大泉学園の古い地図に聖心女子学院の名前があった
練馬区大泉の古い地図(「帝都地形図」大正12年)を見ていたら驚いた。なんと「聖心女子学院敷地」と書いてある! 大泉学園駅の北側、西武鉄道が開発した大泉学園都市の南側である。
“あの聖心が大泉に?” 聞いたことのない話だ。
聖心に問合せると、「大正時代の地図ということで、まだ学校法人としての登録がなかった時代で、おそらくは学校として使っていた場所ではない。寄進か何かの土地かもしれないが、学校法人以前のデータは、現在詳しくはわからない」ということであった。
それにしても「帝都地形図」に書かれているのだから、地図作製者が噂で勝手に書くはずはない。何らかの公表がされていたはずだ。
1923年(大正12年)ということは関東大震災のあった年だが、それ以前から各種の宗教団体が施設をつくるために東京郊外、特に緑豊かな西郊に土地を求めたことはあったらしい。もちろん大学など学校も西郊に土地を求めた。そういう流れの中で一橋大学の誘致もされていた大泉学園に、地主か不動産開発業者が聖心に大泉に土地を用意するから、是非とも来てくれと働きかけたのであろう。
一橋大学と聖心女子学院が大泉にできれば、私も津田塾ではなく聖心の女性と出会ったかもしれないと、馬鹿な想像もしたくなる。
白子川周辺の住宅地の風景
だが、大体キリスト教系の大学というのはなぜか東京の西南部にある。例外は池袋の立教くらいで、その他、聖心も青山学院も明治学院なども都心から見て西南部である。横浜が近いことも一因かもしれないが、そうなのだ。対して仏教系は、都心から見て北側にある。東洋大、大正大、淑徳大、武蔵野大、文教大などである。一番南は駒澤大だろうか。だから、というわけではないだろうが、聖心の大泉進出はなかった。
また西武鉄道は大泉学園への一橋大学の誘致も失敗し、そのかわり一橋は同じ西武鉄道が開発した谷保村に移転。結局大泉学園は、学園とは名ばかりで何の学校も進出しなかった。
というわけで、一橋大学と聖心はご縁がまったくなかったようだ。
聖心女子学院の大泉進出については知る人はいないということなので、それ以上の詮索はやめて、現地に行くことにした。
上記の地図を見てもわかるように川が蛇行している。これが白子川であり、この川周辺の風景こそが大泉が風致地区に指定された一要素であるといって過言ではない。
地図の真ん中に白子川が縦に流れているが、その右側が聖心女子学院敷地と書かれていた場所だ。その場所自体も風致地区内である。
敷地は今は住宅地であり、土地が100坪近い大きめの敷地である。聖心の誘致に失敗し、地主か開発業者が住宅地にしたのであろう。せっかくなのでそれなりにちゃんとした住宅地にしたようである。この開発をいつ誰がしたのかは私はまだ調査していない。
大泉学園が風致地区に指定される
大泉学園が風致地区指定されたのは1933年である。図で見ると大泉学園町だけでなく、そこから東側に向けてかなり広い地域が指定されている。東半分の地域の真ん中に白子川という文字が見えるが、この流域はかなり高低差があり、川に向かった崖に林がある様子はまさに武蔵野という感じがする。
『皇都勝景』でも大泉は「武蔵野情緒の横溢していることは都下風致地区中唯一の所であろう」(唯一は随一の間違いか)。「西南部が高く漸次東南に向って低降して白子川に従って地形は変化し、西部は沃野遙かに展開して其内に雑木林と薄原(すすきはら)とが交わり、遙かに富士箱根、さては秩父の連峰」を望むと書かれている。また「大泉野遊場と市民農園があり」、「校外教練、ピクニック等には好適な場所である」とも書いており、都心から近い割にはかなり広々とした場所であったことがわかる。
また「湧泉の渓谷に松樹、楓樹とを植栽された稲荷山公園と、白子川沿いに曲折する逍遥路をハイキングしながら、石器・土器を探ねながら歩くのも興味深いものであろう」とあることからも、たんなる平野ではなく、高原の渓谷のような雰囲気もあったことが想像される。等々力渓谷ほどかどうかはわからないが、それに近かったのではなかろうか。
