新選組ゆかりの地に降り立つ

JR日野駅はどこか懐かしい入母屋屋根の民家風駅舎。1937(昭和12)年に竣工されて以来、その姿はほとんど変わっていないJR日野駅はどこか懐かしい入母屋屋根の民家風駅舎。1937(昭和12)年に竣工されて以来、その姿はほとんど変わっていない

イケメンで剣の腕が立ち、今も昔もモテモテの人気者――。

それが新選組副長の土方歳三である。それでいて同時代に生きていたとしても、「いいよなあ、お前は」と気安く言える間柄にはなれそうにない。なにしろ、土方は隊の規律を破る者を容赦なく処罰する。ついたあだ名は「鬼の副長」。私のような軟弱者は、すぐに斬られてしまうだろう……。

そんな嫉妬や恐怖から始まった土方歳三を知る旅だったが、生家を訪ねて、すっかり印象は変わった。10人兄弟の末っ子として生まれた歳三は、家を継げるわけでもない。ならば、この腕一本でのし上がってやろうじゃないかと決意を固める。

「いつか立派な武人になるぞ」

17歳か18歳の頃、歳三はそんな思いを込めて庭に矢竹を植えた。子孫の土方愛さんがそう教えてくれた(前回記事参照)

家業の薬の行商を手伝いながら、鍛錬を重ねた歳三。新選組の副局長となり、どれだけ嬉しかったことだろうか。隊を守るためならば、厳しくもなるはずだ。

まだ自分が何者でもなかった頃、不安を打ち消すように、土方歳三は日野の道場で、剣術の腕をひたすら磨いた。その空気に少しでも触れたいと、私はJR「日野」駅に降り立った。

魅惑の「新選組のふるさと歴史館」

日野市立「新選組のふるさと歴史館」。新選組や日野の歴史を詳しく知ることができる日野市立「新選組のふるさと歴史館」。新選組や日野の歴史を詳しく知ることができる

日野駅から中央自動車道の下をくぐり、坂を上がりきってから左折すると、「新選組のふるさと歴史館」が見えてくる。徒歩で15分程度だが、上り坂がつらければ、日野駅で高幡不動駅行きのバスに乗り、「日野七小入口」バス停で降りると、そこから徒歩5分程度である。

日野市が「新選組の街」とされているのは、土方歳三だけではなく、六番隊組長の井上源三郎や、新選組を支援した佐藤彦五郎が生まれた場所でもあるからだ。

だが、やはり人気は土方が圧倒的である。館内に入ると、土方の巨大パネルがドドンと現れた。

「来訪者の多くが土方ファンですね。土方歳三資料館の開館日に合わせて、こちらに来る方もたくさんいらっしゃいます」

館内のスタッフがそんな説明をしてくれた。土方歳三資料館で長蛇の列に並んだ身としては、さもありなんと納得するほかない。私も思わず土方グッズを買い込んでしまう。いかんいかん、取材をしに来たのだった。

日野市立「新選組のふるさと歴史館」。新選組や日野の歴史を詳しく知ることができる館内に足を踏み入れると、大きな土方歳三パネルが迎えてくれる。お土産コーナーも充実

土方歳三と近藤勇を結びつけたのは?

土方歳三ファンのために、記念写真を撮れるスペースも用意されている土方歳三ファンのために、記念写真を撮れるスペースも用意されている

館内では、日野市とのかかわりだけではなく、新選組の誕生から京での奮闘ぶり、戊辰戦争での敗北、そして新選組の終焉までが、通史的に解説されている。

私が知りたかったのは、土方歳三が新選組局長の近藤勇といつ出会ったのか、ということ。二人は「幼馴染」と説明されることが多いが、近藤が生まれたのは武蔵国多摩郡上石原村で、現在の東京都調布市野水にあたる。土方と同じ多摩郡の生まれではあるが、10キロ以上離れており、幼少期をともに過ごすには遠すぎるだろう。

パネル展示の解説によると、土方と近藤を結びつけた一人の人物がいた。日野宿の名主である佐藤彦五郎である。

八坂神社の奉納額には土方の名がない?

