文士たちはお笑いタレントでもあった
大田区馬込といえば文士村である。
大正から昭和にかけて小説家が多く住み、画家なども多かった。「新宿郊外の中央沿線方面には三流作家が移り、世田谷方面には左翼作家が移り、大森方面には流行作家が移つていく。それが常識だと言ふ者がゐた。」と井伏鱒二は書いている(『荻窪風土記』)。東中野駅から新宿区落合にかけては作家や芸術家が多く、妙正寺川沿いは「落合文士村」といわれたのである。
馬込文士村は流行作家であり、一番有名なところで川端康成が短期間だが住んだ。
ほかに、宇野千代、尾崎士郎、稲垣足穂、高見順、萩原朔太郎、吉屋信子、室生犀星、山本周五郎、佐多稲子、村岡花子、石坂洋次郎、和辻哲郎ら40名ほどの小説家、画家、哲学者が住んだ。同時に住んでいたのではないし、生涯を馬込で住んだとも限らない。
一番最初は画家の川端龍子らしく、明治42(1909)年に住み始めている。3番目がやはり日本画家の小林古径で大正初期。当時の馬込は自然が豊富だったからスケッチにふさわしかったのだろうか。昭和になると宇野千代、尾崎士郎、川端康成らが一挙に住み始め、文士村の雰囲気が出てくる。
といっても静かに本を読み、小説を書いていただけではなく、麻雀をしたり、相撲を取ったり、ダンスをしたり、恋愛をしたり、同棲をしたりと、遊びまくっていたらしい。
小説家の島田雅彦がラジオで話していたのを聞いてなるほどと思ったが、小説家は今はどこか真面目な人が多いが、昔はお笑いタレントみたいだったという。昔はテレビがないからお笑いタレントという人はいない。落語家と漫才師がいてラジオで聞く程度である。そのかわり小説家が面白い話をしたり、遊んだりして、人々の注目を浴びていたというのだ。現在はお笑いタレントが小説を書いたり映画やアニメを作ったりするが、昔は小説家がお笑いも担ったのだ。
馬込は牧場か駅か
馬込とは馬が込む=混む、つまりたくさんいるということである。古代から鎌倉時代にかけて野生の馬がいたか、その馬を武士などが使うために牧場があった可能性がある。あるいは主要な街道があり、そこに駅があったのだろう。
駅とは馬が沢山と書く。つまり馬込である。駅を昔は「うまや」とも読んだ。つまり街道を馬に乗って、あるいは馬に荷物を背負わせて人が移動する。馬も疲れるので休む。あるいは新しい馬に替えてまた旅立つ場所が駅である。
北馬込2丁目に「天沼」という地名が昔あったらしい。今も町内会や公園の名前に「天沼」が残っている。天沼とは天にある沼という意味ではなく、「余る馬」の意味である(荻窪にも天沼という町名があるが、これも同じである)。このことからも北馬込あたりに昔駅があったのではないかと推測される。
実際北馬込2丁目は標高が高く、図書館など行政施設もあり、地域の中心という雰囲気が漂う。馬込村役場のこのへんにあったはずである。
海を見晴らす邸宅跡
さて今回の馬込探訪のコースは、大森駅から池上通りを南下して、新井宿というあたりから、臼田坂という坂を上り、ずっと北上して環状七号線を超えて北馬込までである。この道が馬込地区を縦断しており、地元では田無街道と言われている。東京の武蔵野市の北側にある田無と馬込が古くから街道で結ばれていたらしいのだ。
本論とは話がそれるので、田無街道の詳しい話はおいておくが、江戸時代になる前から東京は府中の武蔵国国府、鎌倉幕府、品川の荏原神社、池上の本門寺などなどが街道で結ばれていたのである。
新井宿には30年ほど前まで大田区役所があった。今は文化会館である「大田文化の森」がある。
そこから臼田坂に向かうと、「いにしへの東海道」と彫られた石碑が建っている。すぐに桜並木の道があるが、これがかつては川だった暗渠であり、石碑は川を渡る橋のあたりに建つ。橋は昔の東海道あるいは奥州街道などの街道が川を渡るための橋である。
東海道にも歴史的にいろいろな段階があり、江戸時代は海沿いに東海道が整備されたが、それ以前はもう少し北側にあったらしい。さらにもっと昔、古代は神奈川県の平塚から府中に向かい、そこから先ほどの荻窪の天沼を経由して駒込方面に向かう道が東海道だったというのだから、驚く。
こういうわけで、旧・大田区役所は、江戸時代以前から以後にかけての歴史的な宿場である新井宿につくられたのだろうと想像が付く。
臼田坂を上り始める前に早速道草を食った。昭和16年の地図に、臼田坂の西に佐伯邸という大邸宅があったと書かれているからである。
行ってみるとかなり急な丘の上に佐伯邸はあったようだ。階段を何十段も上ると見晴らしの良い、立派な木がたくさん植わった佐伯山緑地公園がある。佐伯邸の名残はないが、蔵だけが残っている。
佐伯邸は日本の栄養学の創始者・佐伯矩(さいき・ただす)の自邸だったという。海が東海道線のすぐ先にあった時代には、手に取るように海が見えたであろう。旧・佐伯邸の隣にも高級そうなマンションがあるが、ここからの眺めもさぞかし良いだろう。
鎌倉時代の歴史を感じさせる地域
旧・佐伯邸から下るときは階段ではなく、坂道を下ってみたが、イギリスの名車MGのクラシックカーが置かれた家がある。
今までの私の経験でも馬込や山王あたりの高台には外車が多い。それも最新のベンツやBMWというのではない。1950年代から60年代の名車がガレージに置かれている家が多いのである。
山王は明治時代は上流階級の別荘地、その後、鉄道が通じると住宅地になった地域であり、一般庶民の住む場所ではなかった。だからおそらく自動車をマイカーとして買うような人も日本でもいちばん早かったのではないかと思う。
坂を下りて臼田坂に向かうと、緑に囲まれた巨大な建物があった。日本画家・川端龍子の美術館である。規模はかなり大きく、デザインも大胆である。その向かいが龍子の自宅兼アトリエ。広い庭の中に龍子自身が設計したという、和風だが個性的な家が建っている。中も見られる。さすがに様々な意匠を凝らした家である。
ちなみに臼田坂という名前はこの地の有力者の臼田家に由来するそうで、たしかに龍子美術館の近くには臼田家の表札が多く、ほかにも立派な家がたくさんある。
しばらく坂を上ると「磨墨塚(するすみつか)」がある。磨墨とは馬の名前である。源頼朝の家臣・梶原景季(かげすえ)の愛馬であり、その墓である。梶原家は鎌倉時代に馬込の領主だったらしく、万福寺という寺には景季の父・景時のものとされる墓がある。馬込には鐙坂(あぶみざか)という坂道があるが、これも磨墨が鐙を落としたという逸話による。このように馬込、田無街道は、文士村というだけでなく、鎌倉時代の歴史を感じさせる通りなのである。
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