船橋夏見台の営団住宅
これまで何回か1941年に設立された住宅営団のつくった団地について書いてきたが、今回はその最終回、千葉県内の3つの団地について書く。
メインは船橋市夏見台にある営団住宅である。
1960年代初頭に生まれたときから25年間営団住宅のほぼ隣の家で育ったという男性がたまたま30年以上前からの友人だったので、彼に同行してもらって、当時のことを聞きながら町を回った。
営団夏見住宅はJR船橋駅からバスで10分ほどの高台にあり、今は夏見台という地名になっている。1965年の国土地理院データベースの写真を見ると、川沿いの田んぼに挟まれた高台がまるでマンハッタンのようである。その南端にある四角い区画が夏見住宅である。
夏見住宅以外はほぼ畑であり、友人の話だと当時は養豚場や養鶏場があり、卵は養鶏場に買いに行ったそうだ。当時の住宅地にも夏見住宅の西側(地図の下側)のすぐのところに養鶏場が見える。
商店が団地内にあるのは、住宅地でなく町をつくる意図があった
また面白いのは団地といっても商店がたくさん含まれていることである。
同じ住宅地図で夏見住宅を詳細に書いたものを見ると、商店などが50軒近くある。この時代の営団住宅としては必須の銭湯も中央公園の隣にあり、医者や助産所もある。
商店の業種は肉屋、魚屋、八百屋、食品店、米屋、パン屋、揚げ物屋、乾物屋、ふとん屋、電器店、燃料店、畳屋、印刷屋、クリーニング屋、床屋、美容室、牛乳店、飲食店ではそば屋、天ぷら屋があったようだ。
営団敷地内ではないが道を隔ててすぐに文具店、レコード店もあり、友人はそこでフォークソングのLPなどを買ったという。そのレコード店は「銀座十字屋」である。
銀座十字屋がこんなところに(と言っては失礼だが、こういう郊外の庶民的な住宅地に)出店していたとは驚いた。だが、有名なUR高島平団地にも銀座十字屋はあったらしいから、もしかしたら大きな団地に積極出店していた時代があるのかもしれない。その点については今後調査したい。
それはともかく、いわゆる「独立専用住宅」だけでなく、職住一致の商店などがこれほどたくさん団地内にあるのは、スーパーマーケットがまだほとんど一般に普及していない時代とはいえ、団地を単なる住宅地ではなく、町としてつくろうとしていたということであろう。そのあたりが、URが戦後つくった団地との違いである。戦後のURの団地にも職住一致の商店はつくられたが、住宅とは離れて「商店街」という街区としてつくられた。団地の5階から、子どもがサンダル履きでお使いに行くにはちょっと抵抗がある、という距離感である。
それに対して夏見住宅はまさに家のすぐそばに店がある。子どもがすぐにお菓子を買いに行ける、大人が子どもに煙草を買ってきてなどとお使いを頼むこともできた。そもそも今は煙草や酒を買いに子どもをお使いに行かせられない。まったく不自由な世の中になったものである。
中山競馬場の隣にある営団若宮住宅
市川市には2つ営団住宅がある。
1つは京成中山駅から徒歩10分ほどの高台にある営団若宮住宅である。東側は中山競馬場。駅から営団住宅までの間には法華経寺があり、非常に広い敷地のお寺の各施設が点在していて、なるほど市川が「東の鎌倉」と呼ばれた理由が実感できる。
地図で見ると、夏見住宅の西にイオンタウン新船橋があるが、ここは昔旭硝子の工場があったそうで、夏見の公園のベンチで話を聞いた男性によれば、自分は夏見の住民ではなく、大きな工場の屋根を葺く仕事をしていたが、夏見の住民は旭硝子などの工場に通っていたという。
イオンタウン新船橋の西が行田公園。ここは陸軍の通信施設があったところで、今も地図で見ると巨大なアンテナの円形が見える。
行田公園の西が中山競馬場で、その西が若宮住宅である。営団と軍事施設と軍需工場が連なっていたのだ。
住宅は夏見同様庶民的なものであり、住宅の種類も夏見より多様だったのではないかと思われた(詳細は不明)。銭湯は今も営業中である。
国府台は高級住宅地に変貌した
市川のもう1つは国府台にある。JR市川駅から10分以上だろうか。ここも名前の通り高台である。
ここの営団はほぼ100%建て替わっているように思われ、しかも高級感のある家も多い。
国府台は軍隊があったので、もしかすると軍需工場で働く工員というより、比較的位の高い軍人も多く住み、結果としてその後高級住宅地化したのかもしれない。ここでは1軒だけ原型に近い家を見つけることができた。
検見川の営団住宅は田園都市的な街路がつくられた
千葉県の営団の最後は千葉市の検見川である。JR新検見川駅から徒歩で数分である。ここの営団は設計図面を発見できていないので詳細がわからないが、現状の街路は正確なU字形をしており営団住宅としても同潤会としてもかなり珍しい。同潤会が欧米の田園都市を研究していたためであろうか。
こちらの営団もかなり建て替わっているが1戸あたりの敷地が大きく、住宅も大きいのが特徴だ。大通りの中央分離帯の樹木も立派である。
営団住宅や同潤会住宅が建て替わる場合、隣の敷地を併せて購入することは珍しくないが、もし検見川がそうだとしたら、ほぼすべての建て替えで、隣の敷地を買ったことになる。それは現実には考えにくい。最初から広めの敷地だった可能性が高い。駅からも近いので空き家が出ればすぐに買い手がつくという。
実は若宮にも知人が住んでいたので、京成中山駅から若宮住宅まで案内してもらった。先日原稿をアップした東大宮でもやはり知人が住んでいて案内してもらったのだが、なぜ営団住宅の近くにこんなに知り合いがいるのか不思議である。
もしも理由があるとしたら、3人とも1960年代前半生まれなので、彼らが生まれて親が家を買うころに住宅地として売りに出された土地が営団の近くだったという仮説はありえる。電気、ガス、水道というインフラがもう近くまで来ているから、開発がしやすかったからだ。
夏見の友人以外は、生まれた土地というわけではないが、配偶者の家の近くとか、生まれた家の近くということはあるらしい。真新しいニュータウンで生まれ育った世代ではないために、簡単に言えば昭和の匂いのする住宅地を選んだということもあるかもしれない。その点については今後検証したい。
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