戦後、リアルな違法取引の場として闇市が登場
二度目の東京五輪に向け、首都圏ではあちこちで建設工事が行われ、風景が大きく変わりつつあるが、そんな中、近年作られた街のしゃれた風情とは異なる佇まい、猥雑な賑わいで多くの人を惹きつけ続けている場所がある。終戦直後の闇市(*)に由来を持つ、路地や横丁、商店街などである。
闇市とは戦時中、戦後のモノ不足に対処するために行われた統制経済下で公的には禁止されていた流通経路を経た品が並んでいた市場のこと。戦時中にも闇市場、闇取引などという言葉はあり、流通そのものはあったが、リアルにモノの売買が行われる場として闇市が登場したのは戦後になってからだという。
その嚆矢となったのは終戦からわずか5日後に開かれた新宿マーケット。ついで池袋、渋谷、新橋、神田、上野など、都心近くの主要駅周辺に続々と開かれ、やがて郊外の駅前、道路沿いにも出現する。当時の街中、特に駅周辺などには建物疎開(空襲で火災が発生した際に周辺への延焼を防ぐために建物を取り壊して防火帯を設ける措置)や空襲で焼失した跡地など、露店を出すための空地は豊富にあり、そうした場所が不法に占拠され、闇市となった。
2009年以降闇市研究に関する学際的な研究を行ない、「盛り場はヤミ市から生まれた」(青弓社)などの著作もあるグループの調査結果によると、1940年時点で人口が約5万人以上だった100都市のうち、実に99都市にはヤミ市が存在したとも。同グループの日本設計・中島和也氏の研究によると中には寺社境内に開かれたものもあり、現在も岩手県盛岡市の桜山神社、福岡県八女市の土橋八幡宮境内などに商店街として残されているそうだ。
わずか数年で誕生、消失したものの、面影は各地に
終戦直後から全国で同時多発的に発生した闇市が拡大のピークを迎えたのは翌年、1946年始め。だが、その隆盛は長くは続かなかった。ストップをかけたのはGHQ(連合国軍総司令部)である。
闇市の多くはテキヤと呼ばれる露天商の団体が仕切っていたが、こうした組織の封建性が民主化を目指す日本にふさわしくないこと、物資の横流しによって正規の流通が阻害されること、安全面や衛生面からの問題などの理由から規制は強化され、同年8月には八・一粛清などとも呼ばれる大掛かりな全国一斉摘発も行われている。さらにその後の紆余曲折を経て、都内では1951年12月末までに新聞、宝くじ、靴磨きを除くすべての露店が撤去された。闇市は誕生からわずか数年で消えていたのである。
しかし、露店が無くなったからと言って闇市的なモノがすべて消失したわけではない。青空の下からは消えたものの、恒常的な商店街、飲食店街などとなって都会のあちこちに残されており、そのうちの少なからぬものは今ある商店街の基礎ともなっている。闇市は現在の商店街の揺籃的な意味を持っていたとも言えるわけだ。
たとえば、昭和期には年末の買い出しの定番スポットとして栄え、現在では観光名所のひとつともなっている上野のアメ横。ここでは最初、上野駅の南側から御徒町駅の間にあった建物疎開地に露店が出現、高架のガード下などにも拡大した。その後、1946年に誕生した、現在のアメ横センタービルの前前身となる近藤産業マーケット、1952年に露店撤去令で建設された上野百貨店(中央通りを挟んで上野公園際の建物。2012年にUENO3153に建替えられた)などのビルに移転、現在の姿となった。
ちなみに最近のアメ横センタービルの地下はエスニック食材の宝庫となっており、アジアの露天市場の雑踏を思わせる。かつて日本にも同じような風景があったと思うと、歴史の不思議さを感じさせてくれる。
闇市の移転先がビル?
アメ横センタービルに限らず、闇市がビルに移転した例は意外に多い。たとえば新橋駅西側の、街頭インタビューでおなじみのSL広場の脇にあるニュー新橋ビルや東側にある新橋駅前ビル1号館、2号館はかつて闇市があった後に作られた建物である。もちろん、闇市からそのままこれらのビルへという移転ではなく、その間にテキヤ主導によるマーケット建設、移転があり、その後、1960年代に行政による駅前再開発でビル建設、移転という経緯である。
面白いのはこれらのビルの地下街は闇市、その後のマーケット時代同様の区画、混沌さをそのまま残していること。ビル内に路地があり、数人入れば満員御礼という店が並んでいるのである。ただし、これらのビルは建設からすでに50年近く経っており、すでに西側のニュー新橋ビルを含む一帯では再開発準備組合も発足している。当時の雰囲気を楽しめる日々はいつまでだろうか。
自分たちでビルを建ててしまった例もある。荻窪駅北口、青梅街道沿いにあるショッピングビルタウンセブンである。ここにはかつて闇市由来の新興マーケットがあり、そこからビル建設への経緯は同ホームページにも記載されている。感動するのは、1987年にあった店舗のうちの何軒かは今も盛業で、かつ他のショッピングビルなどにも数多く出店している有名店も含まれていること。戦後を生き抜いてきた人達の強さが伺える。ちなみに荻窪駅北口側には今も往時の雰囲気を伝える商店街が残されており、その一画が荻窪ラーメン発祥の地でもある。
ブームの横丁の8割は闇市由来?
