2005年以降、大塚は変わり続けてきた
山手線で豊島区の中心地、池袋駅の隣に立地する大塚駅は戦前までデパートや花街のある繁華な場所だった。ところが、駅周辺が低地であったことから1954年に部分開業した地下鉄丸ノ内線の駅は高台に作られることになり(現在の新大塚駅)、池袋駅~御茶ノ水駅間で営業を開始。交通の利便性の向上が池袋駅の発展を促進し、池袋を地盤とする西武グループが池袋駅開発に力を入れたこともあって、二駅間に大きな差を生むことになった。
だが、2005年に駅のバリアフリー工事が開始され、2009年にはそれまで大きく迂回しなければならなかった南口、北口をつなぐ南北の自由通路が開通、2013年に駅南口に駅ビル「JR大塚南口ビル」が竣工、2017年に南口駅前広場「TRAMパル大塚」が誕生と大塚駅周辺は着実に変化してきた。
地元では1990年代から街づくりの活動があり、それが長い時間を経て成果を上げてきたわけで、これらの整備によって大塚駅周辺のマイナスは埋められてきた。
その次に世間をあっと言わせたのが2018年。星野リゾートが新たな都市観光ブランド「OMO」を発表。その第一号となるホテルが大塚にオープンしたのだ。「なぜ、どうして、大塚に?」という声も多く、さまざまなメディアがこのニュースを取り上げた。
そのホテル誘致を手がけ、同年以降、大塚駅北口を変えてきたのが武藤浩司さんだ。大学卒業後、銀行、大手監査法人で働いた後、2008年に10代以上続く母方の家業である地元の不動産会社・山口不動産株式会社(当時)に入社。地域を変えたいと考え続けてきた。
今回はその武藤さんと武藤さんの支援で2022年10月に新店舗に移転した大塚の超人気店、おにぎりぼんご(以下ぼんご)の女将、右近由美子さんに大塚の昔からこれまでを聞いた。
下町っぽい、職人さんの街だった
まずはその昔の大塚だ。ぼんごは1960年創業で現在(2023年時点)63年目。右近さんは2代目女将として現在も店を率いており、大塚歴は50年。当時と今はまるで違う場所になっており、「50年ぶりに訪れた妹は駅に降りた途端に違う駅で降りたのかと慌てていましたよ」と笑う。
右近さんによると、50年前の大塚は下町風情のある、職人さんの街だったという。花街も存在はしていたが、ぼんごが営業を始めた前後から衰退に転じていた。現在も大塚三業組合は存続、芸者さんも在籍してはいるが、街中で目立つような存在ではなくなっているのだ。
「その昔は印刷会社、工務店や大小の工場が多く集まっており、店のお客さんも多くは職人さん。土曜日になると皆さん、競馬新聞を片手にしていたものです。駅も寂しく、今は商店街もあって賑やかな南口も真っ暗でした。当時は南北の通り抜けができず、人の交流もありませんでした。そのうちに大きな工場が移転。跡地が住宅に変わるなどして住む人が増えてきました。でも、癌研病院など(現在の上池袋一丁目にあった。2005年移転)の跡地はしばらく真っ暗で幽霊が出ると言う話もあったほど。あの移転で数千人の人が大塚からいなくなったそうです」
それからだいぶ経って大塚で仕事を始めることになった武藤さんの目には、2008年当時の大塚は薄暗い、色のない街に見えていたという。
「あえて色でいえばグレー。街中には今も昔も地元店の派手なピンクの広告が多数貼られているのですが、そのピンクがあるのにどこか薄汚れた感じでいいイメージがない。これを変えて、住んでいる人が大塚を自慢し、誇りに思えるような街にしたいと思いました」
海外、県外から人が来る、子どもが駅前広場で遊ぶ街に
それから10年。2018年に武藤さんはOMO5東京大塚以外に、駅近くにある老朽化した一戸建て街区を再生した飲食店街の東京大塚のれん街、ba apartmentという高級賃貸マンションを一度にリリースした。これは街の人に変化を感じてもらうには星野リゾート出店だけでは足りない、とりあえず3つはやろうという想いから。東京大塚のれん街に至っては着工から完成までほぼ一ヶ月という急ピッチだったそうだ。
さらに2021年のJR大塚駅北口ロータリーリニューアル時には駅前広場のネーミングライツ(命名権)を取得、北口駅前広場がironowa hiro ba(イロノワヒロバ)として生まれ変わった。上に膨らんだ円錐の、頂点に円が載ったデザインは北口のあちこちに使われており、駅から出た瞬間に何かが変わったという印象を与えている。
