徳川家康は木材を求めて江戸に来た?!
「水都東京・未来会議」は、東洋のベネツィアと称された水の都・江戸をさまざまな観点から再見し、防災・舟運ネットワーク・水辺のまちづくりの3点を柱にこれからの東京を作り出していこうと活動する団体である。
同会議は2021年4月から水都・東京を知り、考える契機となる連続セミナーを開催している。ここでは初回の、元国土交通省河川局長で認定NPO法人日本水フォーラム代表理事の竹村公太郎氏のセミナーをご紹介しよう。
竹村氏は国土交通省時代から作家としても活動、退官後は『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫)など、歴史と地形の深い関係についての著述で一躍話題に。今回のセミナーも江戸を考える上で最大ともいえる謎、「なぜ、徳川家康は江戸を選んだか」からスタートした。
徳川家康以前の江戸は干潟と台地の間の、訪れる人もいない不毛の地だったと竹村氏。東京湾は今よりも奥まで入り込んでおり、その奥に広がる武蔵野台地は川のない、農業には不適な土地だったのである。家康が豊臣秀吉の命で最初に関八州(現在の関東地方)に入ったのは1590(天正18)年。これを竹村氏は幽閉という。臣下からはこんな土地に押し込められたことへの不満、再度の戦いを望む声すらあった。
ところが、家康はどうもそうは思っていなかったらしい。関ヶ原の戦いに勝利して征夷大将軍に任ぜられた1603(慶長8)年に彼が首都として選んだのは江戸だったのだ。まだ、大阪城には豊臣家がいたし、毛利家、島津家のような大大名も西にいた時代である。それなのになぜ、箱根を越えてはるか東の江戸を拠点としたのか。
歴史家の中でも定説はなく、私もタイムマシンがあったら家康を問い詰めたいものだと思うが、竹村氏は森林資源の豊かさが要因ではなかったかと推察している。
「関西の寺社仏閣は戦国時代までに祈念構造物建造のため、関西圏は言うに及ばず、能登半島、紀伊半島、伊豆半島、山口県、高知県あたりまでの樹木を伐採、日本の山は丸坊主になっていました。ところが、関ケ原の10年前に関東にいた家康は武蔵野台地には誰も手を付けていない森林資源が豊富にあることを知っていました。そこでインフラの観点から、関西で長期政権となるより、徳川家の長期持続のために関東を選んだのではないかと思っています」
利根川東遷で関東平野が誕生
拠点としたからには江戸を安全で住みやすい場所に変える必要がある。徳川幕府はさまざまな土木工事を行っているが、そのうちでも最大規模の事業が当時東京湾に流れ込んでいた利根川を東に移し(東遷)、銚子から太平洋に流すというもの。鷹狩でフィールドワークを行い、関ケ原の戦いで中断するものの、1590年代から着手。その後も明治、大正を経て令和の今に至るまで利根川改修工事は続いているそうで、家康が始めた事業を国土交通省が引き継いでいると考えると、なんとも壮大な話である。
江戸以前の利根川は群馬県前橋市付近で平野部に入り、渡良瀬川と合流して南へ下り、その後、荒川(元荒川)、さらに下流で現在の隅田川、中川、江戸川と合流して東京湾に流れ込む大河川で、江戸のまちをしばしば水浸しにした。そこで江戸を水害から守り、新田開発を推進、舟運を開くことなどを目的に約60年にわたり、東遷事業が行われたのである。
「広重の名所江戸百景 箕輪金杉三河しま(現在の荒川区東日暮里あたり)を見ると、大湿地帯が広がり、そこに遊ぶ鶴のつがいが描かれています。たった百数十年前の湿地帯が今は鉄道が走り、ビルが並ぶ大都会。水をコントロールすることで日本一の関東平野が誕生したわけです」
水でいえば飲料水の確保も大きな課題だった。干潟だった江戸の周囲には水はたくさんあったが、それは塩水。人間が生きていくためには真水の確保が必要だったのだ。それに関する初期の土木工事がダム(!)の建設である。
「やはり広重の絵に名所江戸百景 虎の門外あふひ坂という作品がありますが、ここに1606年に浅野藩が建設したため池から水が流れる様子が描かれています。高さは6~10mくらいあるでしょうか、江戸城内の水はここに貯めた水で賄われていたのです」
現在も虎ノ門近くに溜池交差点、銀座線の溜池山王駅があるのがその名残り。関東大震災、第二次世界大戦で埋められてしまったものの、現在も微かな傾斜が残っているそうだ。そして、その半世紀後の1653年には玉川上水が敷かれ、江戸市中の水事情は大きく変わってくる。
災害が作った江戸のまち
初期には水のコントロールがまちづくりの大きなテーマだったが、以降の江戸は災害によっても作られてきた。
「江戸は火災の多いまちでしたが、そのうちでも最大規模だったのが振袖火事、丸山火事などとも呼ばれる1657年の明暦の大火。江戸の大半を焼き、被害は10万人とも。その後、三代将軍家光の実弟で会津藩藩祖の保科正之が災害復旧に当たるのですが、この時の考え方は今も防災の基本です」
