川崎区と幸区から工業地帯として発展が始まった川崎市
川崎市というと、臨海部は大工場地帯、丘陵地帯が小田急線や東急田園都市線沿線の住宅地、最近は武蔵小杉のタワーマンションが思い浮かぶであろう。
だが、京浜工業地帯として発展した川崎は、戦前は今の川崎区と幸区だけが市内であり、そこを中心として工業化に伴う人口増加を受け入れる住宅が供給された地域である。
武蔵小杉のある橘樹郡中原町は、昭和初期までは農家が副業として醤油やそうめん、紙などの手工業製品を生産していただけであった。1926年には東横線が開通し、沿線の発展が始まった。南武線沿線の武蔵小杉から溝の口までは畑作地帯であったが1930年代に多くの軍需工場が進出したのである。
だが南武線沿線を遠くから見渡すと、武蔵小杉はもちろん溝の口周辺は、鹿島田駅や横須賀線の新川崎駅のあたりにも多くのタワーマンションやオフィスビルが目に付くようになった。
川崎は、1925年には既に工業人口が37%もいた
1919年には川崎(川崎町と田島町)を本籍地とする人口が8500人に対して、川崎在住だが川崎を本籍地としない流入人口が1万4千人となっていた。
1902年と19年では人口が4倍近く増え、1925年の国勢調査では産業別人口のうち農業が11%に対して工業が37%となるほど工業都市化が急激に進んだ。
こうした工業都市としての急発展と人口急増に対応して、1920年代から職業紹介所、公設住宅、託児所などの各種社会事業が展開されていた。東京でも江東区、墨田区、荒川区などで、それらの社会事業が展開されていた時代である。同潤会による不良住宅改良事業もそのひとつである。
住宅建設のための「川崎住宅株式会社」が住宅を供給した
1924年、川崎は川崎町から川崎市となった。28年には川崎市として都市計画法が施行され、38年には「輝かしい理想的工業都市」を実現すべく「文化的集団住宅」の建設を提唱した。
パンフレットには「文化的集団住宅」建設は「工都川崎の発展障害としての不断の悩みである住宅問題の解決の一助として、輝かしい理想的工業都市現出の目的を達成せんとするものである。」「産業平和労使協助の実績を上げ、併せて工都多年の懸案解決を具現化することは多大の意義あるものと認め、つとに文化住宅設定を提言するものである。」と書かれた(川崎市役所「川崎住宅株式会社創立経過」1939年)。
また川崎市は、市内の会社工場9社 (日本鋼管、富士通信機製造、東京電氣、東京自動車工業、東京電気無線、東京瓦斯電気工業、芝浦マツダ工業、三菱重工業、東京機器工業)をメンバーとして、住宅建設のための「川崎住宅株式会社」を1939年に設立し、住宅を供給した。
国としても38年に厚生省が設立、39年に住宅課が新設されて、「労務者住宅供給三カ年計画」が施行、工場地帯の住宅難に対応することとなった。
こうして川崎市では1940年時点で440戸の公営住宅が完成していた。さらに国の低利資金を神奈川県を通じて同潤会に供給することで、現在の川崎区大島町に同潤会による分譲住宅も建設された。
1940年ごろの川崎町中心部の公営住宅居住者には職工が8割を占めた
公営住宅は民営賃貸住宅の7〜8割の家賃だった。当初は川崎中心部にある公営住宅の居住者の職業は約8割が官吏や教員であり、会社員は1割、職工は5%ほどだった。
職工はもっと家賃の安い地域の公営住宅に住んだというから、職工向けの住宅はまだまだ不足していたと思われる。
だが1940年ごろには、公営住宅の居住者は職工が8割を占めるほどになっていた。工場労働者の街・川崎の原型がこのころつくられたといえる。
公営住宅が建設された場所は、古市場多摩川風致地区、南武線小田急交差点多摩川堤防寄り、中原高津境・南武線武蔵新城駅付近だった。古市場が風致地区だったというのが驚きである。多摩川べりの自然豊かな場所だったのであろう。
古市場住宅地造成事業は、計画的に住宅地を造った
特に1941年に同潤会から引き継がれた住宅営団が建設した古市場は、敷地面積33万平米以上という広大なものであり、「その規模の大きさと計画の完成度において特筆されるべきものである」という(北川(佐々木)恵海「二十世紀前半の川崎市における都市行政の展開過程」学習院大学人文科学論集28号、2019)。
もともと川崎市の都市計画課が1937年頃に古市場の住宅地化計画を打ち出しており、それを住宅営団が引き継いだ。
「住宅営団による古市場住宅地造成事業の具体的な設計がまとまるのは1941年であり、建物の敷地に十分な余裕を持たせることや、幹線道路の配置、緑地・公園・遊歩道・国民学校の設置、1200の日用品市場、その他の福利施設用地を配することが川崎市から営団に要望され、概ねそれに答える形で計画が立てられた」(同論文)という。
古市場は庶民のための田園都市という雰囲気がある
実際行ってみると確かに公園が多く、街路が中心部で卍(まんじ)型を描いて四方に放射しており、田園都市的な街区をデザインしようとしたのだろうと推測される。今でも公園が多く、子ども達がたくさん遊んでおり、ベンチには高齢者が座るなど、なかなか快適な雰囲気である。同潤会の西荻窪、赤羽、砂町などの住宅地を彷彿とさせる。
他方、古市場の最寄り駅は南武線鹿島田駅であるが、こちらは駅前の再開発が進み、駅南口にはタワーマンションが建っており、古市場との対比が鮮やかである。
80年間という長い時代の差はあるが、しかし一体どちらの住宅が人間の居る場所としての本質をよく考えていると言えるのか、私はちょっと疑問に思うが、いかがだろう。
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