また、経営するいくつかのビルの上部外壁にba01、ba06といった共通のナンバリングを掲出しており、それも変化のイメージを後押しする。
実際、変わったと右近さん。
「海外、県外から人が来るなどで歩いている人が以前と大きく変わりました。私も前は白衣に長靴で歩いていたものですが、今はそんな恰好では歩きません。それ以上に驚くのは土日に人がいること。予約が無ければ飲食店には入れませんし、子どもを連れた家族が駅前の広場で縄跳びやかけっこをしている。信じられません」
訪れる人が増え、客層が広がっただけでなく、住んでいる人たちも同様に増え、整備された駅前の広場を使い始めているのである。新たに整備、作られた施設が変化をもたらしているが、武藤さんは新規建設は一段落、これからはどう続けていくかを考えていきたいとする。
そこで大事にしたいのはアソシエーション、周囲の人たちとの協業だ。
大塚に無くてはならない店、それがおにぎりぼんご
「私たちはどのテナントに来ていただくかに対してNoをいといません。収益を上げる必要はあるので、そのためにこの店に入っていただくという判断もしますが、この街にプラスでないと思えばNoと言います。一方でこの街のためになるテナントは待っているのではなく、こちらからお招きして来ていただく、続けていただくということもしています。過去には焼き鳥店、靴の修理店などに来ていただきましたし、ぼんごはその代表例です」
ぼんごはこの63年間の間で一度再開発に伴って移転。現在の場所から少し離れたところで営業を続けてきたが、人気に伴い、大行列が発生。周囲の交通に支障をきたすようなことにもなりかねない状態に。そんな時期にたまたま武藤さんとの出会いがあり、近隣に空いていた2階建て住宅を店舗に改修、移転することになった。武藤さんは右近さんが変わらず、この街で商売をし続けることが大塚にとって必要と考えたのだ。
そのため、店頭の看板から内部のカウンター、椅子なども含め、移転後の新店舗は旧店舗とほぼ変わっていない。
「最初はせっかく移転するなら新しくしようと思ったのですが、アソシエーションという考え方を教えてくれ、ぼんごの移転にも関わってくれたKさん(表舞台には一切出ない、本名で検索しても出てこない謎の人物)に『無くなってはいけないものを大事にしましょう』と言われ、時間と手間をかけて旧店舗をそのまま新店舗に持ってくることにしました」
古いままのカウンター、傷ついてぐらぐらの椅子その他、移動させられるすべては新店に運ばれ、元と同じ空間が作られた。訪れるお客さんは「変わってないのね」と驚くという。だが、本当はひとつ変わったところがある。
「ちょっとだけ狭くなりました。使いづらいといえば使いづらいのですが、その分、お客さんとの距離が縮まったかな。カウンターの中に入ると分かります」と右近さん。
大塚にまた来たいと思わせるもの
右近さんのその言葉を聞いて、武藤さんが大塚にはぼんごが必要だと思った理由が分かった気がした。おにぎりを作るにはカウンターは以前のように広いほうが使いやすいはず。だが、右近さんの仕事はおにぎりを作るだけだろうか。作るだけならそもそもカウンターで客と向き合う必要はない。
右近さんはお客さんと向き合って目の前で注文に応えてほかほか温かいおにぎりを作って出す。そこにはおにぎりを介したコミュニケーションがあり、それがあるからぼんごはおにぎりが外で買って食べるものではなかった時代からコンビニで日常的に買うようになった今まで60年余も続いてきたのではないか。
大塚屈指の人気店であるぼんごにはいつも行列ができていて、中には6時間以上待つ人もいるという。おにぎりを食べるためだけにわざわざ飛行機で北海道や九州から来る人もおり、ぼんごのスタッフの仕事のうちにはお客さんを安全に誘導する係もある。
そんな人気ぶりに加えて驚くのは、それだけ並んで食べた人のうちには、その後、おにぎり屋さんをやりたいとぼんごにやってくる人がいるということ。最近のぼんごのニューフェイスは、九州から来て並んで食べたおにぎりに感動、自分もおにぎり屋さんをやりたいと8年勤めた製鉄所を辞めて上京してきた人。面接の次の日から働き始めているという。
「ぼんごに来た人は、ぼんごに、大塚にまた来よう、大塚の他の店にも行ってみようと思うようです。ぼんごもそうですが、大塚には長く続く個人店が多く、顔の見える関係が生まれやすい。仲良くなってまた行こうとなりやすい。そこが顔の見えにくい大きな街とは違うところです」と武藤さん。