日野八坂神社(東京都日野市)日野八坂神社(東京都日野市)

土方歳三と近藤勇。この二人が出会ったのは、歳三の姉ノブが日野宿の名主・佐藤彦五郎のもとに嫁いだことがきっかけだ。彦五郎は、天然理心流「試衛館」に入門し、自身も自宅に道場を開設。農民でありながら武士に憧れた土方は、彦五郎の道場に通い、剣の腕を磨く。

その日野の道場に、試衛館の近藤勇や沖田総司が出稽古に現れるようになり、近藤・土方・沖田の3人が出会いを果たす。

日野駅からすぐの八坂神社で、天然理心流の門人たちは奉納を行った。残された額には、嶋崎(近藤)勇、沖田惣次郎(総司)のほか、佐藤彦五郎など日野宿の天然理心流門人23 人の名が刻まれている。1858(安政5)年のことだ。

土方の名前がないのは、正式に天然理心流へ入門するのが、その翌年の1869年、25歳のときだからだ。入門こそ遅いものの、すでに実践の練習は重ねており、その実力は織り込みである。
そして、1863(文久3)年2月、土方は試衛館の仲間とともに、浪士組として京に上る。これがのちの新選組となる。

日野八坂神社(東京都日野市)八坂神社の入り口で、天然理心流奉納額について解説されている

日野宿本陣の地で汗を流した修行時代

日野宿本陣。都内唯一の本陣建築で、日野市の有形文化財にも指定されている日野宿本陣。都内唯一の本陣建築で、日野市の有形文化財にも指定されている

八坂神社から徒歩約10分弱で、日野宿本陣に到着する。本陣とは、大名や公家、旗本、幕府の役人などの宿泊するための施設のこと。参勤交代など公用のときに、身分の高い人たちが泊まった場所だ。
名主の佐藤彦五郎はこの地に道場を開いた。そして土方は、近藤や沖田、井上源三郎たちと激しい稽古に励むことになる。

日野宿本陣ではガイドさんたちが、新選組について丁寧に教えてくれる。ガイドの一人である幕末研究家の松崎勇二さんが、土方歳三と佐藤家のかかわりについて語ってくれた。

「歳三は生まれてすぐに両親を亡くしています。いわば、姉のノブさんが母親代わりでした。だから、ノブさんが佐藤彦五郎のもとに嫁ぐと、歳三は佐藤家と非常に強い結びつきを持つようになります」

示された家系図を見て驚いた。土方家の長男はすべて「隼人」となっているではないか。

「土方家の長男は『隼人』で世襲されてきました。隼人になれなかった歳三は、外の世界に出て、突き進んでいくほかなかったわけです」(松崎さん)

そんな土方が武人に憧れて修行を重ねて、ようやく見つけた自分の居場所、いや、「生き場所」が新選組だった。しかし、明治新政府軍の台頭に、新選組は敗北を重ねていく。江戸から明治へと、時代が大きく変わろうとしていた。

日野宿本陣。都内唯一の本陣建築で、日野市の有形文化財にも指定されている土方家の家系図。長男は「隼人」が継いでいる

故郷でリラックスしすぎて昼寝

1868(慶応4)年3月2日、近藤や土方たち新選組は、鳥羽・伏見の戦いで明治新政府に敗れると、江戸に集結。幕府の直轄領である甲府について「新政府軍より先に押さえるように」と幕府から命じられる。

新選組は「甲陽鎮撫隊」と改められて、近藤と土方は200~250名の隊士を率いて、江戸から甲府に向かう。その途中で隊士募集のために日野宿本陣に立ち寄っている。

土方も懐かしくて、ちょっと気が抜けてしまったのだろう。そのときに土方は、ぐうぐうと昼寝をしてしまったという。その部屋に私も寝転がってみると、確かに風通しがよくて気持ちよい。激動の渦中でさぞ疲れきったであろう身体を、少しは癒すことができただろうか。

日野宿本陣の一室。土方歳三はこの場所で昼寝をしたという日野宿本陣の一室。土方歳三はこの場所で昼寝をしたという

立派な武人として生き抜いた

柳田正斎の書「文乃武乃」。意味は「文武両道」と同じ。土方も近藤も憧れた4文字だ柳田正斎の書「文乃武乃」。意味は「文武両道」と同じ。土方も近藤も憧れた4文字だ

故郷で英気を養ったあと、土方は近藤とともに隊士を引き連れて、甲州へと向かう。だが、このときの滞在が、土方にとって最後の故郷となった。
日野を出てから約2ヶ月後、近藤が流山で明治新政府に捕縛されて、首を斬られる。そして、さらに1年後の1868(慶応4)年4月25日、土方も函館の地で戦死。35年の生涯に幕を閉じた。

最後に日野へと戻る前のことだ。新選組が「甲陽鎮撫隊」へと名が改められるなかで、近藤と土方も幕命によって、名を変えることになった。そのときに近藤は「大久保大和」と改名。その一方で、土方はこう名乗っている。

「内藤隼人」

土方家の長男である「隼人」に憧れながらも、自分の運命を受け入れて、全力で己の道を突き進んだ土方歳三。日野市を訪れたならば、そんな土方歳三の武人としての生き様に、ぜひ触れてみてほしい。

柳田正斎の書「文乃武乃」。意味は「文武両道」と同じ。土方も近藤も憧れた4文字だ日野で幕末にタイムトリップして新選組を訪ねる旅へ出よう

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