西坂の丘に立つ日本二十六聖人記念館

JR長崎駅から徒歩6分ほど。NHK長崎放送局横の坂道を上っていくと、小高い丘にたどり着く。史跡「西坂の丘」は長崎の歴史を語る上で欠かせない場所だ。歴史的な建築物群があり、長崎の人気の観光地であり、世界的な巡礼地でもある。西坂の丘にある西坂公園から坂の方を眺めると、日本二十六聖人記念碑、聖フィリッポ教会、日本二十六聖人記念館が視界に入る。丘に並ぶ住宅を背景に、双塔の教会、ブロンズ像、記念館と、ここでしか見られない景色がある。

西坂公園から聖フィリッポ教会を見た景色西坂公園から聖フィリッポ教会を見た景色

日本二十六聖人記念館と聖フィリッポ教会は、1962年イエズス会により建築された。その日本二十六聖人記念館の西側のモザイク壁画「信徳(しんとく)の壁」が2022年11月、半年の期間を経て修復が完了したという。日本二十六聖人記念館の建築や展示の見どころ、壁画の修復について、マネージャーの宮田和夫さんにお話をうかがった。

西坂公園から聖フィリッポ教会を見た景色左手に日本二十六聖人記念碑、その奥に見えるのが日本二十六聖人記念館で、右手に聖フィリッポ教会

日本にガウディを紹介した今井兼次の設計

今から400年ほど前の1597年2月5日、長崎市西坂町の丘で26人のキリスト教徒が長崎市民4千人に見守られながら処刑された。キリシタン弾圧政策の象徴的な出来事のひとつであり、日本における大規模な、長きにわたるキリシタン迫害のはじまりであるとされている。処刑から265年後の1862年、教皇ピオ9世により殉教した26人は列聖された。宮田さんよれば「通常は地元の人たちが聖人にしてほしいという働きかけをして列聖されるものだが、ローマ主導で聖人になった珍しい事例」だという。

二十六聖人のブロンズ像の前には、赤いじゅうたんをイメージして赤色に道が塗装されている。キリシタンに関連した歴史が年表のように道に示されている。1865年2月19日は、大浦天主堂(日本二十六聖人殉教者聖堂)が建築された日だ。同年3月17日は、大浦天主堂で信徒発見があった日二十六聖人のブロンズ像の前には、赤いじゅうたんをイメージして赤色に道が塗装されている。キリシタンに関連した歴史が年表のように道に示されている。1865年2月19日は、大浦天主堂(日本二十六聖人殉教者聖堂)が建築された日だ。同年3月17日は、大浦天主堂で信徒発見があった日

そのさらに85年後の1947年。キリシタン史研究家たちにより西坂が二十六聖人の殉教地として確定すると、聖地保存運動が活発化。記念館や記念碑を列聖の100年後の1962年に西坂公園に建築することを目指し、聖地記念委員会が発足。世界各地から募金が集まった。聖地保存活動がはじまった約15年後、1962年6月10日の日本二十六聖人記念館除幕式には多くの関係者や信徒が集まった。

日本二十六聖人記念館と聖フィリッポ教会を設計した建築家、故今井兼次は、1926年~1927年にヨーロッパを歴訪している。ガウディは今井兼次が到着する前、1926年6月に逝去しており、本人に会うことはかなわなかったのだが、ガウディ建築を日本に紹介した草分け的な存在としても知られている。

二十六聖人のブロンズ像の前には、赤いじゅうたんをイメージして赤色に道が塗装されている。キリシタンに関連した歴史が年表のように道に示されている。1865年2月19日は、大浦天主堂(日本二十六聖人殉教者聖堂)が建築された日だ。同年3月17日は、大浦天主堂で信徒発見があった日日本二十六聖人記念碑と聖フィリッポ教会
二十六聖人のブロンズ像の前には、赤いじゅうたんをイメージして赤色に道が塗装されている。キリシタンに関連した歴史が年表のように道に示されている。1865年2月19日は、大浦天主堂(日本二十六聖人殉教者聖堂)が建築された日だ。同年3月17日は、大浦天主堂で信徒発見があった日正面から見た日本二十六聖人記念碑