“まちの体温を上げていく“という意味
長く大塚で働き、地域の人はほとんど知っているという右近さんは、大塚界隈の人たちをつなげる存在でもある。最近では個人事業主である店主にとって同業者はライバルというのが一般的な考え方だが、その昔は店同士が客を紹介しあうという関係があった。Web上の口コミメディアのリアル版と思えばいいかもしれない。
そして、それがうまく機能していれば街に回遊性が生まれる。お気に入りの店のあの人が勧めるなら、他の店にも行ってみようと思い、「行ったことあるの?」と隣の人と会話したりする。そうやって顔見知りが増えてくれば街に愛着が湧いてくる。右近さんはそうした動きのひとつの要なのである。
武藤さんはそれを“まちの体温を上げていく“と言う言葉で表現する。もっと現実的な言葉でいえば楽しいコミュニケーションがある街を作るということだろうか。今後は右近さん以外にもそうした楽しいコミュニケーションを生み出せる場と、人を大塚に生み続け、大塚の色をかつてのグレーとは違うものにしていきたいと考えている。
その決意表明が2023年1月の社名変更だ。冒頭の武藤さんの紹介のところで山口不動産株式会社(当時)と書いた。その会社は現在、株式会社ironowa(いろのわ)となっている。小規模とはいえ歴史のある会社である。変更に当たっては前社長だった母をはじめとして親族の反対や自分自身の葛藤があったと武藤さん。
だが、それを押し切ったのは、魅力的な人が集まる大塚を作ることが仕事と考えると、社名にある不動産が仕事の幅や印象を限定してしまいかねないため。直接的には駅前広場のネーミングライツ(命名権)を取得した際に、社名を広場につけても面白くないと考えたところに始まる。
そこで広場の名称は前述の通り「ironowa hiro ba」となった。iroが意味するのは多様な個性(色)を持った人が集まり、それが街の魅力になっていくこと、wa(輪・和)には人とのつながり、協力、助け合いという意味がある。これなら大塚から東京、世界へと仕事が広がっても違和感がないだろうという壮大な計画もあるそうだ。
仕掛けの見えない、誰もが楽しそうな街を
もちろん、その前に大塚だ。目標としては「誰が仕掛けているかは分からないけれど、みんなが楽しそうにやっている街」だという。そのためには不動産、つまり場が必要だが、これまでのように自分たちが所有する場にこだわる必要はないとも考えている。
「幸い、大塚には公共の場所も含めて余白がまだまだあります。場合によっては人のところを借りてやることも含めて、いろいろな場を考えていきたいと思っています。また、今あるものもより良くできるとも考えています」
たとえばと例に挙がったのが駅前のironowa hiro baを利用し、池袋からの坂道を利用した子どもたちのストライダーカップ。坂道を下ってきて広場をぐるっと一周と聞くと見ている親たちの興奮が想像できる。面白そうである。
また、1,500万円もかけたものの大失敗したという「水ba」も今なら成功するかもしれない。これは東京大塚のれん街の横の駐車場に足湯の冷たいバージョンを作り、裸足の女子が涼むという、実に絵になりそうな場を作ったもの。スタッフの足りない時期に思いつきでスタート、一人ではやりきれなかったそうだが、これからならうまくいくかもしれない。
こうした取組みで街の価値が上がれば賃料も上がる。「みんなで仲良く儲かるようにしてこれまでの投資を回収しないといけません」と笑う武藤さんに右近さんは発破をかける。「こんなくらいで変わったと思っちゃダメよ」
本当は70歳でリタイアするつもりだったという右近さんだが、最近、100歳、150歳(!)まで生きる宣言をした。武藤さんが面白そうに描く大塚を見るまではという想いと見たが、150歳はちょっと難しい気がするので、武藤さんにもう少し早めに右近さんを納得させていただきたい。
そして並ぶ元気と時間のある方はぜひ、ぼんごへ。取材後にお土産でいただき、冷えた時点でもつい一気に2個食べてしまったほどに美味しかったが、実は握っていないおにぎりだという。どう作られているかは現地で確認されたい。
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