暗渠化した水路の上に立つまちのランドマーク
豊橋駅東口から駅前大通りを歩くこと約10分。右手に24階建ての白い高層ビルが見えてくる。駅前再開発によって誕生した「emCAMPUS(エムキャンパス)」だ。
2021年11月にオープンした「EAST」棟には、フードホールや市立図書館、行政機関、大学のサテライトオフィス、住居となるマンションを備え、豊橋市の新たなにぎわいの拠点として期待されている。
そんな真新しい高層ビルと対峙するように立つ“水上ビル”をご存じだろうか。豊橋市民なら知らない人はいないというほど、まちにはなじみ深い建物だ。昔から商店街として機能し、市民に親しまれてきたこのビル。実はまれにみる特異な建造物なのである。
3つのビル群で形成された長屋ビル群
“水上ビル”とは愛称で、豊橋駅から近い順に「豊橋ビル」、「大豊ビル」、「大手ビル」と3つのビル群で形成された、長屋ビル群のことを指す。どこが特異なのかというと、このビル群が水路の上に建てられているという点だ。農業用水である牟呂(むろ)用水を暗渠(あんきょ)化し、その上に建設されたコンクリート造3~5階建ての「板状建築物群」が“水上ビル”だ。
暗渠とは、川や水路の流れを見えないように地下に埋める、または蓋をすることを指す。暗渠化された川や水路は、日本の都市ではそんなに珍しくはないが、その上にコンクリート造の建造物が約800mという長さにわたって連なっているというのはなかなか見られない光景だ。
「相当なパワーがないとこんな建物は建てられないと思います。現代では絶対に不可能。建物としての強さが際立っている」とは、後述の黒野さんの言葉。
水路の上に建てる奇想天外なアイデアは前代未聞。なぜこんな建物が誕生したのだろうか。
戦後の焼け野原から立ち上がった商店街
“水上ビル”をなす3つのビルの中でもひときわ注目を集めているのが、9棟3階建て(一部4階)の建物「大豊ビル」を形成する大豊商店街(大豊協同組合)だ。
昭和39(1964)年に誕生した大豊商店街は、半世紀以上たった今なお現役で、人を惹きつける場所になっている。それは、水路の上という奇妙な立地に立つ建物という点と、それを活かすまちの人たちの取組みに理由がある。
“水上ビル”の成り立ちと、その中核をなす大豊商店街の歩みについて、大豊商店街代表理事であり、建築家でもある黒野有一郎さんに伺った。
“水上ビル”のうち、最初に誕生したのが昭和39(1964)年に完成した「大豊ビル」。このビルが建つ経緯にはさまざまな苦労があったと黒野さんは言う。
大豊商店街の歴史は、ビル誕生から15年ほどさかのぼった戦後の闇市に端を発する。
豊橋は戦災復興都市のひとつ。終戦後、空襲で焼け野原になった駅前には、いくつもの闇市ができていった。
「復興が進むと闇市の取り締まりが強化されるようになり、駅前の整備や美観を理由に、駅から離れた公共用地へと立ち退きを余儀なくされました。露店商たちは組織化され、公園や川沿いなどに移っていきました。そのとき、龍拈寺(りゅうねんじ)という寺に拠点を構えたのが大豊商店街のはじまりといわれています」(黒野さん)
当時、露店商たちを取りまとめていたのが山本岩次郎氏。のちに大豊商店街の初代理事長となる人物だ。山本氏は「きちんと自分たちの土地と店を手に入れなければ」と呼びかけ、仲間たちで毎日積み立て貯金をして昭和25(1950)年、駅前エリアにあった約700坪の小学校跡地を購入した。
このとき誕生した58店舗からなる木造雑居の「だいほうマーケット」が、大豊商店街の前身となる。
豊橋市生まれの黒野さん。進学を機に上京しその後、建築家としてのキャリアをスタート。2003 年に帰郷し、大豊商店街のなかに「一級建築士事
務所 建築クロノ」を設立。大豊商店街理事長、アートプロジェクト「sebone」実行委員長、豊橋まちなか会議副会長を務めるなど、“水上ビル”
一帯のまちづくりに尽力する令和のキーパーソンだ苦肉の策で捻りだされた奇想天外なアイデア
しかし、時代の流れは速く、昭和30年代半ばには再び立ち退き移転の話が持ち上がったという。
「駅前の一等地という場所柄、美観の問題や火災など防災上の問題が指摘されるようになり、移転せざるを得なくなったんです。とはいえ、新しく土地を買うお金なんてない。そこに、昭和38(1963)年に名古屋鉄道が名乗りをあげてくれて、マーケットのあった場所を買い上げてくれました。
それを元手に新しい土地を探すことになったけれど、マーケットが移転できるだけの十分な土地は見つけられず、そこで農業用の水路である牟呂(むろ)用水の上に建てるという苦肉の策に出たわけです」(黒野さん)
「土地がない、ならば水の上に」とは、なんと大胆な発想。生活のために捻りだした策が、特異なビル群を生むことになった。
