築48年、駅から遠い賃貸住宅をどう再生するか
JRの京浜東北線、東京メトロ南北線、都電荒川線が乗り入れる王子駅から歩いて15分。元は商店街だったという通りの角に食べる賃貸住宅・ミカワヤビルがある。
多くの人が初めて聞くだろう「食べる賃貸住宅」とはキッチンを住戸の中心にすえた食好きが集う場のこと。窓辺の一番良い位置にキッチンがあったり、我が家をバーにできる間取りがあったりと食に関心のある人ならおお!と思いそうな住宅である。
元々は1階に文具などを扱う三河屋商店があり、2階から4階までは賃貸住宅として使われてきた建物で、30年ほど前からは1階も賃貸住宅になった。その建物の管理を3年ほど前に引き継いだのが所有者の孫であり、この建物で生まれ育った高須弘絵さん。最初の仕事は水回りその他設備の劣化への対応だった。
「築48年と古い建物ですが、まだ住んでいる方もいらっしゃり、設備への苦情が出ていました。そこで半年ほどかけて外壁、水回りなどを補修、修繕したのですが、さて、これからどうしようかと考えました。古い建物ですし、続けるべきか、どうしたら続けられるかも考えました。王子駅から徒歩15分かかるだけでなく、東十条駅からも徒歩15分、南北線の王子神谷駅からで徒歩9分と3駅利用できるものの、どこからもそれなりの距離。しかも古い。コンセプトが必要だと考えました」
最初は全体をリノベーションするつもりではなかった。料理好きの高須さんの母が以前から店をやりたがっており、1階を飲食店にしたいという話があったからだ。1階を地域に開いた飲食店とし、それ以外にも何か付加価値を付けた物件として打ち出せないか、そんなことを考えていた。
「地域が気になりだしたのは1階で店をやるかもしれないと考え始めた頃からです。住んでいる時には住みやすい地域とは思っていたものの、地域に関わっていくつもりはありませんでした。それが大家になって管理のためにこの土地に戻ってきた時、かつてと異なる寂しい風情が気になり始めました。住宅とは違い、店は地域があってなりたつもの。そこから地域に目が行くようになりました」
食と暮らしをテーマにした「食べる賃貸住宅」をコンセプトに
そんな時に出会ったのがスタジオ伝伝の藤沢百合さん。2019年にグッドデザイン賞を受賞した築古アパートの職住一体型賃貸集合住宅へのリノベーション「欅の音terrace」を手掛けた人である。
「藤沢さんが手がけられた練馬の物件を訪ねるなどしているうちに店と暮らし、食と暮らしというキーワードでこの建物の付加価値を考えるようになりました」。
そこで欅の音terraceと同じく、設計でつばめ舎建築設計(以下つばめ舎)の永井雅子さんと根岸龍介さん等が加わり、どんなコンセプトにするかアイディア出しが始まった。
そこで出てきたコンセプトは1階を食の場として住宅の中心に起きつつ、上階の住宅との関連を生み出すというもの。とはいうものの、スタジオ伝伝とつばめ舎から「食べる賃貸住宅」という提案があった時には「尖っている」と驚いたと高須さん。
「でも、ああしたい、こうしたいと私たちの要望を受けての提案でしたから、やっていけるだろう、実際に運営したら面白そうとも思いました」。
普通、賃貸住宅では入居者にとってどんな場所かということを中心にどんな物件を作るかを考えるものだ。だが、所有者、管理する側にとってどんな場所かも大事ではないかと藤沢さん。
「高須さんが物件に通って管理にあたると考えると通うのが楽しみになる、愛情を持てる建物で、そこに共感できる入居者が集まることも大事かもしれないと思いました。コンセプトが変わらず、所有者、住む人に大事にし続けられれば建物は長持ちします。賃貸住宅だけれど大家さんがそこに住みたいと思う、最終的にはそうなってくれればうれしいですね」。
残念ながら最終的には高須さんのお母さんの飲食店経営の実現は難しいことが分かった。遠方から通っての運営には無理があるからだ。といっても食を中心にというコンセプトを変わっておらず、気軽に店が始められる、住みながら営業ができるなど店をやりたい、食べることを楽しみたい人の後押しをする場にしようと考えた物件が誕生することになった。
各戸で異なる間取り。共通項はキッチンが一番いい場所にあること
藤沢さんと出会ってから2年。完成したミカワヤビルは1階に住居兼店舗1戸、2階に菓子製造許可の取得できる住宅1戸、3階、4階にそれぞれ間取りの異なる各2戸ずつ、計6戸の賃貸住宅になった。
50年近い建物のため、配管、設備類の劣化が進んでおり、躯体だけを残してほとんど全てやり直すことになり、工事には時間がかかったが、できあがったのはキッチンが住戸内の一番いい場所にあって広々と使いやすそうな部屋。
