新選組ゆかりの地に降り立つ
イケメンで剣の腕が立ち、今も昔もモテモテの人気者――。
それが新選組副長の土方歳三である。それでいて同時代に生きていたとしても、「いいよなあ、お前は」と気安く言える間柄にはなれそうにない。なにしろ、土方は隊の規律を破る者を容赦なく処罰する。ついたあだ名は「鬼の副長」。私のような軟弱者は、すぐに斬られてしまうだろう……。
そんな嫉妬や恐怖から始まった土方歳三を知る旅だったが、生家を訪ねて、すっかり印象は変わった。10人兄弟の末っ子として生まれた歳三は、家を継げるわけでもない。ならば、この腕一本でのし上がってやろうじゃないかと決意を固める。
「いつか立派な武人になるぞ」
17歳か18歳の頃、歳三はそんな思いを込めて庭に矢竹を植えた。子孫の土方愛さんがそう教えてくれた(前回記事参照)
家業の薬の行商を手伝いながら、鍛錬を重ねた歳三。新選組の副局長となり、どれだけ嬉しかったことだろうか。隊を守るためならば、厳しくもなるはずだ。
まだ自分が何者でもなかった頃、不安を打ち消すように、土方歳三は日野の道場で、剣術の腕をひたすら磨いた。その空気に少しでも触れたいと、私はJR「日野」駅に降り立った。
魅惑の「新選組のふるさと歴史館」
日野駅から中央自動車道の下をくぐり、坂を上がりきってから左折すると、「新選組のふるさと歴史館」が見えてくる。徒歩で15分程度だが、上り坂がつらければ、日野駅で高幡不動駅行きのバスに乗り、「日野七小入口」バス停で降りると、そこから徒歩5分程度である。
日野市が「新選組の街」とされているのは、土方歳三だけではなく、六番隊組長の井上源三郎や、新選組を支援した佐藤彦五郎が生まれた場所でもあるからだ。
だが、やはり人気は土方が圧倒的である。館内に入ると、土方の巨大パネルがドドンと現れた。
「来訪者の多くが土方ファンですね。土方歳三資料館の開館日に合わせて、こちらに来る方もたくさんいらっしゃいます」
館内のスタッフがそんな説明をしてくれた。土方歳三資料館で長蛇の列に並んだ身としては、さもありなんと納得するほかない。私も思わず土方グッズを買い込んでしまう。いかんいかん、取材をしに来たのだった。
土方歳三と近藤勇を結びつけたのは?
館内では、日野市とのかかわりだけではなく、新選組の誕生から京での奮闘ぶり、戊辰戦争での敗北、そして新選組の終焉までが、通史的に解説されている。
私が知りたかったのは、土方歳三が新選組局長の近藤勇といつ出会ったのか、ということ。二人は「幼馴染」と説明されることが多いが、近藤が生まれたのは武蔵国多摩郡上石原村で、現在の東京都調布市野水にあたる。土方と同じ多摩郡の生まれではあるが、10キロ以上離れており、幼少期をともに過ごすには遠すぎるだろう。
パネル展示の解説によると、土方と近藤を結びつけた一人の人物がいた。日野宿の名主である佐藤彦五郎である。
八坂神社の奉納額には土方の名がない?
土方歳三と近藤勇。この二人が出会ったのは、歳三の姉ノブが日野宿の名主・佐藤彦五郎のもとに嫁いだことがきっかけだ。彦五郎は、天然理心流「試衛館」に入門し、自身も自宅に道場を開設。農民でありながら武士に憧れた土方は、彦五郎の道場に通い、剣の腕を磨く。
その日野の道場に、試衛館の近藤勇や沖田総司が出稽古に現れるようになり、近藤・土方・沖田の3人が出会いを果たす。
日野駅からすぐの八坂神社で、天然理心流の門人たちは奉納を行った。残された額には、嶋崎(近藤)勇、沖田惣次郎(総司)のほか、佐藤彦五郎など日野宿の天然理心流門人23 人の名が刻まれている。1858(安政5)年のことだ。
土方の名前がないのは、正式に天然理心流へ入門するのが、その翌年の1869年、25歳のときだからだ。入門こそ遅いものの、すでに実践の練習は重ねており、その実力は織り込みである。
そして、1863(文久3)年2月、土方は試衛館の仲間とともに、浪士組として京に上る。これがのちの新選組となる。
日野宿本陣の地で汗を流した修行時代
八坂神社から徒歩約10分弱で、日野宿本陣に到着する。本陣とは、大名や公家、旗本、幕府の役人などの宿泊するための施設のこと。参勤交代など公用のときに、身分の高い人たちが泊まった場所だ。
名主の佐藤彦五郎はこの地に道場を開いた。そして土方は、近藤や沖田、井上源三郎たちと激しい稽古に励むことになる。
日野宿本陣ではガイドさんたちが、新選組について丁寧に教えてくれる。ガイドの一人である幕末研究家の松崎勇二さんが、土方歳三と佐藤家のかかわりについて語ってくれた。
「歳三は生まれてすぐに両親を亡くしています。いわば、姉のノブさんが母親代わりでした。だから、ノブさんが佐藤彦五郎のもとに嫁ぐと、歳三は佐藤家と非常に強い結びつきを持つようになります」
示された家系図を見て驚いた。土方家の長男はすべて「隼人」となっているではないか。
「土方家の長男は『隼人』で世襲されてきました。隼人になれなかった歳三は、外の世界に出て、突き進んでいくほかなかったわけです」(松崎さん)
そんな土方が武人に憧れて修行を重ねて、ようやく見つけた自分の居場所、いや、「生き場所」が新選組だった。しかし、明治新政府軍の台頭に、新選組は敗北を重ねていく。江戸から明治へと、時代が大きく変わろうとしていた。
故郷でリラックスしすぎて昼寝
1868(慶応4)年3月2日、近藤や土方たち新選組は、鳥羽・伏見の戦いで明治新政府に敗れると、江戸に集結。幕府の直轄領である甲府について「新政府軍より先に押さえるように」と幕府から命じられる。
新選組は「甲陽鎮撫隊」と改められて、近藤と土方は200~250名の隊士を率いて、江戸から甲府に向かう。その途中で隊士募集のために日野宿本陣に立ち寄っている。
土方も懐かしくて、ちょっと気が抜けてしまったのだろう。そのときに土方は、ぐうぐうと昼寝をしてしまったという。その部屋に私も寝転がってみると、確かに風通しがよくて気持ちよい。激動の渦中でさぞ疲れきったであろう身体を、少しは癒すことができただろうか。
立派な武人として生き抜いた
故郷で英気を養ったあと、土方は近藤とともに隊士を引き連れて、甲州へと向かう。だが、このときの滞在が、土方にとって最後の故郷となった。
日野を出てから約2ヶ月後、近藤が流山で明治新政府に捕縛されて、首を斬られる。そして、さらに1年後の1868(慶応4)年4月25日、土方も函館の地で戦死。35年の生涯に幕を閉じた。
最後に日野へと戻る前のことだ。新選組が「甲陽鎮撫隊」へと名が改められるなかで、近藤と土方も幕命によって、名を変えることになった。そのときに近藤は「大久保大和」と改名。その一方で、土方はこう名乗っている。
「内藤隼人」
土方家の長男である「隼人」に憧れながらも、自分の運命を受け入れて、全力で己の道を突き進んだ土方歳三。日野市を訪れたならば、そんな土方歳三の武人としての生き様に、ぜひ触れてみてほしい。
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