たとえば江戸の復興に当たっては主要な道路を6間(10.9m)から9間(16.4m)に拡幅、火除け空地として上野や両国などに広小路を設置しているが、道幅が広くなれば延焼防止に効果があることは阪神・淡路大震災でも広く知られることになった。
「街路が狭いと消防車が入れませんし、家屋が倒壊すると道路が閉塞、避難できなくなります。阪神・淡路大震災後に道路幅別の延焼率が公表されましたが、4m以下では延焼するものが、4~6mになると40%ほどになり、12m以上になると延焼が防げます。400年前の保科正之が学んだことは今に通用することだったわけです」
それ以外にも大火は江戸のまちを変えた。禁止されていた隅田川の架橋が許可され、両国橋などが新設されたことが江戸の拡張に繋がったし、水路の新設、拡張は舟運の利便性向上に寄与した。水路際に蔵を配したのは防火壁とするためだったという。
ちなみに保科正之は江戸城の天守閣を再建しなかったことでも知られる。江戸城は再建しない、その金で江戸のまちを再建すると言ったのだと竹村氏。ハコモノより民の暮らし最優先。保科正之が名君と称えられるのはそういうことなのだろう。
江戸の情報ネットワークは舟運が支えていた
こうして作られてきた江戸は日本の情報発信地であり、日本列島には船のネットワークが蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
「今、船のネットワークというと海辺の港くらいまでしか思いつかないかもしれませんが、江戸時代は川の上流にも港が作られていました。地方から江戸へは米やミカンその他の産物が運ばれ、江戸から地方へは工芸品などと一緒に情報、つまり瓦版や読み本などももたらされていました。全国から舟運で集まった情報が帰りの船でもう一度全国に散らばるようになっていて、そのスピードは今の私たちが思う以上に早かった。赤穂浪士の討ち入り、江戸の黒船の情報は10日後には全国の人が知っていたと言われます」
今でも地方の山中の都市に江戸をはじめ、全国の工芸品が伝わっているのはこの時のネットワークの細密さ、広範さを示すもの。インターネットがない時代にも日本には情報網が張り巡らされていたのだ。
もうひとつ、こうした情報の共有を可能にした制度がある。参勤交代だ。
「よく全国の大名は2年に1回江戸に来ていたと言われています。これは嘘。家族を江戸に置いていた大名は2年に1回、自分の領地に帰るのです。家族も妻も江戸にいますし、大名は江戸生まれ。だから江戸弁で部下に指示をしていたはずですし、当然、領内でも公用語は江戸弁だったはず。方言はあったとしても、お殿様が江戸生まれ、江戸育ちなら家臣たちはその言葉を使います。結果、江戸の言葉が全国の言葉になっていったのです」
言葉の共有が文明開化を可能にした
参勤交代で江戸の言葉が全国で通じるようになっていたことが明治以降の近代化を可能にしたと竹村氏。
「幕藩封建制度が確立した江戸時代は平和な時代でした。家康がうまいなと思うのは大名を流域の中に閉じ込めたこと。尾根から出て隣の領地に行ってはいけないと地形で藩を分断していたのです。
では、その分断されていた日本がなぜ、ひとつの国としてのアイデンティティを保ちえたか。イギリスの歴史家、歴史哲学者のアーノルド・J・トインビーは人類の歴史の奇跡のひとつは日本の明治以降の近代化と言っていますが、私はその要因に言葉の共有があると思っています。
アヘン戦争、ペリー来訪、大政奉還、勝・西郷会見、幕末から明治にかけてのさまざまな場面を見て分かるのは通訳がいないこと。通訳が必要なかったのです。言葉は分裂する運命にあり、たとえばEUには27ヶ国が参加、公用語は23言語あり、議会には常勤の通訳だけで350人おり、さらに500人が時に通訳にあたる。その予算は年間1500億円です。ところが日本はEUと同じくらいの長さの国土がありながら、同じ言語を解してきた。それが近代化を可能にしたのではないかと考えています」
そして明治になり、流域を鉄道が横断、地方から東京への移動を可能にした。
「江戸時代のネットワークが運んだ同じ情報、同じ言語、同じアイデンティティが日本をひとつの国としてまとめているとすると、東京は東京の人のためのものではなく、日本全体のシンボルと考えるべきではないかと思います。そもそも、東京を作ったのは全国の人たちです。そう考えると、未来に向けて安全で美しい東京を作るのは東京の人たちの責務なのではないでしょうか」
水を治め、利用して発展してきた都市、江戸が東京になってから約百数十年。江戸時代がそれよりはるかに長かったことを考えると、歴史に学ぶ意味はありそうである。
水都東京・未来会議では今後も定期的なセミナーを予定している。
詳細は以下のホームぺージで確認を。
https://www.suitomirai.com/