「集合住宅は上下同じタイプの間取りにしたほうが設計の手間は省けますが、つばめ舎の皆さんはこのコンセプトを楽しんですべて違うタイプのキッチンを提案してくれました。それぞれの部屋に、私もですが、設計担当者やオーナーの一推しがあります」と藤沢さん。
どの部屋も普通にはほとんどないと思うので、上階から簡単に説明したい。6戸中一番最初に申込が入ったのは4階の変形な三角形に近い38.5㎡の部屋で、キッチンがあるのは窓際。まちを見下ろし、眺望を楽しみながら料理ができるようになっており、その一方で玄関から続く細長い土間には仕事場にできるカウンターも。
「ここは私がかつて住んでいた部屋で玄関を入ると小さなキッチン、その奥に和室2室があるという、よくある2DKでした。部屋数を確保、効率的に作るならそうした配置なのでしょうが、キッチンが売りの物件ですから、つばめ舎の永井さんの提案で一番明るい場所にキッチンを配すことにしました」と高須さん。
入居を決めたカップルのうちのお一人は背が高く、以前の住まいでは背を屈めるように料理をしていたとか。でも、ここなら天井が高く、広さもあるので思う存分料理ができると漬物を漬けるなど新居のキッチンを満喫されているそうだ。
4階のもう一部屋は細長い1LDK(30.85m2)で、藤沢さんいわく「初心者向きの部屋」。というのは他の部屋はキッチンを抜けた先に寝室に充てる居室があるのだが、この住戸は寝室の奥にキッチンがあるからだ。
キッチンは南向きのバルコニーの近くにあり、明るく開放的。そして個人的に推しなのはキッチンから新幹線が見えること。キッチンだけでない。寝室からも、トイレの窓からも新幹線ビューが楽しめるので、料理と新幹線の好きな人ならここ指定で見に来ていただきたいところである。
もてなし上手にお勧め、そのままバー、小料理屋になりそうな間取りも
リビングの中心にコの字型のキッチンが鎮座するのが3階東側の部屋(36.42m2)。キッチンの脇にはパントリーがあり、寝室は窓際。生活の中心にキッチンがあるわけで、このままで小料理屋、バーができてしまいそう。友達を呼んで料理、酒を振る舞うのが好きな人ならこの部屋一択だろう。
ちなみにつばめ舎の根岸さんはこの部屋が一押し。「というのは本人も埼玉県の寄居で古い空き家を借りて地域に開く活動をしており、そこには大きなバーカウンターが。その延長でこの部屋も作られています」と藤沢さん。
どの部屋も暮らす人を職業から趣味、食とのかかわり方などを細かく想定しており、内覧に来た人達も「私はこの部屋かなあ」というような見方をすることが多いのだとか。この部屋はおもてなしして暮らす人を想定している。
通路が広めにとられているのでそこにお酒の棚を置いたりすると賃貸住宅ながら本格的なバーのようにもなるはず。収納は少ないが壁のベニヤ部分はDIY可なので自分で好きに棚を設置するなどすれば増やすことは可能。どう使おうか悩んだ時には建築家、大家さんに相談する手もある。
3階東側の部屋(32.95m2)は部屋の中央に細長くキッチンが伸びる部屋で寝室はキッチンを回り込んだ奥。隠れ家のような寝室で居心地が良い。
この部屋は高須さん一押し。「通路が広いので両側にモノを置くと秘密基地的な感じになるかなと。料理を極めたい人、ラボ的な空間に住みたい人にお勧めじゃないかと思います」。
ラボ的という意味では単身者向きの間取りながらコンロは3口というのも大事な点だ。
「この部屋に限らず、壁が白く料理が映えると写真スタジオを探している人達からもミカワヤビルは評価が高い」と藤沢さん。ダクトレールで照明が動かせる、床のモルタルも光を柔らかく反射するので撮影向きなのだとか。
「元々は上下曇りガラスのサッシだったのですが、上半分をクリアガラスにしたことで明るくなり、風景が変わりました。2階では窓から街路樹の緑も楽しめます」(藤沢さん)。
食を通じて地域と繋がりたいという人が増えている
2階は住戸としては最も広い部屋(69.37m2)で玄関を入ると左右に2室あり、突き当りが約21畳大の広いリビング。ここもキッチンが中央に据えてあり、部屋の右手にある小上がりでさえ、キッチンとセットになっている。中央のキッチン以外にも壁際にはもうひとつシンクも用意されており、カウンターも広い。
