季節の変わり目に邪気を祓う、五節句のひとつ「重陽の節句」
節句は中国の「陰陽五行説」から伝えられ、節は季節の変わり目を意味する。陰陽五行思想では奇数が重なる日だが、これは陰陽五行説において、奇数=陽・偶数=陰ととらえられたためだ。奇数同士を足して偶数になるこれらの日は「陽から転じ、陰になりやすい」とされ、邪気を祓うための行事が行われた。陰の邪気を祓うための行事を行う日が節句であり、古くから年中行事を行う節目として大切に扱われてきた。
雛祭りと呼ばれる桃(上巳)の節句や端午の節句がよく知られているが、1月7日の人日の節句、7月7日の七夕の節句、そして9月9日の重陽の節句を合わせて五節句という。五節句はそして、もっとも大きな奇数である9が重なる9月9日は、特に重要な節句であるとして「重陽」と呼ばれた。
古来、人日の節句は「七草」、上巳の節句は「桃」、端午の節句は「菖蒲」、七夕の節句は「笹」、重陽の節句は「菊」によって邪を祓うとされた。蛇に魅入られて妊娠した娘が、上巳の節句に桃酒を、端午の節句に菖蒲酒を、重陽の節句に「菊酒」を飲んで蛇の子を殺すという昔話が各地に伝わっているから、節句ごとに植物で邪を祓う風習は、庶民にも知られていたのだろう。
「菊の着せ綿」「菊酒」「菊湯」「栗ご飯」など、重陽の節句のしきたり
宮中では重陽の節句の日に、端午の節句に掛けられた薬玉が柱から外され、代わりに茱萸(ぐみ/しゅゆ)袋が掛けられる。そして翌朝には、菊の着せ綿で体を拭ったという。
茱萸袋とは菊の花と茱萸の枝を袋に挿した縁起物で、飾ると厄祓いと無病息災、不老長寿が叶うとされる。菊の花と、赤くて香りの強い茱萸の果実が厄を祓うと考えられたのだろう。邪は赤を嫌うとされ、「あかんべ」も本来は、目の下の赤い部分と舌を見せ、邪を祓う仕草だったという。
「菊の着せ綿」は天然色素で黄色に染めた真綿のことで、重陽の日の夜に菊の花の上にのせる。そして次の朝、綿にしみ込んだ露で体を拭けば、夜の間に綿に移った菊の薬効が、体を清めてくれると考えられたのだ。
室町時代になると、菊酒の風習が始まる。菊酒は菊を漬け込んだ酒で、杯についだのち、さらに菊の花びらを浮かべた。菊を湯船に浮かべた「菊湯」や、乾燥した菊の花びらを詰めた「菊枕」で眠たりする風習もある。菊の香りは、邪気を祓う力があると思われていた。重陽の節句は秋の作物の収穫時期で、庶民の間では「栗の節句」として「栗ご飯」を食べる風習も生まれた。
天皇家の紋章・菊紋は、後鳥羽上皇の印として用いられたのがはじまり
中国では竹・梅・菊・蘭を四君子と呼ぶ。真っすぐで節目がある竹や、寒い中で香り高い花をつける梅、高貴で美しい花を咲かせる菊、華やかな美しい花をつける蘭には君子の趣があると考えられたのだ。
菊の原産地は中国で、3000年以上愛好されてきた。現在栽培されている菊の原型は、野生のチョウセンノジギクとハイシマカンギクの交雑種で、菊を園芸品種として扱った『洛陽牡丹記』『菊譜』が、10世紀の宋代に著されており、のちには日本の園芸書にも影響を与えている。
日本にも、タンポポなどキク科の花が自生していたが、栽培されてはいなかった。菊の花が観賞されるようになったのは奈良時代中期で、遣唐使が持ち帰ったとされる。だから、飛鳥時代に編纂された『万葉集』に菊は登場しないのだ。
平安時代以降は菊の歌も詠まれるようになる。たとえば、小倉百人一首には、凡河内躬恒の歌「心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどわせる 白菊の花」が収められている。菊の花の上に真っ白な霜が降りて、白菊かどうか見分けがつかないから、当てずっぽうに手折ってみようかという和歌で、菊の咲くころに初霜が降りたことがわかるだろう。江戸時代になると、菊花壇や菊人形などが作られ、庶民も菊の花を観賞するようになる。
