目黒駅の西側は、目黒川がつくった低い平地になっています。高台に設けられた目黒駅とは30mほどの標高差があり、ひとつの駅の周辺でこれほどの標高差があるのは山手線の駅ではここだけです。
その低平地には、目黒の地名の由来ともなった目黒不動があり、門前町が古くから発展していました。
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行人坂と権之助坂
目黒駅西口から西に進む道は、目黒川に向かって下り坂になっています。
駅前の広い通りが目黒通りで、駅前から下っていくのが権之助坂(ごんのすけざか)。その南の細い道が行人坂(ぎょうにんざか)。

急坂の行人坂
行人坂は江戸時代の主要道でした。江戸時代には行楽地として名高い目黒不動への参詣の道であり、人の行き来はかなりのものだったといわれます。
ちなみに「行人」は修行をする人の意味。目黒不動の修行僧が歩く道ということで名付けられたそうです。
ただ、この道はかなりの急坂。そこで新たに拓かれた緩やかな坂が権之助坂といわれています。

権之助坂
権之助坂は元禄年間(1688~1704)ころに拓かれたといわれています。坂の名は、この地の名主とされる菅沼権之助に由来します。
険しい行人坂に荷を運ぶ人が苦労する様子を見て、緩やかな権之助坂を拓いた菅沼権之助でしたが、「急坂は江戸の要害」とする幕府の怒りにふれ処刑された、とされています(ほかに、年貢の軽減を直訴したために処刑された、との説もあります)。
いずれにしても、地域の農民のために行動して処刑されたため、その名が地名となったということのようです。
文化・文政期(1804~1830)に描かれた「江戸名所図会」を見ると、行人坂沿いには参詣客目当ての茶店や料理屋などが軒を連ね、にぎわっていたようです。
特に坂の上は西に開けて眺めがよく、富士山を望む名所として知られており、「富士見茶亭」という茶店もあったようです。

行人坂からは、今も冬の晴れた日には、富士山を遠望できる
五百羅漢のある大圓寺

東京・目黒の行人坂の途中に位置する天台宗のお寺「大圓寺」
行人坂の途中にある古刹が大圓寺です。元和年間(1615~1624)に奥羽の出羽三山のひとつ、湯殿山の修験僧が大日如来の堂を建立したのが始まりという古刹です。
その後、上野寛永寺の天海僧正が、江戸城の裏鬼門に位置するこの寺に、比叡山から伝教大師(最澄)作と伝えられる大黒天を移し、これが本堂の大黒天として伝わります。

東京・目黒の大圓寺正面本堂
1772(明和9)年、この寺から火事が起こります。火勢は風にあおられ、浅草や千住まで燃え広がりました。焼失面積としては江戸最大の大火、“目黒行人坂火事(明和の大火)”です。
火事の火元となった大圓寺は、長い間再建を許されませんでしたが、1848(嘉永元)年、薩摩藩10代藩主である島津斉興(しまづ なりおき)の帰依を得て再興されました。現在の本堂は、このとき再建された当時の建物です。

大圓寺の石造五百羅漢
境内に入ると、左手の斜面に石仏がひな段状に整然と並んでいます。これが五百羅漢(ごひゃくらかん)。
およそ520体がそろう都内唯一の江戸時代の石造五百羅漢で、行人坂火事の死者の供養のため、天明年間(1781~89)に建てられたらしいのですが、当時は寺が再建されていなかったため明確な記録が残っていません。
「江戸名所図会」には、寺の建物は描かれておらず、空き地のような場所に石造五百羅漢がある、といった状態で描かれています。

国の重要文化財に指定されている釈迦如来像は年に数回ご開帳される
この寺には清涼寺式釈迦如来が伝わっています。
清涼寺式とは、京都の嵯峨野にある清涼寺(嵯峨釈迦堂)の釈迦如来像の様式。「生身の釈迦」といって、「釈迦が修行・沐浴をして立ち上がった姿」を仏像化しています。
この概念にともない、大衣を通肩(つうけん)という、両肩に衣をかけて全身を隠す着方をしており、波模様を思わせる衣文(えもん:衣のひだ)の独特な表現が、外見上の特徴です。
この仏像は1193(建久4)年、丹治氏乙犬女の祈願による造立で、祈願者と造立年代が明確に分かる仏像に限定すると、都内最古となります。
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江戸の名所だった目黒川の橋

