、和歌山では力のある女首長が古くから支配していたと考えられ、古くから信仰された熊野三山もある。弘法大師空海が開いた高野山もあり、実は日本の歴史にとって大きな影響があった重要な土地だ。

あくまでも神話ではあり、史実とはいえないが、こんな話がある。
初代神武天皇は生まれ育った日向をあとにし、難波の港から上陸した。しかし生駒山の孔舎衛坂(くさえざか)でこの土地の豪族である長髄彦(ながすねひこ)相手に苦戦し、熊野あたりまで兵を引いている。その途中、名草村で名草戸畔(なくさとべ)という女首長と戦い、これをほろぼしたとある。
「名草山」「名草浜」の地名は女首長の彼女の名を今に残している。その後神武天皇は熊野で八咫烏の案内を得て再び長髄彦と戦をし、親族である饒速日(にぎはやひ)の助力もあってこれを下す。そしてその後橿原に宮を築いた。
和歌山の熊野には丹敷戸畔(にしきとべ)という女首長がいたことも記されているから、和歌山を支配していたのは、母系の氏族だったのかもしれない。

和歌山県片男波海岸から望む名草山和歌山県片男波海岸から望む名草山

和歌山の地名の由来は「和歌の浦」にあるとされる。
入り組んだ湾形が潮の満ち引きにより刻々と変化する和歌の浦は、歌枕ともなっている風光明媚な地で、奈良時代より前は「弱浜」と書かれた。「弱」は現代とは意味が違い、「若々しいさま」を指す。平安時代になると「和歌の浦」とも表記されるようになり、安土桃山時代に羽柴秀吉が和歌の浦近くにある「若山」に城を築いた際「和歌山」の地名が生まれた。

和歌の浦には玉津島神社が鎮座し、衣通姫や神功皇后など、和歌の上手な女神が祀られている。和歌山は古くから、女神や女首長と深く関係している土地なのだ。

そこで、今回は和歌山の読みにくい地名の由来について調べてみた。

和歌山県片男波海岸から望む名草山和歌山県 和歌の浦

和歌山の神話に関係がある地名。「伊太祈曽(いたきそ)」「衣奈(えな)」「且来(あっそ)」

和歌山市にある「伊太祈曽」は「いたきそ」と読む。
貴志川線が通っており、伊太祈曽駅は三毛猫の「よんたま」がいて、猫駅長を務めているので、猫好きの方はご存知かもしれない。

地名の由来は、平安時代の『延喜式神名帳』に所載の伊太祁曽(いたきそ)神社で、社名はスサノオの息子であるイソタケルに由来する。イソタケルは、高天原から持ち出した樹木の種を日本国中に撒いて樹々を育てた樹木の神だ。そして最終的には和歌山に留まり、この社に鎮まったとされる。律令制下で和歌山は「紀伊国」と呼ばれたが、本来は「木の国」だった。和銅6(713)年5月に発令された「諸国郡郷名著好字令」により、国の名を良い意味を持つ漢字二文字で表現することになり、「木」が「紀伊」になったのだ。火山の多い九州の「肥前」「肥後」も、本来は「火の国」だった。

伊太祈曽神社伊太祈曽神社

「衣奈(えな)」は本来「胞衣(えな)」で、胎盤を意味する古語だ。
この地には応神天皇の胞衣が埋められているとされるのでこの地名がある。応神天皇は日本で二番目に大きな古墳の被葬者ともされる強大な勢力を持つ天皇だが、「八幡大菩薩」の化身ともされ、源氏が代々信仰してきた武神でもある。彼の母親は日本書紀きっての女傑、神功皇后で、戦前までは卑弥呼と同一視されていた。

神功皇后の夫で、応神天皇の父でもある仲哀天皇は、「三韓を与えよう」という神の神託を疑ったため、神罰により早逝する。そこで神功皇后が夫の代わりに男装し、三韓征伐に出掛けたのだ。高句麗の好太王碑など、他国の史書にも倭国の朝鮮半島侵攻について書かれているが、内容が大きく食い違っており、日本書紀の記述を鵜呑みにはできない。しかし、神功皇后のモデルとなった人物は、実際に戦のため長い旅をしたのかもしれない。神話の中で、神功皇后は旅の途中で産気づく。そこで鎮懐石という不思議な石で陣痛を鎮め、帰国ののちに応神天皇を出産したという。そのときの胎盤がこの地に埋められているというわけだ。

胞衣は古来信仰の対象とされ、貴人の「胞衣塚」が残されていることもある。子宮の中で赤ん坊を守るように包んでいた胞衣には、神秘的な力があると考えられたのだろう。

且来(あっそ)も神功皇后と応神天皇に関係する地名で、昔は「旦来」と書いたらしい。「旦」は日の出を意味する字。この地に立ち寄った神功皇后と応神天皇が、「明日の朝また来よう」と約束して都に戻ったことに由来する。「あすこよう」が「あっそ」になまったのだろう。

