“サスティナブル”ってわかりにくい

地球環境の時代になって、サスティナブルという言葉を誰もが日常的に使うようになった。「持続可能な」と訳されていることが多い。英語に不勉強の自分でさえ、普通に使っている。そもそも「LOHAS」という言葉が、始まりであったような気がする。最後の「S」がその頭文字で、つづりを覚えようと頑張った記憶がある。

もちろん住宅だけの言葉ではないが、いつものことながら、この言葉も日本と欧米ではどうやら受け取り方が違うような気がする。
アメリカの住宅視察に行ったら、そのことを痛切に感じさせられた。

結論から言うと、サスティナブルを日本人はテクノロジーで捉え、アメリカ人はデザインと捉えている傾向がある。

それはそのまま「本物の文化」と「偽物の文化」へと考えが及んだ。もちろん日本人の方が本物志向なのだが、それが正しいとは言えない。偽物を受け入れるアメリカの方がむしろサスティナブルの本質を大事にしていようにも思える。

その象徴となるのが、アメリカの住宅視察に行った時の分譲地モデルハウスだ。インテリアの天井などには、古材が使われていてまるで古民家再生のようにも見えるが、それは新築であった。

リビングの高い天井には、まるで古民家のような古材が使われている。だが、ツーバイフォーで建てられているのにこんなティンバーが使われているのは、不思議?リビングの高い天井には、まるで古民家のような古材が使われている。だが、ツーバイフォーで建てられているのにこんなティンバーが使われているのは、不思議?

サスティナブルと本物志向

古材のように見えるものも、実は樹脂で作られたダミー。当然のように石油製品であるし、日本人の目て見ればとてもサスティナブルな素材ではない。古材のように見えるものも、実は樹脂で作られたダミー。当然のように石油製品であるし、日本人の目て見ればとてもサスティナブルな素材ではない。

視察ではモデルだけではなく、ホームビルダーズショーも見学した。数えきれないほどの、面白い建材が広いコンベンションセンター内に展示されている。その中で見かけたのが、古材に見せかけて裏を返せば真っ白な樹脂のハリボテの建材だ。しかも、似たようなものを作っているメーカーは少なくない。天井の古材に見えたものは、偽物なのだ。

これを見る限り「サスティナブル」は、デザインの流行のひとつとして使われているに過ぎない。早い話が、サスティナブルデザインにすれば不動産流通で高く売ることができるのだ。だからこそホームセンターに行って、この樹脂製のハリボテを買ってきて自分で天井に取り付ける手間を惜しまない。

このことに気づいてから、ホテルなどの建築物をところ構わず拳で叩いて確認するようになった。結局、ほとんどがハリボテであることがわかった。石のように見える壁も、古い木材のように見える梁も全部ハリボテだ。まるでラスベガスの街全体が遊園地のセットや、映画のセットのようなものに思えてきた。日本人の感覚としては「偽物の文化」にしか思えない。

一方、日本人の考える持続可能性は、本物を求めているように思える。サスティナブルとは、良いもの=本物を使って、丁寧に手入れしながら、長持ちさせてゆくものだ。貼りものではなく無垢の木の方が良い。そして木材の劣化が進まないように、塗料の開発をする。その塗料も長持ちするように、さらに技術開発を重ねてゆく。時にはメンテナンスフリーという言葉も、サスティナブルと同じように使われることがある。エネルギーの問題も枯渇しないように、エネルギー消費を下げる技術開発がサスティナブルである。日本人にとっては、サスティナブルはテクノロジーとして捉える傾向がある。
それが日本人の真面目さでもある。

しかし、これは本当に正しいのだろうか?

性能はサスティナブルにならない

二国の住宅の違いを考えることで、まったく逆に、日本人が短絡的でアメリカが本物の文化を大切にする視点があると考えることもできる。

技術志向の日本は性能とか機能に住宅への価値を求めている。住宅性能評価などはその良い例だ。アメリカは、前述の通りデザインに価値を求めている。

冷静に、かつ普通に考えれば、性能や品質は時間とともに劣化するが、デザインは価値が上がる方向にある。ビンテージの車でたとえれば、燃費も速度も安全性も新しい車にはかなわないが、デザインの魅力だけは残されている。スピードは出ないがエンジンの音もデザインのひとつだ。だからこそファンは高値で取引をする。