語りつくせない建築の見どころ

日本二十六聖人記念館は、建物そのものの骨格はモダンな打ちっ放しの鉄筋コンクリート造であはあるものの、そこかしこには職人の手仕事による意匠が見られ、非常に温かみを感じる建築である。まず、目に入るのは西坂の丘から長崎港に向かって並ぶ等身大の二十六聖人の記念碑(ブロンズ像)だ。

「ブロンズ像は、彫刻家の舟越保武さんによるものです。二十六聖人の台座は大きな十字架の形をしており、二十六聖人がひとつの体、ひとつの十字架を表しています。二十六聖人は左耳をそがれ、京都からひと月かけて長崎まで殉教の旅をしていたわけで、恐らくボロボロの状態だったはずですが、舟越先生は美しく仕上げたかったのだと思います。ルイス・フロイスの記録から磔に処された順番通りに聖人たちは並んでいます」と、宮田さん。

悲壮さよりも二十六聖人の美しさが際立つブロンズ像だと感じた。手がけた舟越保武は長男の死後、キリスト教に帰依。2002年、二十六聖人が殉教したのと同じ日にちである2月5日に亡くなっている。

日本二十六聖人記念館外観。ルーバーで囲われ、槍や滴りを表現した装飾が日本二十六聖人記念館外観。ルーバーで囲われ、槍や滴りを表現した装飾が
日本二十六聖人記念館外観。ルーバーで囲われ、槍や滴りを表現した装飾が二十六聖人記念碑の側面。上部に精霊の象徴である鳩、中心には殉教者、下部には炎が描かれている

この記念碑(ブロンズ像)の裏側には、今井兼次により描かれたレリーフ「長崎への道」がある。記念碑と日本二十六聖人記念館をつなぐのが生命の象徴である楠で支えられた「殉教の橋」だ。殉教の橋の上部にもタイルの装飾がなされているのだが、残念ながら上層部からしか見られない。「今井先生によれば、神様にささげた天国の絵であり、神様に向けたものなので人間は見る必要はない」ということなのだそうだ。

「記念館の外観は、上部をコンクリートのルーバーが囲んでいます。ルーバーの部分は槍や血の滴りをイメージして装飾されています。ルーバーの内側には、よく見るとイエス・キリストの15の場面が描かれているんですよ。その下を木製の格子がつなぎ、その下は石積みの壁になっています。長崎の本石灰町(もとしっくいまち)には、当時、船でマカオから多くの石灰が運ばれてきていて、それで石灰町という名前になったようです。当時はマカオの古称である天川、天川シックイと呼ばれていてそれを今井先生が面白がって取り入れたようです」と、宮田さん。

日本二十六聖人記念館外観。ルーバーで囲われ、槍や滴りを表現した装飾が二十六聖人記念碑の裏側には、レリーフ「長崎への道」。ラテン語でSURSUM CORDA(心を高め)と書かれている
日本二十六聖人記念館外観。ルーバーで囲われ、槍や滴りを表現した装飾が日本二十六聖人記念館外観の石壁部分

「フェニックスモザイク」信徳の壁の修繕が完成

日本二十六聖人記念館は、ルーバーで囲われた南側外観、西側のモザイク壁画「信徳の壁」、東側「望徳の壁」と、それぞれ異なった装飾がされている。2022年に修復が完成したのが、西側のモザイク壁画「信徳の壁」だ。今井兼次は自らのモザイク壁画をフェニックスモザイクと呼んでいた。

「中心に巨大な白い十字架があり、殉教の象徴の赤い炎が周囲で燃えています。二十六の小さな十字架は殉教者を表現しています。陶器を貼り付けて作られているのですが、今井先生が京都から長崎の殉教者が歩いた道を辿って、工房をめぐり皿を集めたそうです。作っている途中で皿が足りなくなってしまって、近所の人や、純心女子高校(カトリック系の長崎の高校)の生徒さんや料亭花月さんからも譲っていただいたそうです。東側の壁画とは異なり、原色の濃い目の色が全体的に使われています」と、宮田さん。

西側のモザイク壁画「信徳の壁」。この壁画の存在に気が付かず、そのままエントランスに向かってしまう方もいるとか。ぜひこちら側も眺めていただきたい西側のモザイク壁画「信徳の壁」。この壁画の存在に気が付かず、そのままエントランスに向かってしまう方もいるとか。ぜひこちら側も眺めていただきたい
西側のモザイク壁画「信徳の壁」。この壁画の存在に気が付かず、そのままエントランスに向かってしまう方もいるとか。ぜひこちら側も眺めていただきたい中心には巨大な十字架