「永井さんからこのプランを見せられた時、こんなキッチン見たことがない!と一同大盛り上がりしました。この部屋は料理教室をする人、家で仕事をする建築事務所を主宰する人などを想定しています。子どもの遊び場にもなる小上がりがあるので、子連れでも参加できる料理教室もできますね。また、菓子製造許可が取れるよう、リビング内、DENとしている部屋内に配管してあり、そこにシンクを追加できます」(藤沢さん)。
キッチンの半分ほどは食卓として使うのはもちろん仕事場としても使えるので、図面を描きながら鍋の様子を眺めるという暮らしも可能。ほぼキッチンに暮らしているような間取りだが、実際に内覧に来た人たちからはキッチンに住みたいという声も多く聞いたという。
「コロナ禍で家の中を充実させたい人が増え、キッチン家電が売れたと聞きましたが、この物件を見に来る人はキッチンさえあれば良いという人も多く、家に求めるものが変わってきていると感じます。
以前は周りに何があるからここに住みたいでしたが、今は自分が動いて何かやって場を作りたい、人と会いたい、地域を面白くしたいという意識の人たちが出てきています。この物件で家を開くという経験をして、いずれは地元に帰って地域とつながるような場を作りたいという声もあり、チャレンジの場として捉えられている部分もあるようです」(藤沢さん)。
1階は飲食店であり、地元の人たちのたまり場にも
1階は通り側に店舗があり、その裏に住宅があるという住居兼店舗。カフェなどを経営しながら姉妹、夫婦で暮らすという感じだろうか。キッチン内の設備類も用意されており、比較的少ない資本でスタートできるのがうれしいところ。日曜日は上階に住む入居者で使いたい人が利用できるようにと日曜日は営業不可という条件ながら、すでに何件か問い合わせが来ているという。
高須さんのパートナーで一緒にプロジェクトを進めてきた和田雄樹さんは「お店というよりいろんなことができる場所、日によって違うことをやっているぞというわくわく感のある場所になってくれたら」と1階の可能性に期待する。
住宅街は意外に人と話をする場所がなく、コミュニケーションがとりにくいもの。そこで運営側としては地元のたまり場になればとも考えている。
「かつての三河屋がそうであったようにふらっと立ち寄れるような、ここに行けば誰かに会える身近な場所にしていけたらと思います。入居者のチャレンジをきっかけに会話が生まれたり、互いに応援しあえるような空気になっていったら最高ですね。1階で何ができるか、地域の方も巻き込んで考えるのも面白そうです」と和田さん。
もうひとつ、入居者専用だが、スペシャルな空間がある。屋上だ。以前は入居者にも公開されていなかった場所だが、リノベーションを機に入居者に鍵を渡し、無料で使える場とすることになった。
上がってみると椅子が置かれ、人工芝の上には木箱。ここで野菜やハーブなどを育て、自分たちで食べる、店で出すなどしてもらえればという。屋上から建物内のコミュニケーションが生まれることにも期待している。
高須さんが住んでいた子どもの頃に比べるとまち全体としては高い建物も増えたが、ミカワヤビルの周りはさほど変わっておらず、視界を遮るものはほとんどない。こんな屋上を共用部として自由に使えるなんて居住者が羨ましい。新幹線も見放題である。
目指すのは入居者のやりたいことを後押しする住まい
さらに羨ましいのは「ここにテントサウナを置きたいという要望が来ています」と高須さん。「幸い、水栓もあるので水風呂も設置できます。周囲から見えるような場所でもありません。基本、住民のやりたいは実現できるようにしたいので置いて良しということにしたいと考えています」
住民のやりたいことを応援したいというオーナー。屋上、1階をそのための場として使えるとしたらこの物件には部屋という空間だけでなく、そこから生まれる可能性や希望、挑戦などといった見えない価値もあるということになる。飲食で、まちとの関わりで何かやりたいことのある人であれば試してみる価値はあるのではないだろうか。
ちなみに屋上の使い方については高須さん、和田さんも妄想していることがあるそうだ。それはここでお二人の結婚式をすること。
もちろん、その前に大事なことは入居者がすべて決まること。そしてその人達が食を通じて隣人や地域などとの関係を育み、それぞれにやりたいことを実現していくこと。「中での関係、外での関係、それぞれに作っていけたらよいですね」と和田さん。
個人的にはそのためにぜひ持ち寄りパーティーを開いていただきたいところ。料理好きが集まる建物で持ち寄りとなったら、どれだけ美味しいものが食べられるだろう。取材に呼んでいただきたいものである。
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