目黒駅は、1885(明治18)年と、日本における鉄道の歴史のなかでも比較的早い時期の開業です。目黒は、平安時代開創の古刹という目黒不動の門前町として古くから栄えた地域。

目黒駅は、その参拝の最寄り駅といった立ち位置で計画されましたが、さまざまな事情から目黒不動とは離れた場所に開業することになりました。

目黒駅記事の第1回は、そうした開業にまつわる話を紹介します。

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日本最初の私鉄である日本鉄道の、品川と赤羽を結ぶ品川線が開業したのは1885年3月1日。当初の品川線は、品川と渋谷、新宿、板橋、赤羽の5駅からなっていました。

 

目黒駅の開業は、同年3月16日。品川線開業からわずか半月後となっています。この、微妙に遅れた駅の開業は、ほかの駅と同時に開業を予定していたものの間に合わなかったのか、それとも当初から半月後に開業予定だったのかは不明です。

 

面白いのは、この目黒駅と同日に開業しているのが目白駅ということ。単なる偶然ではあるのでしょうけれど、目黒と目白の両駅は、仲良く半月遅れの開業ということになっているのです。

 

ともあれ、山手線の前身となった日本鉄道品川線は、5駅の鉄道として開業してからわずか半月で7駅になったのです。

目黒駅中央改札口

目黒駅中央改札口

目黒駅を利用したことのある人ならお気づきかと思いますが、平たんな構造の駅ではありません。

 

基本的な構造は、切通しの谷底にホームがあって、階段やエスカレーターなどで上層へ上がると中央改札口。

 

東西通路から階段を下る東口

東西通路から階段を下る東口

その中央改札口は東西連絡通路に臨んでいて、改札口を出て右へ行けば東口、左に行くと西口となっています(このほか地下鉄との連絡改札口がホーム五反田寄りにあります)。

 

東西通路から階段を上る西口

東西通路から階段を上る西口

興味深いのは、東口では改札口を出てから階段を下りて道路に出るのに対し、西口では階段を上ること。東口と西口では標高が異なり、西口の方が標高が高くなっているのです。

 

つまり、目黒駅は台地の頂上に位置するのではなく、頂上は西口の駅前ターミナル付近で、駅は頂上から少し東へ下った斜面に設けられた、ということになります。

 

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1886(明治19)年の迅速測図には、まだ目黒周辺の鉄道は反映されていない。図で示したのは、最初の計画で駅が建設される予定だった場所と、現在の目黒駅の位置。最初の計画では、目黒川沿いに水田が広がる平たんな場所で、しかも名所である目黒不動の近くに駅が新設される予定だった。が、最終的には工事の難航が予想される台地上に駅が建設されている。そのため、台地を削って切通しを造成する距離を短くすべく、台地に入り込んだ谷筋に鉄道が敷設されている

1886(明治19)年の迅速測図には、まだ目黒周辺の鉄道は反映されていない。図で示したのは、最初の計画で駅が建設される予定だった場所と、現在の目黒駅の位置。最初の計画では、目黒川沿いに水田が広がる平たんな場所で、しかも名所である目黒不動の近くに駅が新設される予定だった。が、最終的には工事の難航が予想される台地上に駅が建設されている。そのため、台地を削って切通しを造成する距離を短くすべく、台地に入り込んだ谷筋に鉄道が敷設されている

目黒駅の立地がこのようになったのは、なぜなのでしょう。それには、明治期の駅開業に際した折の「目黒駅追い上げ事件」が影響しています。

 

目黒駅付近の山手線(当時の品川線)は、最初の計画では大崎から現在の山手通りの付近を通って渋谷方面へ向かう予定だったといいます。すなわち、目黒不動の付近に駅が誕生する計画だったのです。

 

しかし、この近辺は、鉄道の敷設に対して反対運動が盛んでした。反対運動の理由は、蒸気機関車の煙と火の粉が火災の危険性を持つこと、ばい煙で田畑が荒らされる、などが主な理由です。

 

目黒駅ではなく別の場所ですが、実際に、民家のかやぶき屋根に蒸気機関車の火の粉が飛び火して、火災に発展する事件も起こっています。

 

反対運動はかなり強烈だったようで、測量が終わった場所の杭を抜いて更地にしてしまうとか、下肥を入れた落とし穴を掘る、といったことがあったらしいです。

 

こうしたことから、品川線の敷設は計画変更を余儀なくされました。結果的には、反対運動が少ない場所、すなわち沿線に住民がいない場所へと変更されることになったのです。

 

それが現在の目黒駅の場所。権之助坂の頂上付近の閑静な土地に駅を設けることになったのでした。これが「目黒駅追い上げ事件」です。

 

目黒駅ホーム。切通しの谷底に設けられているため、まるで地下鉄の駅のよう。頭上を覆っているのは目黒通り

目黒駅ホーム。切通しの谷底に設けられているため、まるで地下鉄の駅のよう。頭上を覆っているのは目黒通り

現在の目黒駅のホームが、切通しの谷底に位置するのもこれが理由。

 

権之助坂頂上付近の標高はおおむね32m。これに対し、品川線起点の品川駅は2.9m。品川~目黒間の距離は4090mで、この距離で標高差約29mを登らなければなりません。

 

明治初期の蒸気機関車であることを考えると、標高差はできるだけ少なくしておきたいところです。そこで、権之助坂頂上付近を切通しに掘り、ホームの標高を下げ、標高22.9mの場所にホームを設置したのです。

 

目黒駅のホームは島式の1面2線。一つのホームの対面に山手内回り線と外回り線が発着します。

 

