成蹊学園には元都知事の美濃部亮吉が住んでいた
私のような昔の地方出身者だと成蹊学園と成城学園の区別を間違うことがある。
だが成城学園は小澤征爾の出身校だし、成城の街には三船敏郎、石原裕次郎、大江健三郎、大岡昇平、横尾忠則、武満徹らの芸能、文学、美術の有名人が住んでいる(いた)ことを知ると、はっきりとしたイメージが形成されていく。学園の名前と地名が一致していることも、土地イメージをはっきり持たせる。
対して成蹊学園は三菱財閥がつくった学校で、安倍元首相の出身校でということで、政治経済のイメージが強く、成城と比べると文化的な印象は弱い。吉祥寺北町にあり、成蹊学園町という名前はないので、そのぶん印象も弱い。
成城の住宅地は成城学園が学校をつくるための資金源として住宅地を開発したことは知っていても、成蹊学園のまわりにも三菱が住宅地を開発したことは私は最近まで知らなかった。
知らない一因は、やはり成城と比べて有名人が住んでいなかったことである。だが経済学者で元東京都知事の美濃部亮吉の家がそこにあったと最近初めて知り、なるほどかなりの住宅地だったのだと気づいた。
成蹊学園の創立者、中村春二の自由教育への情熱
成蹊学園の創立者は中村春二。1877(明治10)年3月、神田猿楽町に生まれた。父の秋香は宮内省御歌所寄人を務める歌人だった。
1891(明治24)年、高等師範学校附属学校尋常中学科に入学した中村春二は、生涯の親友となる今村繁三と岩崎小弥太に出会う。
三菱の後継者であった岩崎は今村とケンブリッジ大学に留学し、中村への手紙でこう書いている。「英国の学校教育は、個性を尊重し、自由なる雰囲気により行はれている。これに反し、日本の学生が教科書の詰め込み主義に毒され、自主的精神を喪失し居る現状に比するに、誠に羨ましき限り」
このような英国の教育に触れるうち、今村と岩崎は日本にもそうした教育機関が必要であると痛感するに至ったという。
中村は、東京帝国大学に進学し在学中から曹洞宗第一中学林(現在の世田谷学園)で講師を務めた。当時の画一的教育や教育機会不均等に疑問を持った中村は、今村・岩崎両氏の支援のもと、1906(明治39)年、本郷西片町に学生塾(翌年「成蹊園」と命名)を開設、塾生と家族同様に寝起きし自らが思い描く理想の教育を目指した。
やがて中村は全寮制の私立学校を起こしたいと考え、父から相続した私財を投じ、岩崎・今村両氏の賛助も得て、1912(明治45)年、池袋に成蹊実務学校を創立した。
当時はまだ池袋付近が郊外といわれていた時代であり、池袋周辺には他にも、宗教大学 (現・大正大学)、 学習院、 豊島師範学校といった学校が続々と開校・移転していた。
さらに中村は、1914年(大正3年)以降、成蹊中学校、成蹊小学校、成蹊実業専門学校、成蹊女学校を創設した。
また1918 年頃から成蹊学園は閑静な土地を求めて、学園全体の移転を検討し始めた。そして19年、今村が豊里合資会社から土地を入手し1924年に校舎を池袋から吉祥寺へ移転した。しかし吉祥寺移転の24年、残念なことに中村は死去した。享年46歳だった。
吉祥寺の成蹊学園ができるまで
玄田悠大によると、成蹊学園の入手した土地はもともとは地主が「キリスト教大学」のために土地をまとめたものだという。
その裏付けとして、1910年(明治43)10月4日に武蔵野村吉祥寺の地主32名が「豊里合資会社 無限責任社員阿波(あわ)松之助」宛で作成した土地売買に関する領収証があるという。
豊里合資会社は、明治34年(1901)5月13日に設立された合資会社和倉屋が前身であり、様々な商売をしたらしい。そして吉祥寺の土地を購入した1910年前後に豊里合資会社の組織が大きく変わっており、吉祥寺の土地購入に関する事業が阿波にとって重要な意味を持っていたと考えられるという。