建築から約60年が経ち、雨風にさらされ部分的に劣化している箇所もあり、修復を検討していたという。2019年、長崎市は、日本二十六聖人記念館と聖フィリッポ教会、日本二十六聖人殉教記念碑を、市の景観重要建造物に指定した。修復の費用はその長崎市からの補助金と、イエズス会からの寄付もあり捻出する目途がたった。だが、問題は誰に依頼したらいいのか、ということだった。

「館内に長谷川路可氏最後の作品であるフレスコ画『長崎への道』があるのですが、その修復をお願いした東京文化財研究所の前川佳文さんに、壁画の修復を誰に頼めばいいのか分からないと相談したところ、遊工房の宮川さんを紹介してくださったんです」

モザイク制作を専門とする遊工房の宮川雄介氏の拠点は東京にある。最初の下見は交通費自費で来てくださったそうだ。まずは入念な事前準備を行い、陶器の原寸をひとつひとつトレースし破損状況を記録。表面の汚れを落とし、消失した箇所は丁寧な復元を行い、補色した。欠落してしまっていた皿は長崎歴史文化博物館そばにある工房でサイズを合わせて皿を作ってもらい、パーツを埋めていった。なお、この修復の際に、中央の突起部分にあった金具の取り外しも行っている。もともと鉄のリングをつける計画だったのが諸事情で付かなくなったそうで、不自然だったので外すことにしたという。以前筆者は修復前にこの壁画を見て感嘆し圧倒もされたのだが、より鮮やかな色になったように感じた。

西側のモザイク壁画「信徳の壁」。この壁画の存在に気が付かず、そのままエントランスに向かってしまう方もいるとか。ぜひこちら側も眺めていただきたい修復により、鮮やかな色合いがよみがえった
西側のモザイク壁画「信徳の壁」。この壁画の存在に気が付かず、そのままエントランスに向かってしまう方もいるとか。ぜひこちら側も眺めていただきたい2022年撮影、修復前の壁の一部

隠れキリシタンと長崎の歴史的な資料や美術が多数展示される

先ほど触れた長谷川路可の絶筆であるフレスコ画「長崎への道」は、東京文化財研究所の前川佳文さんにより2015年に修復された。二十六聖人が京都から長崎までを歩いた14の場面が描かれている。ちなみに長谷川路可は自身を壁画の中に描いており、そちらもぜひ記念館で現物を見て探してみてほしい。

ほかにも歴史的・美術的にも貴重な展示物が多数あるので一部ご紹介しておこう。入場するとまず出迎えてくれるのがアジアでの宣教を任命されたフランシスコ・ザビエル像。そしてその後方には沢田政広作の聖パウロ三木の彫刻が見える。日本での布教の歴史と併せて学んだ記憶がある人も多いだろう。1614年の禁教令によりキリシタン迫害の長い歴史がはじまるが、それと関連した高札や踏絵などの展示や、隠れキリシタンが代々、命をかけて守った聖母マリアの聖画「雪のサンタマリア」やマリア観音像などが見られる。「雪のサンタマリア」は遠藤周作の小説「沈黙」が原作の映画「沈黙-サイレンス-」(マーティン・スコセッシ監督)に登場している。

奥に見えるのは木彫刻「聖パウロ三木」奥に見えるのは木彫刻「聖パウロ三木」
奥に見えるのは木彫刻「聖パウロ三木」1階隠れキリシタン特別展示室

1982年に長崎県重要文化財に指定されたのが、国内最古と思われる「隠れキリシタンの弥勒菩薩像」(銅造弥勒菩薩半跏思惟像)だ。代々イエスの御像として拝み、守られてきたものだが、美術的価値も高く、またキリシタンの歴史とも関わりがあり両方の側面から貴重なものである。

貴重な資料が多く展示されているのでじっくりと眺めてもらえればと思うのだが、個人的には隠れキリシタンのおじいさんが祈りの儀式をする様子を収めた映像が必見だと思う。ロザリオの代わりに手を握り指で十字架をつくり、周囲に聞かれないように小さな声で祈りを唱える。長年の禁教のなかで独特な変化を遂げ、守られてきた隠れキリシタンの信仰の歴史を垣間見ることができる。