こうして昭和39(1964)年に「大豊ビル」が完成。店主たちはビルを縦割りで所有し、1階を店舗、2階から上を住居や事務所にあてて、商売をスタート。完成時には卸問屋や小売店など59店舗が並び立ち、華々しく幕を開けた。
翌年には「豊橋ビル」、昭和42(1967)年に「大手ビル」ができ、世にもまれな水路上に立つ“水上ビル”が誕生したのである。
都市型アートイベント「sebone」。アートでまちの魅力を再発掘
“水上ビル”がある豊橋駅の「駅南(えきなん)エリア」を中心に展開する「sebone」。これまでと違った発想やアプローチで、新しい人の流れを
つくりだすプロジェクトとして発足。コロナ禍を除き毎年開催されてきた。2022 年度のテーマは「たゆたう」(9月3日、4日に開催)
大豊商店街が注目されているのは、特異な立地のためだけではない。
今、各地の商店街では空き店舗の増加が深刻化し、“シャッター商店街”の立て直しに苦労しているという話を聞くが、ここ大豊商店街はほぼすべての店舗が元気にシャッターを開けているという。その理由は、まちの内外の人が関わった、にぎわいづくりの仕掛けにある。
空き店舗がなくなったとはいえ、大豊ビルは誕生から58年。人間でいうとそろそろ還暦だ。過去には紆余曲折、辛酸をなめた時期もあったようだ。
「2000年代初頭はここも衰退の底にあったように思います。昭和40年代から日本全体が車社会にシフトし、その流れにフィットしなかったまちなかの商店街は疲弊していきました。大豊商店街も例にもれず、車社会に苦しんできたんです」と黒野さん。
車で郊外の大型ショッピングモールに出かけるライフスタイルが定着し、地元の商店街に足を運ぶ人は激減。大豊商店街のなかでも1階の店舗を閉め、シャッターを下ろす店が増え始めた。
そんな低迷期に、アートでまちを元気にするプロジェクト「とよはし都市型アートイベント sebone(せぼね)」が始まった。
「sebone」実行委員会の委員長を務めたこともある黒野さん。
「この場所がおもしろい、って言ってくれる人は、まちの外の若い人たちでした。この場所に住む人でもないし、アクションを起こさなくてはいけない人でもなく、商売を盛り上げたいという人でもなかった。僕は、建物をアートとして使うことができるんだということが最初は不思議でしたし、水上ビルを作品の一部として見るという視点が新鮮でした」と振り返る。
2004年のスタートから12年経った2016年には、愛知県主催の現代アート展「あいちトリエンナーレ」のサテライト会場として使われたこともあり、“水上ビル”は県内外の人たちからさらに注目を集めることとなった。
“水上ビル”をまちの背骨に見立てて名付けられた「sebone」は、「背骨がしっかりしていれば、しゃんとたてる」というメッセージが込められている。来場者にまちの魅力を知ってもらうだけでなく、その場所の歴史や記憶といったものをまちの人たち自身が再認識するきっかけづくりとして、現在も続いている。
梅雨時期を狙った「雨の日商店街」
「sebone」のほかにもう1つ「雨の日商店街」という取組みがある。空き店舗や店の軒先を利用したアンティークマーケットで、大豊商店街50周年記念事業の一環として展開されてきた。
「日頃、屋外のマルシェで活動している人たちも梅雨時期の6月はイベントの閑散期。アーケードがある商店街の強みを活かしてあえて6月の梅雨時期に開催してきました。空き店舗を出店場所として提供することで、普段のマルシェなどでは置けない大きい什器を設置したり、商品の陳列や装飾を工夫したりと、お試しで店を構えることができます」(黒野さん)。
こうした「sebone」や「雨の日商店街」といった取組みが奏功し、「大豊商店街に店を出したい」「住んでみたい」という問合せが増え、当時10店舗以上あった空き店舗は現在ゼロになった。
堅牢なビル群の中に新旧個性的な店が立ち並ぶ
「いつものお願いね」で通じる常連さんたちが集う純喫茶「キャロン」。内装は変わっているものの、「開店したときからほぼ何も変わっていな
いよ」とのこと。“レトロ風”ではない、50 年以上続く老舗の存在感を外観からも感じる昔ながらの駄菓子店や花火の卸問屋が現役で営業していたり、クラフトビール、ジンジャーシロップの専門店ができたりと、新旧入り交じったおもしろさが味わえるのが“水上ビル”の魅力。大豊商店街に店を出す人たちに話を聞いてみた。
水上ビルの歴史とともに歩んできた「喫茶キャロン」。レトロブームもあってか、最近は若いお客さんもちらほら訪れ、写真を撮っていくのだとか。
「一時は人通りも少なくなったけれど、最近は再開発のおかげもあるのかにぎやかさが戻ってきた」と話す。