今行ってみても、公園として整備されたあたりを中心として、なかなか素晴らしい風景が広がっている。
大学誘致に失敗した大泉学園。住宅地としての発展は戦後から
箱根土地株式会社は大泉学園都市の開発を1924年から始め、330万㎡(1万坪)の広大な土地を買収し、道路、上下水道、電灯を敷設、大泉学園駅を建設し武蔵野鉄道に寄付した(その後武蔵野鉄道が西武池袋線となる)。
箱根土地は1922年に住宅地・目白文化村を分譲したが、「学園都市」という名は「文化村」と同様の一種の宣伝文句であったようだ。大泉はその学園都市の最初の開発事例だった。
今でも大学の誘致は地域振興にとって大きな意味を持つ。たとえば葛飾区の金町駅周辺も戦前は三菱の工場地帯として栄えたが、オイルショック後は衰退。しかし東京理科大学の進出により一気に街が新しくなった。
大泉学園都市では、1区画300坪の広さの良好かつ文化的な住宅地をめざし、1軒ずつ異なるデザインの洋館のモデル住宅を30軒建てたという。
だが一橋大学が大泉ではなく谷保に移転することになったためもあり、販売状況は良くなく、戦時中は半分が畑になった。
しかし昭和30年代になると再び住宅地として人気を増していった。
女性漫画家版のトキワ荘、「大泉サロン」があった
話は変わるが、大泉学園には漫画家が多い。大泉学園だけでなく練馬区全体に漫画家が数多く住んでいる、あるいは仕事場を構えていることは周知の通りである。アニメ関連企業数日本随一だそうだ。
豊島区の西武池袋線沿線南長崎駅近くには、手塚治虫をはじめ、藤子不二雄、赤塚不二夫といった漫画家が住んでいた「トキワ荘」があったが(別の記事参照)、大泉学園には、女性漫画家版のトキワ荘ともいえる「大泉サロン(1970年~1973年)」というものがあったという。
竹宮惠子と萩尾望都が同居していたアパートであり、ここへ「24年組」と呼ばれた女性漫画家達が集まった。練馬区南大泉・小関のバス停留所から歩いて1、2分ぐらいのところにあったそうだが、すでに解体され正確な場所はわからないという。
大泉は学園都市にはなれなかったが、マンガ都市になった。そのほうが現代的な意味でますます人気の町になる可能性があるかもしれない。
練馬区・大泉とマンガの関係
出所:https://www.jk-tokyo.tv/
【大泉サロンに関わった漫画作家】
竹宮惠子、萩尾望都、青池保子、大島弓子、木原敏江、樹村みのり、ささやななえ、坂田靖子、佐藤史生、山岸凉子、山田ミネコ、花郁悠紀子、水樹和佳、樹村みのり、伊藤愛子、たらさわみち、増山法恵、など。
【練馬区にゆかりのある漫画作家】
手塚治虫、石ノ森章太郎 、松本零士、ちばてつや、高橋留美子、モンキーパンチ、いがらしゆみこ、ちばあきお、あだち充、弘兼憲史、柴門ふみ、あずまきよひこ、吾妻ひでお、山上たつひこ、馬場のぼる、白土三平、前川かずお、吉沢やすみ、小畑健、など。
【練馬を舞台にした作品・練馬が登場する作品】
ドラえもん、ど根性ガエル、課長島耕作、タッチ、みゆき、H2、クロスゲーム、ナイン、うる星やつら、めぞん一刻、らんま1/2、ダーティペア、がきデカ、究極超人あ~る、鉄腕バーディー、ツヨシしっかりしなさい、BARレモン・ハート、練馬大根ブラザース、のだめカンタービレ、よつばと!、臨死!!江古田ちゃん、クレヨンしんちゃん、デジモンアドベンチャー、ねりまより愛をこめて、ハヤテのごとく!、こちら葛飾区亀有公園前派出所、など。
参考文献
松井晴子「箱根土地の大泉・小平・国立の郊外住宅地開発」 (山口廣編『郊外住宅地の系譜』鹿島出版会)
練馬区土木部公園緑地課『みどりと水の練馬』1989年
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