奥に見えるのは木彫刻「聖パウロ三木」2階展示スペースに向かう階段
奥に見えるのは木彫刻「聖パウロ三木」右手に見えるのが長谷川路可のフレスコ画「長崎への道」

世界的な聖地であり公式巡礼所 聖フィリッポ教会

聖フィリッポ教会聖フィリッポ教会

日本二十六聖人記念館と道路を挟んで立つのが、陶器タイルが貼り付けられた双塔が目を引く聖フィリッポ教会だ。教会の名前は、二十六聖人のうちの1人、フェリペ・デ・ヘススに由来する。聖フィリッポ教会は、フェリペ(フィリッポ)の祖国であるメキシコから寄せられた寄附をもとに、今井兼次の設計により建築された。フェリペ・デ・ヘススは、メキシコで初めて列聖された聖人として知られる。聖フィリッポ教会は、カトリック教会認定の公式巡礼所である。

「2つの塔のうち、右側の塔は精霊に、左側の塔は聖母マリア様に捧げるものです。左側の塔には王冠が付いています。それぞれ16メートルと、かなりな高さがありますが、建築時は、職人さんたちが足場を組んで陶片タイルをひとつひとつ貼っていったそうです」と、宮田さん。

教会天井部分には木材を利用、傾斜があり、木の屋根に包み込まれるような空間になっている。階段や教会内には、ステンドグラスからゆるやかに光が差し込む。聖フィリッポ教会は、日中18時まで開いているそうだ。自由にお祈りをすることが可能。

聖フィリッポ教会階段にステンドグラスから光が注ぐ
聖フィリッポ教会聖フィリッポ教会堂内

2023年に東側モザイク壁画の修復予定

日本二十六聖人記念館の西側のモザイク壁画「信徳の壁」と同様、東側の壁画「望徳の壁」も今後修復を予定している。2023年の秋頃から開始予定だ。こちらは西側の壁画とはデザインが異なり、全体的に淡い色合いで細かいパーツで作られている。右上から光がさし、左側の濃い赤やオレンジの色合いは殉教者の血の滴りを表現。「赤い色合いのそばにある、丸い、そのまま残っている皿は、今井先生を信仰に導いた奥様が愛用していたお皿です」と、宮田さん。記念館完成時にはすでに今井兼次の妻は他界しており、このモザイク壁画、建築にかけた思いがひしひしと感じられる。

2023年に修復を予定している東側の壁画「望徳の壁」2023年に修復を予定している東側の壁画「望徳の壁」
2023年に修復を予定している東側の壁画「望徳の壁」いくつかそのままの形を残した皿が見える

長崎はその独自の歴史から、非常に見どころが多いことはご存知かと思う。日本二十六聖人記念館と合わせて、大浦天主堂も訪れてみてほしい。大浦天主堂は1865年プチジャン神父によって建築され、「日本二十六聖殉教者聖堂」と命名された。二十六人の殉教者に捧げられた教会であり、大浦天主堂は殉教の地である西坂の方を向いて建てられている。

大浦天主堂が建築された同年、1865年に「信徒発見」という歴史的な出来事があり、その後1867年に浦上四番崩れという最後のキリシタン迫害が起こり、そして1873年、キリシタン禁制の高札が廃止される。その約50年後、迫害に追われた浦上のキリシタンたちが協力して30年をかけて初代浦上天主堂が1925年に完成するが、1945年8月9日、浦上天主堂は長崎原爆により赤煉瓦の壁をわずかに残して壊滅した(その後、1959年に再建されている)。浦上天主堂の遺壁は、平和公園内にある。現在、浦上教会は平和公園と原爆資料館からさほど遠くない場所にあるので、平和公園や原爆資料館、日本二十六聖人記念館とともに、長崎の歴史を巡る旅をしてみるのもいいのではないだろうか。

2023年に修復を予定している東側の壁画「望徳の壁」日本二十六聖人記念館の2階、栄光の間へ向かう階段そばの聖ヨハネ五島の木像
2023年に修復を予定している東側の壁画「望徳の壁」日本二十六聖人記念館2階、栄光の間

公開日:

ホームズ君

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