この山手線の線路に並行して、やや低い位置に、もう一組の線路があります。これが山手貨物線の線路です。

 

目黒駅に停車中の山手線の電車と、山手貨物線を走る湘南新宿ラインの電車。山手貨物線の方が低い場所を走っている

目黒駅に停車中の山手線の電車と、山手貨物線を走る湘南新宿ラインの電車。山手貨物線の方が低い場所を走っている

この山手貨物線、現在は貨物の運行よりも、埼京線、湘南新宿ライン、成田エクスプレスなどの旅客列車が主体となって走っています。

 

山手貨物線の線路は、山手線よりも古いもので、かつてはこの線路を山手線と山手貨物線が共用していました。

 

しかし、旅客輸送の増加に伴い、大正時代に旅客電車専用のレールを敷設し、旅客電車と貨物線を分離して複々線化が行われることになったのです。

 

古い線路が現在の山手線よりも低い位置に敷設されているのは、品川駅方面との標高差を少なくするためでしょう。つまり、湘南新宿ラインの線路は、初期の山手線の面影を伝えているということです。

 

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1926(昭和元)年建築の、白金桟道橋。旧山手貨物線(現在の湘南新宿ライン、埼京線など)の部分のみアーチになっている。まるでアーチ部分を先に建設し、後に現山手線部分を架橋したように見えるが、当初計画からこの形状だった。なぜすべてアーチにしなかったのか、とすら思う。全国でも数少ない、古レール廃材を構造材としてつくられた跨線橋(こせんきょう)だ。

1926(昭和元)年建築の、白金桟道橋。旧山手貨物線(現在の湘南新宿ライン、埼京線など)の部分のみアーチになっている。まるでアーチ部分を先に建設し、後に現山手線部分を架橋したように見えるが、当初計画からこの形状だった。なぜすべてアーチにしなかったのか、とすら思う。全国でも数少ない、古レール廃材を構造材としてつくられた跨線橋(こせんきょう)だ。

目黒駅の北200mほどのところには歩行者専用の跨線橋「白金桟道橋」があります。1926(昭和元)年架橋のレトロな雰囲気の橋です。

 

橋は古レールの廃材を再利用して建てたもの。古レール廃材を構造材とした橋が現存するのは貴重といえます。

 

「桟道」は、本来は崖の中腹をトラバース(斜面を登らず横に移動)するために、崖に棚のようにして設けられた細い道のことをいいましたが、その道が、地形などの理由で崖の反対側の斜面に渡されることもあり、「崖の片側からもう一方の崖へ渡された橋」のことも桟道というようになりました。

 

確かに、この付近は目黒駅から続く切通しが残っていて、この橋は崖の片側からもう一方の崖へ渡された形になっています。

 

特徴的なことは、旧山手貨物線(上り・下り)と現在の山手線(内回り・外回り)の4線をまたいでいるのに、旧山手貨物線の部分だけがアーチ構造になっていること。このアーチが実に優美で、まさしく昭和初期のモダニズムを強く感じさせます。

 

一方、現在の山手線をまたぐ部分は単純な鉄柱橋脚となっています。ですのでこの橋、当初は旧山手貨物線(当時の山手線)に架けられた橋で、山手線の複々線化に伴って延伸したものと思っていましたが、複々線化の方が先で、その後に架けられたものと分かりました。

 

ではなぜ、旧山手貨物線をまたぐ部分だけアーチ構造にしたのかというと、路面との標高差があるため、鉄柱橋脚では強度的に問題があると思われ、高い橋脚が必要な旧山手貨物線の部分だけアーチにした、ということのようです。

頭上を山手線が走るガードに併設して、旧山手貨物線の踏切がある長者丸踏切

頭上を山手線が走るガードに併設して、旧山手貨物線の踏切がある長者丸踏切

さて山手貨物線は、目黒駅では山手線の西側にありますが、お隣の恵比寿駅では山手線の東側を通ります。

 

つまり目黒~恵比寿間で山手線と山手貨物線は交差するのです。高架になった山手線が地上の山手貨物線をまたぎます。

 

そして、その場所がちょうど踏切になっています。これが長者丸踏切。歩行者専用の踏切で、山手線のガードと山手貨物線の踏切が一続きとなっています。その風景は一種独特の雰囲気があり、ちょっと都心とは思えないほどです。

 

この踏切はもともと、複々線化以前の山手線(旧山手貨物線)に設けられた踏切だったようです。複々線化に伴って、旧線の踏切は残し、新線は高架にして旧線と交差させるという工事がなされたものと思われます。

 

踏切には基本的に名称がつけられていますが、その理由は点検や整備・補修、さらには事故などの緊急時の通報の際など、鉄道会社が踏切を管理するうえで必要であることからです。

 

「長者丸」の地名がある1929(昭和4)年の国土地理院地図

「長者丸」の地名がある1929(昭和4)年の国土地理院地図

踏切の名称は、一般的には地名と数字の組み合わせとなることが多く、この「長者丸」も地名です。その由来は、踏切の東方の一帯。1929(昭和4)年の国土地理院地図を見てみると、「長者丸」の地名が表記されています。

 

ちなみに、この長者丸の「長者」は、中世にこのあたりに屋敷を持っていた禁中雑色(下級公務員)柳下上総之助のこと。上総之助は「白金長者」と呼ばれ、これが「白金」および「長者丸」の地名の由来となったといわれています。

 

次回「目黒駅2」では、目黒の地名の由来となった目黒不動の歴史と、周辺の見どころを紹介します。

 

【山手線の魅力を探る 目黒駅 2】坂道と古刹…駅西口周辺の見どころをめぐる

 

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更新日: / 公開日:2022.10.14