「雨の日商店街」での出店をきっかけに大豊商店街に店を出した「無名COFFEE STAND」。1階部分が店舗で、2階、3階には大家さんが住んでいるという。
「雨の日商店街でまちの雰囲気を知ることができたのは大きかったですね。何か足りなくなったら買いに行けるお店が並んでいるし、商店街の方がコーヒーを買いに来てくれるのも嬉しくて。ここだったらお店を出しても楽しめるかなと思いました」と出店の理由を教えてくれた。
大豊商店街に店を出して3年半という「Aukai General Store」の仙島さん。もともとは靴の販売店だった場所を借り、リノベーションして店を出している。
「水上ビル自体がパワーのある場所。家賃が安いのもあるし、チャレンジの場所としてちょうどいいサイズ感だった」のが出店を決めた理由だったという。
子どものころから水上ビル周辺で遊んでいたという仙島さんは、最近の“水上ビル”についてこう話す。
「再開発のおかげもあってなのか、この1年で新しいお店も増えて勢いがあるなと感じます。90年代の水上ビル周辺は地元の人たちから“裏原宿”と呼ばれていて、ドメスティックブランドを扱うお店もたくさんありました。その後リーマンショックの影響で閉めてしまったお店もたくさんあって、10年くらいは寂しい状態が続いていた気がします。今は、まちなか図書館もできたし、人の流れが少しずつ変わってきているので、これからどう変化していくのか楽しみです」と話してくれた。
“おわり”に向けての準備段階。元気に使い続けることが使命
戦後の混乱期から紆余曲折ありながらも生き延びてきた水上ビル。しかし、やがてどの建物も終わりを迎える。
大豊商店街50周年を迎えた2014年に黒野さんは「20年生き延びる宣言!」を掲げた。
「宣言に込めた想いは2つあります。1つは、まだ20年続くから投資をしても大丈夫ですよ、という外向けのメッセージ。もう1つは、20年後にはなくなるからそれまでに準備をしましょうというビルに住む所有者に向けてのメッセージです。
店を出してみたい人にとっては20年あれば、何らかのチャレンジができます。所有者たちは建て壊す際の費用について考えたりする時間があるわけです。
コンクリートの寿命はおよそ80年。だとするとまだ時間はある。でもいつかくる“おわり”に向けての準備をしていく必要があると感じています」(黒野さん)
宣言からすでに8年が経過。民官学でまちの未来を考える「豊橋まちなか会議」が策定する「まちづくりビジョン」では、「水上ビルがない未来」というスキームも想定されている。
やがてくる“おわり”に対してのビジョンについて、黒野さんに尋ねると
「そろそろ真剣に話そうよという流れにはなってきているけれど、まだ具体的に想像はできていません。
20年というと、テクノロジーとしては革新的な変化が期待できる年月でもありますよね。ペタペタ塗ったら耐震問題も簡単にクリアできちゃう何かが開発されるとか。もしくは、昭和の産業遺産として残していこう、という話も出るかもしれない。どちらにせよ、元気に楽しく使い続けることが建物の劣化を防ぎますし、行く末の選択肢を増やすことにもつながると思っています」と答えてくれた。
ポジティブな縮小へ向けて
水路の上に立つ“水上ビル”。特異な場所にあるこの建造物は、現在のルールに照らせば再建築は不可能だ。
黒野さんは、建築会報誌「ARCHITECT」の中でこう記している。
「そのとき、果たして『おわり』は悲しいモノだろうか? とも考える~中略~もっとポジティブな縮小への模索が、膨張する社会(足りない社会)ではできなかった、縮小する社会(足りている社会)での『豊かさ』へとつながるのではないかと空想する」
“ポジティブな縮小”や“美しいおわり”については、商店街に限らずこの先さまざまな場面で私たちが対峙する問題だ。この先、“水上ビル”がどんな道をたどるのか、多くの人が関心を寄せるだろう。
なくなってしまうことを考えると寂しさが押し寄せるが、まだまだ「20年生き延びる宣言!」は継続中である。戦後の混乱期から立ち上がった人々のたくましさを受け継ぐ大豊商店街。これからどんな景色を見せてくれるのだろうか。まだ訪れたことがない人は、世にも珍しい水路上に立つ商店街を一度見ておくことをおすすめする。
【参考・写真提供】
IA(公益社団法人)日本建築家協会東海支部/ 会員向け機関紙「ARCHITECT」2014.12~2015.10
「DAIHOU Journal」vol.1~6
豊橋駅前大通地区まちなみデザイン会議(駅デザ会議)
http://ekidesign.info/
Sebone実行委員会
http://seboneart.com
豊橋まちなか会議
https://toyomachi.jp
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