菊名駅からすぐの錦ヶ丘は富士山が見える住宅地
東急東横線の菊名は、そこに住んでいなくても新幹線の新横浜駅に乗り換えるために駅を利用した人は多いだろう。
その駅の南西部の丘の上に東横電鉄は住宅地を開発し1927年に分譲した。分譲当時の宣伝文句は富士山が目の前に見え、横浜港を見渡せるというものであった。
現在の上皇様の生誕を記念して、34年、道路に桜335本と楓100本を植えて、「錦ヶ丘」と自称するようになり、71年に正式な町名となった。
錦ヶ丘の南側は富士塚という町名である。大正初期まで富士浅間神社(ふじせんげんじんじゃ)と富士塚があったのだ。
その後、宅地化により塚は無くなったが、1971年に富士塚がそのまま町名となったという。
菊名は東横線住宅地のモデルだった
五島慶太は菊名で「模範的な家を2軒か3軒作って」これを「おとりにして」、その他の地区でも分譲地を売り出したと言っているので、菊名の住宅は質が高かったのだろう。
だが、29年の世界恐慌もあり、「さっぱり売れません」という状態が2、3年続いた。
当時はまだ横浜では職住一致が普通であり、横浜から東京など遠くの勤め先や自分の経営する店に通うという人が少なかったことも一因であると五島は書いている。
田園調布のようなロータリーもある
行ってみると、いかにも東急らしい立派な住宅地である。
もちろんすでにほとんどが建て替わっていると思うが、建築家に頼んだと思われる家も少なくなく、土地の分割もあまり進んでいないものと見受けられた。
当時のパンフレットには「高台にして大気清浄眺望絶佳なり。各区割とも道路下水完備し水質良好なり。地区内幹線六間道路は県道に連絡せるため自動車の出入自在なり」とモータリゼーションの時代への対応も謳っているから、かなり富裕な人々が住んだのであろう。
坂を下っていくと田園調布と似たような半円状のロータリーがある。錦ヶ丘の南北東の三方から坂を下ってきた場所である。本当ならロータリーを駅前にしたかったのではないかと想像するが、どうなのだろう。
住宅地開発をあきらめて大倉山精神文化研究所ができた
菊名の隣の大倉山というと、大倉山精神文化研究所という研究所があり、また大倉山という地名自体が、どことなく高級感が漂う。だが、実際歩いてみると住宅地としてはそれほど高級というわけでもない。
もともと東急はこの丘でも住宅開発を目指していた。丘の上の住宅地ができれば高級なものになっただろう。
だが、急な坂であり、鶴見川の氾濫で駅前が水没する危険もあり、丘の上の開発はやめたという。
鶴見川は大倉山の北側の大曽根地区だけでなく大倉山に沿うように蛇行して大倉山の西側の太尾地区にも流れているからである。
急な坂は菊名もあるので、駅前水没のほうが主な理由だったかもしれない。
そこで、実業家で後に東洋大学学長を務めた大倉邦彦(おおくら・くにひこ)氏に土地を売却することになり、大倉精神文化研究所の建築が決まったのだった。
大倉山にある東横神社
駅の西にある大倉山公園は1931年、太尾(ふとお)公園として開園したもので、大倉山公園と改称したのは精神文化研究所ができたあとに1934年だという。駅名が太尾駅から大倉山駅に改称したのは32年だ。
精神文化研究所の近くからは遠く都心を望むことができる。
また精神文化研究所の近くには東横神社がある。これは1939年、東急の創業者・五島慶太が伊勢神宮より御分霊を勧請し創建され、渋沢栄一ら、東急の発展に貢献した44人がまつられた。59年には五島慶太も合祀された。東急の私有地のため一般公開はされていない。
東横神社と梅林
東横神社の北側には梅林がある。
これは大倉山にある寺院・龍松院(りゅうしょういん)の土地を東急が買収し、約4万3000平方メートルの土地に350本の梅を植えたもの(その後も移植し1000本を越えたが80年頃にはまた500本ほどに減ったらしい)。
1960年代になると梅の時期に臨時急行「観梅号」が大倉山駅に止まったこともあるという。
1980年代には梅林をテニスコートにする計画が東急内に浮上したが、地元住民の大反対にあい、横浜市が梅林を1983年から86年にかけて買収。87年に、横浜市が公園として再整備し、開園した。
このように東急の精神的総本山という雰囲気が大倉山にはあり、そのことがこの地に独特の高級感というか、ちょっと普通とは違う近寄りがたい雰囲気を醸し出しているようだ。
農業とのつながりは大事
大倉山の南側の麓には農家らしき家もあるが、商店街(バス通り)の南側の平坦地にある住宅地は普通の郊外中流住宅地である。
商店街はバブル時代にギリシャ風の外観に統一した。大倉山精神文化研究所の建物がギリシャ風だからであろう。
あれから30数年経っているが、きれいなままである。空き店舗もなく人通りも多い。
綱島の原稿でも書いたが、大倉山の周辺は農村的な風景が残り、農地も少し残っている。地元の野菜を使ったレストランもあり、ちょうど取材の後にお昼時となったので、食べてみたが美味しかった。郊外にこうした「農」とのつながりがつくられているのは嬉しい。
従来の郊外開発は、それまで何もなかった郊外をできるだけ都会的な空間に変貌させることに躍起になっていた。
だが、これからは農村的な風景や地元野菜などがすぐ近くにあることをメリットとしてもっとアピールするようなまちづくりが求められるだろう。
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