だが、闇市と言われて多くの人が想起するのはビルではなく、横丁だろう。前述のグループの研究者の一人、井上商会の井上健一郎氏によると「横丁の8割は闇市起源」とか。2011年頃から、トイレの整備など衛生面の対策に加え、治安の改善が行われたことから、横丁ブームが起こり、それは今も続いているという。ただし、首都圏のうちでも、特に都心の横丁では飲食店以外は家賃が高く、なかなか成り立ちにくいとも。
確かに現在都心部の横丁に集まっている店の多くは飲食店。例外はアメ横新宿駅西口にある思い出横丁や多少都心からは離れる、吉祥寺駅北口前にあるハモニカ横丁くらい。ハモニカ横丁には衣料品や生鮮食料品などの物販店があり、これらの店舗が現状やっていけているのは店舗が自己所有であるため。家賃が不要であることから、やっていけているのだろう。また、ハモニカ横丁の場合には駅前の3000m2に及ぶ土地を地元の寺社が所有しており、そのためか、今のところ、開発計画は聞こえてこない。
防災的な観点からすると、細い路地に小規模で古い建物が集中する横丁はある意味、邪魔な存在。行政サイドとしては開発したいと思っているケースが多いようだが、なかなか進まないのが現状で、その辺りも闇市由来ならでは。土地所有、賃貸の権利関係が複雑で、整理が面倒なのである。
分かりやすいのが過去にボヤ騒ぎなどもあり、何度も開発計画が浮上しては消えを繰り返している、前述の思い出横丁。ここは終戦直後に生まれたラッキー・マーケットの一部で、当初は小田急百貨店まで続いていた。その当時からすると現在の面積は3分の1程度だろうか。店舗は時代に応じて変化してきているが、路地や店舗の位置、店舗の小ささ、密集度などは戦後から代わることなく、約80店が営業。最近は外国人観光客の姿も多い。同様に三軒茶屋の国道246号と世田谷通りに挟まれた通称三角地帯でも、開発の噂はあるらしいが、とりあえず、今も路地裏の風情は顕在である。
これからの日本は闇市を生み出せるか?
最後に、ここまでに何回か紹介している闇市研究グループが開いた調査報告会で出た質問をご紹介したい。その質問は「日本に今後終戦に匹敵するような厄難が起きたとして、私たちはもう一度闇市を作ることができるだろうか?」というもの。
厄難が起きることは想像したくないし、闇市を手放しで礼賛するつもりはないが、戦後の、生きていこう、とにかく食わねばという逞しさ、勢いを今の私たちは持っているかという質問と考えると、答えは微妙だ。
もし、終戦直後のようにあちこちに空き地があり、そこで煮炊きをして食事を提供、生活費を稼ごうと考えたとしても、同時に保健所の許可を取らねば、空き地で火を使う許可はどこにもらうのだろうと考え、実行には至らない。今はそういう人が少なくないのではなかろうか。終戦時に生まれたような秩序、法律、空間の空白がもう一度、生まれるとしたら、その時、私達の時代は何を生み出せるか。答えは人それぞれに違うかもしれないが、一考してみても良い質問だろうと思う。また、それは同時になぜ、闇市が人を惹きつけるのかという質問であるのかもしれない。
(*)参考にした「盛り場はヤミ市から生まれた・増補版」(青弓社)によると、当初は犯罪でもある闇行為という意で闇市という表記が一般的だったが、1946年以降生活に欠かせないものとしてヤミ市という用法が定着したとされている。だが、ここでは一般に分かりやすいよう、闇市という表記に統一した
取材協力/サントリー文化財団2015年度研究助成「日本都市の伝統的な基層の解明に向けた『闇市学』の創成」主催研究成果報告会「都市としての闇市―闇市研究のフロンティア―」







