幾何学模様で構成される「アール・デコ」の頂点
“贅を尽くす”という言葉はマイナスの意味で使われがちだが、これほど後の人々に感動を与えるならば、それが税金でつくられたものであっても悪くはない。
今回取り上げるのは、1933年(昭和8年)に東京・白金台に完成した「旧朝香宮邸」だ。現在の「東京都庭園美術館」だと言った方が伝わりやすいだろうか。
この建物は日本における「アール・デコ」の最高峰ともいえるものだ。アール・デコは、1910年代半ばから1930年代にかけて欧米で流行した装飾様式。直線や円弧など、幾何学的な模様で構成される。建築史をざっと振り返ると、19世紀末にそれまでのギリシャ・ローマ的な伝統様式から脱する動きが生まれ、自由曲線の「アール・ヌーヴォー」が台頭した。だが、アール・ヌーヴォーは大量生産に向かなかったため、幾何学をベースにしたアール・デコが新たな潮流となった。
旧朝香宮邸は、名前の通り、朝香宮家の住宅だ。明治天皇の第8皇女として生まれた允子(のぶこ)妃が、朝香宮家を創設した鳩彦(やすひこ)王と結婚したことで、白金台の御料地約1万坪が下賜された。
朝香宮夫妻がフランスにいた1923年(大正12年)、日本で関東大震災が発生。留守にしていた高輪の住宅が大きな被害を受けた。夫妻は2年以上、ヨーロッパにとどまることになり、アール・デコ全盛期のパリの文化に刺激を受ける。1925年の帰国直前には、パリで行われた現代装飾美術・産業美術国際博覧会、通称「アール・デコ博覧会」も見学した。
「宮内省内匠寮」は精鋭が集まる“エリート設計集団”
そんなこともあって、夫妻の新居は、日本ではまだ珍しかったアール・デコのデザインで建てることになった。
設計したのは、宮内省内匠寮(たくみりょう)の職員たち。つまり、役人だ。といっても侮るなかれ。宮内省は当時、建築学科を出た精鋭たちが集まる“エリート設計集団”だった。
宮内省? 皇族の家? この連載を読み続けている人はピンと来たのではないか。そう、宮内省設計部門の草創期を担ったのは、“建築家第一世代”の1人、片山東熊(1854~1917年)だ。そして片山は、全身全霊でつくり上げた「旧東宮御所」(1909年完成、現・迎賓館赤坂離宮)に「皇族が誰も住まない」という忌まわしい過去を残した人でもある。
(関連記事:片山東熊の「旧東宮御所」。歴史上最も不名誉な住宅と男女平等~愛の名住宅図鑑06 「旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)」(1909年))
朝香宮邸を建てるという計画が持ち上がったときには、「誰も住まない事件」からすでに20年がたっており、片山が世を去ってからも10年以上がたっていた。しかし、宮内省のエリートたちがその出来事を忘れるはずがない。大先輩のリベンジの意気込みで臨んだことは想像に難くない。
設計担当の権藤要吉はアール・デコ博を視察していた
建設記録を見ると、夫妻が帰国してからの時間のかかり方に驚く。
1925年7月、朝香宮夫妻がパリで開催された現代装飾美術・産業美術国際博覧会(アール・デコ博)を見学。
同年12月、夫妻が帰国。
1929年、朝香宮邸建設計画が動き始める。フランス人室内装飾家アンリ・ラパンへ主要各室の内装設計を依頼。設計監理は宮内省内匠寮工務課が担当する。
1931年4月、戸田利兵衛(現・戸田建設)により工事が着工。
1933年5月、朝香宮邸(現・東京都庭園美術館本館)が竣工。
夫妻が帰国してから計画が動き出すまでに、4年もたっている。帰国したばかりの頃には、新築話は全くなかったのだろうか。いや、おそらくそうではなく、水面下で計画は動いていた。なぜなら基本設計の中心となった宮内省内匠寮の技師・権藤要吉(1895~1970年)が、夫妻の滞欧と同時期にヨーロッパに留学し、アール・デコ博を調査しているからだ。
皇室関連施設を設計する宮内省の職員が、理由もなく当時最先端のアール・デコを視察に行くとは思えない。「朝香宮ご夫妻はアール・デコがお好みらしい」という情報があって、若い権藤が調査担当に指名されたのだろう。
住宅設計で最も重要なのは、住まい手の好みを知ること──。設計段階でのディスコミュニケーションが禍を招いた大先輩と同じ轍を踏むわけにはいかなかったのだ。あくまで想像ではあるが……。
ラリックやラパンに“本場の力”を借りる
計画から竣工までの期間も、足かけ5年に及んだ。規模を考えれば、設計を含めて2年もあればできそうだ。おそらく国際コラボの調整が大変だったのだろう。片山が個人の力を発揮し過ぎたことへの反省もあったのか、宮内省のエリート設計集団は、潔くフランスの“本場の力”を借りた。
1人はアート好きにはよく知られるルネ・ラリック(1860~1945年)。アール・ヌーヴォー、アール・デコの両時代にわたって活躍したフランスのガラス工芸家だ。
もう1人はアンリ・ラパン(1873~1939年)。朝香宮邸の主要室内の装飾はほとんど彼の手によるもので、ここでの役割はラリックよりも大きい。ラパンは1920年にセーブル製陶所の芸術顧問となり、多くの磁器製品をデザインした人。1925年のアール・デコ博でセーブル製陶所パビリオンや、フランス大使館の応接サロンをデザインし、世界の注目を浴びた。
ラリックもラパンも、竣工まで一度も来日していない。指示は手紙、内装部材は船便。時間がかかったのもうなづける。
ラジエーター・カバーなどに允子妃のデザインを採用
依頼主の要望を聞き、それを反映させつつ、行ったり戻ったりしながらプロジェクトを進める。まさに設計者の“愛”。その最たるものは、2階の装飾だ。
1階の内装は、ラパンが主導した完璧とも思えるアール・デコで埋め尽くされている。が、2階に上がると、例えばラジエーター・カバーなどに「ちょっとテイストが違わない?」と思える装飾が目につくのだ。
これはパリ滞在中にイヴァン=レオン=アレクサンドル・ブランショから絵を学んだ允子妃のデザイン画を元にしたものだ。もちろん、うまいのだが、ラパンが現場でチェックしていたらどう言ったかはわからない。
允子妃の新居建設への思い入れは強く、時にはカタログや見本帳を取り寄せて家族の意見を取りまとめたという。だが、疲労が重なったためか、竣工のわずか半年後、42歳の若さで亡くなった。
残された朝香宮家の家族は、敗戦を経た1947年に皇籍を離脱するまで、この家で暮らした。その後、首相公邸や白金迎賓館といった時代を経て、1983年、東京都庭園美術館となり一般公開を開始。2015年には、国の重要文化財に指定される。
片山東熊も「後輩たちよ、よくやった」と褒めているのではないか。
■概要データ
所在地:東京都港区白金台5-21-9
設計:宮内省内匠寮工務課
階数:地上2建・一部3階建・一部地下1階
構造:鉄筋コンクリート造
建築面積:1214.60m2
竣工:1933年(昭和8年)
■参考文献
東京都庭園美術館の公式サイト
https://www.teien-art-museum.ne.jp/museum/building_history/
「旧朝香宮邸を読み解くAtoZ」(東京都庭園美術館、2024年)
■関連記事
東京都庭園美術館「建物公開 旧朝香宮邸物語」で学ぶ、建物を巡る物語とアール・デコの神髄
https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00688/
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