目黒川にかかる太鼓橋
行人坂を下りきると、目黒川。桜の季節には多くの行楽客でにぎわうお花見スポットとして知られています。しかし、かつては別の意味で名所だったのです。
江戸時代、ここには太鼓の胴のような、アーチ形の石造りの橋が架けられており、江戸近郊の一大奇観として目黒不動参拝の人々に評判だったのです。
その様子は「江戸名所図会」や歌川広重の「名所江戸百景」などに描かれています。

桜の季節の目黒川と太鼓橋
この橋は1920(大正9)年に豪雨のため崩壊してしまい、その後、鉄橋に架け替えられました。現在の太鼓橋は、1991(平成3)年に架けられたものです。
目黒の地名の由来となった目黒不動

目黒不動尊・瀧泉寺の仁王門
目黒の地名の由来は、目黒不動こと瀧泉寺と思われます。寺伝によれば808(大同3)年、慈覚大師(円仁)による開創。関東の不動霊場では最古になります。
目黒不動は徳川将軍家との関わりが深く、3代将軍家光は、1634(寛永11)年には50あまりの堂塔が立ち並ぶ大伽藍(だいがらん)を建立させました。
将軍さまが参拝するお寺ということで、江戸庶民の間でも人気が高まり、やがて門前にはあめや餅などの店が軒を連ねるようになりました。江戸時代半ばには、目黒不動は江戸近郊を代表する行楽地となっていたのです。
徳川家光が建立した壮大な伽藍の大半は、1945(昭和20)年の戦災で焼けてしまいました。

朱塗りの前不動堂

左手の高台にある勢至堂
しかし、参道石段左手の泉の脇に立つ朱塗りの前不動堂と、左手の高台にある勢至堂(せいしどう)は、戦災をまぬがれました。
勢至堂は後世の改築がなされていますが、前不動堂は往時の姿をとどめ、東京都の有形文化財となっています。

目黒不動の本堂
急な石段を上ると豪壮な雰囲気の本堂。本尊の不動明王像は秘仏です。

本堂裏にある大日如来像
本堂の裏手に回ると、1683(天和3)年の造立という銅製の丈六大日如来坐像が鎮座しています。
密教では、不動明王は、大日如来の化身と考えられています。大日如来が、魔を滅ぼすため、怒りの状態になった姿が不動明王なのです。
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古典落語「目黒のさんま」の舞台はどこ?

坂の途中にある爺々が茶屋跡
権之助坂が目黒川に差し掛かったところで目黒川沿いの遊歩道へ右折し、川を左に見ながら上流へ向かっていくと清掃工場があり、その先が新茶屋坂通り。
ここを右折して坂を上っていった先の高台が、爺々が茶屋跡です。
江戸時代、この付近は目黒川を見下ろす高台で富士山の眺めがよく、眺望を売り物にした富士見茶屋という茶店がありました。
この付近は、今は閑静な住宅地となっていますが、江戸時代には郊外の農村地帯で、将軍家のタカ狩りの場所でもありました。
タカ狩りに訪れた3代将軍・徳川家光は、茶屋の主人である彦四郎の素朴な人柄に引かれ「爺、爺」と親しく話しかけたため、この茶店は爺々が茶屋と呼ばれたといいます。
その後、10代将軍・徳川家治もタカ狩りでこの茶店に立ち寄り、団子と田楽を食べて大いに気に入り、以後、将軍に献上されるようになったとか。
こうしたエピソードから誕生したのが、古典落語の名作「目黒のさんま」です。
目黒の茶屋で食べたさんまの塩焼きがおいしくて、城に戻った殿さまがさんまを所望すると、小骨をとってほぐし身にしたうえで脂を抜いたものが出され、殿様の「さんまは目黒に限る」という言葉がオチになる落語です。
この古典落語「目黒のさんま」にちなみ、目黒駅の周辺では、秋に「目黒のさんま祭り」を開催。炭火焼のさんまを無料で楽しめるとあって、大勢の人でにぎわいます。
次回は、目黒駅の東側を訪ねてみます。
⇒【山手線の魅力を探る 目黒駅 3】江戸時代は大名屋敷町、今は高級住宅地…目黒駅東口から白金へ
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更新日: / 公開日:2022.10.14
