阿波松之助は大阪の実業家で、キリスト教系学校出身であった。彼は社会福祉事業団体・博愛社を支援し、自身の土地を博愛社の移転先として提供したこともある。また、浪速女学校というミッションスクールの校主経験もあった。だから阿波はキリスト教系の大学に土地を売ろうとしていたらしいのである。
また阿波は、大正3年(1914) に「明治神宮経営地論」と題する書面を阪谷東京市長に当てて送っており、そこには明治神宮の設置場所の条件として帝都の西北であることや広大であること、地勢が東京より高いこと等を挙げているおり、彼が吉祥寺の土地を明治神宮に適した場所と想定したとも考えたくなると玄田氏は言う。
だが当初の目的であったキリスト教大学は誘致できず、巣鴨病院、国士舘大学、東京女子大学等の設立・移転の話もあったが、契約には至らず、かわりに成蹊学園が土地を入手したのである。
1922年から学園の西部、北部、北東部に住宅地、北西部には別荘地が分譲されたが、その後多くは学園用地となった(地図1)。
今もある住宅地は成蹊学園の西部、五日市街道の北側である。500坪を基本として宅地が分譲された。天皇機関説の美濃部達吉、元東京都知事の美濃部亮吉の親子の家もその一角にあった(地図2)。
レーモンド設計の旧・赤星鉄馬邸
ちなみに五日市街道を挟んですぐのところには旧・赤星鉄馬邸がある。これは実業家である赤星鉄馬(1882~1951)の自邸で、東京女子大学などの設計で知られる建築家アントニン・レーモンド(1888~1976)が設計した。1934年(昭和9)竣工の鉄筋コンクリート造地階付き2階建ての大規模住宅である。
旧赤星鉄馬邸は竣工後、赤星が住んだのち、1944(昭和19)年に陸軍に接収され、戦後はGHQに接収された。
1956年からはカトリック・ナミュール・ノートルダム修道女会が所有し、修道施設として使われたが、近年シスターのなり手が減ったため閉鎖することとなった。民間への売却を検討していたが、環境の保全を図りたいとの想いが強まり、2021年に武蔵野市が建物の寄贈を受け、市の所有となった。
この界隈は公園がないため土地は公園とし、2022年10月に国の登録有形文化財(建造物)に登録された。
武蔵野市の住宅地としての成蹊学園の歴史をいかに残すか
またレーモンドは帝国ホテルの設計のために来日したフランク・ロイド・ライトの部下として日本に来たが、帝国ホテルに関わった日本人建築家の遠藤新(あらた)の作品も吉祥寺界隈など中央線沿線に多かったようだ。いまも少し残っている。ライト設計と言われるレストラン・ミモザもかつて東中野にあったそうだが、おそらく実際は遠藤が設計したのであろう。
武蔵野市というと吉祥寺という人気の繁華街が突出して有名であるが、本来は大正時代から井の頭池や玉川上水の近辺を中心に、郊外の行楽地、別荘地として開発され、次第に住宅地化した地域である。それ以前には歴史上特別な寺社や遺跡はなく、あくまで近代になってから発展した地域である。
よってこれまで述べてきた住宅が武蔵野市、吉祥寺の歴史を語るものとして保存・利活用されることが望まれるのである。
参考文献
成蹊学園ホームページ
内田青蔵「学園都市に持ち込まれたアメリカ製組立住宅」『ツーバイフォー』2023年夏号
玄田悠大「濱家住宅西洋館 説明資料」2023
玄田悠大「成蹊学園取得地(吉祥寺)の開発経緯 -成蹊学園取得前(明治43年(1910)~大正8年(1919))-」」『武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館だより』11号 2023
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