菊花紋章といえば天皇家の紋章だが、菊と皇室が関連づけられるようになったのは、鎌倉時代の後鳥羽上皇が菊の花を好んだからだ。後鳥羽上皇の印として菊紋が用いられ、のちに天皇家の紋章となった。
死者に捧げる花としての菊の花の由来
しかし日本における菊は、少し違う意味合いを持つのではなかろうか。恋人へのプレゼントに菊の花束は選ばない。菊は死者に捧げる花のイメージがあるからだ。
日本書紀の一書(第十)には菊理媛(くくりひめ)という名の女神が登場する。伊弉冉(いざなみ)は日本の島々や山野を生んだ後に火の神を生み、このときに負った火傷で命を落とした。夫の伊弉諾(いざなぎ)は悲しんで、黄泉の国に妻を迎えに行く。しかし伊弉冉はすでに黄泉の国の食べ物を食べてしまっていたので、もとの国に帰るためには黄泉の大神の許可を得なければならなかった。
決して明かりをつけないようにと夫に言いおいて伊弉冉が去ると、伊弉諾は約束を破り、櫛の歯を抜いてこれに火を灯してしまう。そこには腐りはてた伊弉冉の死体があったため、驚いた伊弉諾は黄泉の国の入り口まで逃げた。追いかけてきた伊弉冉との間でいさかいが起きるが、その際に何かを提案したのが菊理媛(くくりひめ)だ。具体的に何を言ったのかは書かれていないが、それを聞いた伊弉諾は菊理媛を褒めて、そこを去ったという。この説話から、菊理媛は伊奘諾と伊弉冉を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。 また、菊理媛が黄泉の国の入り口に坐す女神であることから、日本では、菊は死者に手向ける花になったようだ。
雨月物語に登場する菊の比喩
菊は男色の象徴ともされた。『雨月物語』は、江戸時代後期の作家・上田秋成の著書だ。中でも有名な怪談に「菊花の約」がある。
播磨の国の丈部左門(はせべさもん)という儒学者が、病気に臥せる赤穴宗右衛門(あかなそうえもん)という名の武士と出会い、熱心に看病したことから深い友情を結んだ。赤穴は出雲の出身で、尼子経久を滅ぼすべきだと考えて行動を起こしていたが、故郷に帰る際、「重陽の節句までには必ず戻る」と、丈部と約束する。
9月9日になり、丈部は朝から赤穴を待っているが、いつまで経っても戻ってはこない。すっかり日が暮れた時分になってやっと姿を見せた赤穴だが、始終うつむきがちで何も話さなかった。そしてやっとのこと「故郷で尼子経久に閉じ込められてしまった。人は一日ではさほど進めないが、魂なら千里を行くことができる。あなたとの約束を守るために自ら命を絶ち、ここへ来たのだ」と語ったのだ。
タイトルの「菊花の約」は、再会の約束をした重陽の日が菊の日ともされるからだが、菊の花は肛門の比喩でもある。つまり、丈部と赤穴の関係が、ただの友人関係ではなかったと暗示しているのだ。
現代の私達にとって、菊の花は「お墓に供える花」のイメージが強いかもしれない。しかし。古来、高貴な人々に愛された花でもある。重陽の節句の時期から秋のこの季節、菊花展などが開催されていたら、その花の美しさや香り高さを改めて観賞してみてはいかがだろうか。
■参考資料
京都府京都文化博物館『季節を祝う京の五節句』京都府京都文化博物館学芸第一課編 平成12年4月発行
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