つまり、デザインこそがサスティナブルで、技術は変わるものだ。

その良い例が、住宅での改正省エネルギー法だ。基準が変われば、これまでの評価は本来はリセットされる。昔の基準ではクリアした住宅も、新しい基準では不適格になることもある。エネルギーの基準はこれからも変わるであろうし、技術がサスティナブルでありえないことがこれでわかる。
耐震等級だって、次の持ち主が鋼板の屋根を瓦葺きにリフォームしたら不適格になることもある。性能のインスペクションも複雑になるので、結局は実施されないものになる。また将来には画期的な耐震補強法ができるとも限らない。技術はイノベーションで変わるものなのだ。
結局、ストック社会を目指して制度化されたはずの性能を指標にして良い住宅を決めるということ自体が、サスティナブルの発想ではないのだ。

ハリボテのデザインは、もともとハリボテだから傷んだら変えれば良い。それで新品にできると同時に、価値のあるデザインを採用することもできる。性能と機能は、最も単純な基準をクリアすることだけで良い。これならインスペクションも容易になる。確かに、技術に頼る日本よりも、デザインを大切にするアメリカの方がサスティナブルが考えられているように思えてくる。

施工基準の決まったツーバイフォーで性能を確保し、その上にデザインを施す。千差万別に技術論が生まれても評価はしにくい。性能や技術で評価するのではなく、デザインで評価し、デザインで持続性を保つ。施工基準の決まったツーバイフォーで性能を確保し、その上にデザインを施す。千差万別に技術論が生まれても評価はしにくい。性能や技術で評価するのではなく、デザインで評価し、デザインで持続性を保つ。

街づくりもサスティナブルデザイン

道路の左右で高低差があってもあたりまえのことだ。それは自然の土地の傾斜を活かそうとするから。新しい街でも、まるで昔からあるような街づくりに見えてくる。道路の左右で高低差があってもあたりまえのことだ。それは自然の土地の傾斜を活かそうとするから。新しい街でも、まるで昔からあるような街づくりに見えてくる。

同じことが街づくりのデザインにも見ることができた。
自然と人間との関係は、東洋思想は共生を目指し、西洋思想は征服であると教えられてきた。しかし、ここに至るとまったく逆の様に思える。
分譲地の土地造成で道路を造れば、日本では技術者気質を発揮して水平で起伏のない道路を着実に仕上げる。ところがアメリカの開発地を見たら、そのような精度を求めず、元の自然の起伏も生かしながら造成している。
そのように造成すると不思議なもので、新しく造成された街なのに、歴史がある街のように見える。日本流の造成では、最初にコストが掛かり、無理した分のリスクを負い、あとは崩れて行くのを待つことになる。

これらは、やはりサスティナブルなデザインというものをしっかり研究しているからこそできることではないだろうか。アメリカには欧州や日本のような伝統がないからこそ、伝統というものを学び、真面目に再現しようとしているのだ。そして伝統こそがデザインの要素だと気づけば、サスティナブルがデザインの要素であることが理解できる。そしてたとえハリボテでも、デザインだけは守ろうとする。さらにみんながデザインへの審美眼を持つと、資産価値を保つことができるようになる。さらに街並みを壊して資産価値を低下させるようなデザインは拒絶される。家のデザインが個性と感じている日本とは、まったく逆である。

日本のデザインを見直そう

結局、日本で何がいちばん遅れているかというと、住宅のデザインということになる。

ただし個人的には、日本人のデザインセンスは世界的に見ても決して低くはないと思う。それどころか日本の建築物のデザインは、世界が認めるほどのものだと思う。しかも日本の住居のデザインの根底には、人類が望む「平和」の思想がある。そうでなければこれほど開放的な家を建てないだろう。

このデザインセンスを信じれば、南欧風とか、北欧風とか、コロニアルとか、ジョージアとか中途半端に真似るよりも、日本の各地のデザインを一度整理した方が面白そうだ。日本の家のデザインなら、アメリカほどのハリボテにしなくても、適度に本物の木材を使いながら実現もできるだろう。やっぱり日本人はちょっとだけ本物にこだわる。
そんなクールジャパン「地元に暮らそう」というのが、これからの住宅トレンドにならないものだろうか。

日本最古の民家「千年家」。昭和晩年まで、実際に暮らされていた。この家のデザインが悪かったら、こうして残されることもなかったであろう。この家を、私は「かっこいい!」と思う。日本最古の民家「千年家」。昭和晩年まで、実際に暮らされていた。この家のデザインが悪かったら、こうして残されることもなかったであろう。この家を、私は「かっこいい!」と思う。

2013年 12月12日 10時56分