伊太祈曽神社和歌山県日高郡由良町 衣奈八幡神社

「六十谷(むそた)」「学文路(かむろ)」本来の漢字が変化した地名

六十谷は「むそた」と読む。郷土史によれば、1192年の文書に「六十谷は本来墓所谷と書いたが、同じ音の『六十』に置き換えた」とあるようだ。なぜ「墓所谷」と呼ばれたのかまではわからないが、ここは紀ノ川の河口付近に位置し、北は和泉山脈、南は龍門山などに挟まれた谷状の地形だ。

近しい人が亡くなったとき、死体の処理の仕方は文化や風習により土地によって違う。宗教史学者の中沢新一氏によれば、ネイティブアメリカンの人々は環状に住居を建て、その中心に墓を作って先祖祭りの儀式を行っていたという。北海道などでも縄文時代の環状住居が発掘されているから、あるいは彼らも祖先の墓を生活の中心に置いたのかもしれない。同じ縄文時代の住居跡でも、三内丸山遺跡では、墓所は生活の場から離れた場所に見つかっている。ただ、子どもの墓所は住居群の近くにあり、子どもを失った親たちの悲しみを感じ取れるだろう。弥生時代ごろまでは風葬が一般的だったが、大化2(646)年の薄葬令以降は、土葬中心になっていく。

山の中に亡骸を埋め、樹木を墓標代わりにすることもあったらしく、奈良東部にある桜の名所で、「この山に桜が多いのは、墓標代わりに桜を植えたからです」と説明を受けた。まさに「桜の樹の下には屍体が埋まっていた」わけだ。墓所谷がお墓を指す場所だった可能性は十分ありそうだ。

紀の川に架かる六十谷橋紀の川に架かる六十谷橋

学文路(かむろ)は高野山の麓にあり、この地にある学文路大師は、弘法大師を本尊とする。
「学問と文学の路」の字面から受験生の信仰もあついが、本来「かむろ」は「童子の髪形」を意味する単語で、本来は「禿」と書いた。田畑(畠)や山、家地などの処分や売却を記録した『僧頼実処分長帳』には、文治四(1188)年7月16日に禿前出口西脇の田畠を処分したと書かれているほか、相賀大神社に伝わる『相賀庄惣社大明神神事帳写』にも「禿童村」の記述がある。しかしなぜこの地が「かむろ髪の童子」と関連付けられたのかはわからない。

『紀伊続風土記』では、本の中で高野山の僧侶が色子を住まわせた場所ではないかと推測しているが、「禿」「童子」は鬼の別名でもあるので、色っぽい話とは無関係かもしれない。

紀の川に架かる六十谷橋和歌山県橋本市にある学文路(かむろ)大師本堂 

「八尺鏡野(やたがの)」は八咫の鏡とは関係の深い土地か

他にも和歌山には、読めない難読地名が数多くある。

八尺鏡野は「やたがの」で、三種の神器の一つである八咫の鏡に由来するとされる。
詳細は不明だが、ただ和歌山市に鎮座する「日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮」は、八咫の鏡を鋳造すると同時に鋳造した日像鏡と日矛鏡が御神体とされる。なぜ八咫の鏡以外に二つも鏡を鋳造したのか、なぜその二つの鏡が和歌山にあるのか理由はわからないが、八咫の鏡とは関係の深い土地柄といえるだろう。

周参見は合併して「すさみ町」となったが、太平洋の荒れすさぶ海が地名の由来だ。「すさぶうみ」が「すさみ」になったというのだが、それにしてもなぜ「周参見」という、一般的には読みづらい字があてられたのかはわからない。
安宅は「あたか」ではなく「あたぎ」と読む。安宅氏の本拠地で、城館跡もある。安宅氏は強い水軍を抱えていたとされ、弁慶も安宅氏を出自とするとする説がある。
「粟生(あお)」も住んでいた人物に関する地名で、湯口村と北尾村を統一した粟生弥七郎に由来する。現在は静かな山村が、江戸時代には、北国街道の宿場町として栄えていたようだ。

こうしてみると、和歌山の地名は、栄えた大阪や、都のあった奈良とは違う、そもそもの土地に根付いた素朴で力強い意味合いを感じないだろうか。
古来和歌山には根の国や黄泉の国があると信じられ、同時に観音浄土である補陀落にもっとも近い場所ともされた。「異界に近い場所」をまとめたのが、女首長だったのはなぜなのか。
世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」だけでなく、和歌山には興味深い聖地がたくさんあるので、注目してみてほしい。

日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮

■参考
平凡社『日本歴史地名大系』1979年9月発行

公開日:

ホームズ君

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