阪神淡路大震災がきっかけで誕生した「ヘリテージマネージャー」
歴史的建造物には、日本の文化や時代の記憶が刻まれており、私たちのアイデンティティを形づくる重要な文化資源といえる。
しかし、古い建物の価値を知る人がいなければ、守られずに失われてしまう。実際、1995年の阪神淡路大震災により、多くの歴史的建造物が倒壊し、再生されずに失われてしまった。これをきっかけに誕生したのが「登録有形文化財」制度と「ヘリテージマネージャー」だ。
1996年から始まった「登録有形文化財」は、条件が厳しい国や県指定の制度とは異なり、外部を大幅に変更しなければ内部をさまざまな形に活用することが可能な緩やかな制度だ。
登録の基準は、建築後50年を経過した建造物で、①国土の歴史的景観に寄与しているもの、②造形の規範となっているもの、③再現することが容易でないもの、に該当するものとしている。
そして、歴史的建造物を保存・活用・維持保全などのための活動として「ヘリテージマネージャー」制度がある。(「ヘリテージ(Heritage)」=遺産、「マネージャー(Manager)」=管理者)
震災を経験した兵庫県で、2001年にヘリテージマネージャー養成講座が始まり、その後全国に広がった。愛知県では、講座の受講は建築士であることが要件で、計60時間の講座を修了すると「ヘリテージマネージャー」に登録できる。地域に眠る歴史的建造物を発見することや、保存や活用に向けた助言をすること、調査や資料作成などができる人材の育成を目指している。
2022年までに、全国で5,000人以上のヘリテージマネージャーが誕生した。
あいちヘリテージ協議会を立ち上げた経緯
愛知県では、2011年からヘリテージマネージャー養成講座を開始。翌年には「あいちヘリテージ協議会」が設立され、愛知県内の歴史的建造物を守る活動を続けている。
今回は、特定非営利活動法人(NPO法人)あいちヘリテージ協議会の代表・下會所(しもかいしょ)豊さん、副代表・落合義紀さん、理事・市川真奈美さんに、愛知での活動内容を伺った。
代表の下會所さんは、あいちヘリテージ協議会の立ち上げから関わった人物だ。協議会を設立した理由として「講座を受けて資格を取っただけで仕事をするのは難しいから」だと語る。
「歴史的建造物は現代建築とはまったく異なり、調査や登録作業をするためには深い知識が必要です。かなりの勉強量が必要なうえ、個人で仕事を請け負うことも難しい。そのため、みんなで勉強しながら協力してやろうと、自治体職員の呼びかけにより、あいちヘリテージ協議会を設立しました」(下會所さん)
愛知では、これまでに養成講座の8期が終了し、約230人のヘリテージマネージャーが誕生している。(2025年5月現在)
深い知識を必要とするヘリテージマネージャーの活動
あいちヘリテージ協議会では、歴史的建造物の調査・保存・改修工事、登録有形文化財の登録業務、講座・勉強会の開催などを行っている。
まず、歴史的建造物の調査をするためには、時代ごとの建物の特徴を幅広く知っておく必要がある。建築の年代の特定は特に重要で、場合によっては「棟札(むなふだ)」という建設の年や大工の名前が記されたものが残っていることがある。
調査によって建物の年代や価値が特定できたら、書類をまとめ、登録有形文化財への申請をする。2025年5月1日の文化庁のデータによると、登録有形文化財は全国で14,376件あり、大阪府がもっとも多く885件、次に兵庫県の788件が続く。愛知県は574件で、新潟県と並び、全国で5番目に多い。
あいちヘリテージ協議会では、これまでに17ヶ所、52物件の登録を行ってきた。知多郡美浜町にある野間郵便局旧局舎は、市川さん達が登録、改修を担当した。
また、ヘリテージマネージャーとしてスキルアップするために、各種専門家を招いての講座や勉強会を開催している。
「現代建築と歴史的建造物は全然違うので、普段の建築の仕事をしているだけでは古い建物のことはできません。奥が深すぎて、少し勉強しただけでは全然足りず、今も学びながらなんとかやっているという感じですね」(市川さん)
歴史的建造物を守るための課題は山積み
あいちヘリテージ協議会の活動は、地域の歴史・文化を守るという社会的に大きな意義があるだろう。しかし、課題は山積みだ。
まず、歴史的建造物の改修には、多額の資金が必要になることが多い。各種補助金はあるものの、それ以外の行政的な支援はほとんどないため、改修後の活用方法やマネタイズまでしっかり考えなければならない。また、登録をする際は各自治体に提出するが、知識を持って対応できる職員も不足しているという。
古い建物の改修ができる大工や左官などの職人の高齢化も問題だ。昔からの知識や技術を持った人がどんどん減っており、仕事をできる人が少なくなっている。
そして、建築士にとっては、歴史的建造物の仕事はほとんど収益につながらないことも大きなネックになっている。収入にならないため、ヘリテージマネージャーとして活動したい人が少ない。「あいちヘリテージ協議会の活動は、ほとんどボランティア」だと下會所さんは言う。
「お金にはならないかもしれないけれど、社会的価値のある活動です。誰かがやらないといけないから、やっているんですよ。かっこよく言うとね(笑)」(下會所さん)
下會所さんの言葉は行動にも現れている。あいちヘリテージ協議会の管理建築士として登録するために、約3年前に自身の設計事務所を閉鎖したのだ。協議会で大きな仕事を請け負うためには、一級建築士の資格を持った人が管理建築士として登録する必要があり、下會所さんがその役割を担った。
「私はもう年だし、自分の事務所は辞めてもいいと思ったんです。お金にはならなくても、結局みんな好きでやってるんですよ」と、下會所さんはほがらかに笑った。
「好きだから」困難を乗り越えていくヘリテージマネージャーの活動
他にも課題はある。ヘリテージマネージャーの認知度が低く、古い建物に課題を抱える人がいても、どこに相談していいのかわからないという状況だ。建物の所有者自身が、その価値を知らないこともある。
あいちヘリテージ協議会では、この状況を打開しようと、各自治体への営業活動をしている。そのおかげもあり、最近では自治体からの依頼が少しずつ増えてきた。今後は、しっかりと収益の出る仕事を増やし、協議会の活動を継続させていきたいという考えがある。
課題は山積みで、困難も多いように見えるヘリテージマネージャーの活動だが、皆さんの原動力はなんだろうか。
「単純に古い建物がおもしろいです。昔の人がどのように考えて建てたかを想像するのが楽しい。と同時に、考えながら調査をしないと建物の価値がわからないんですよ。価値がわからないと直し方がわからない。価値がわからないままだと、価値を損なうような改修をしてしまう危険性があるので、しっかり調べることが大事だと思っています」(落合さん)
「以前から、新築物件の建設のときでも、地域のことを調べてから設計していました。建物がまちや人に与える影響は大きいと思うので、地域の歴史や気候、建物の特徴などを調べてから設計することを意識しています。そして、ヘリテージマネージャーと出会ってからは、その奥深さにハマってしまった感じですね」(市川さん)
2人とも、ヘリテージマネージャーの資格を取ってから仕事内容が変わったという。落合さんは現在の仕事の約半数が歴史的建造物に関することになり、市川さんは古民家改修やリフォームの仕事が増えた。
今後は、ヘリテージマネージャーの認知度を上げること、そして一緒に活動する仲間を増やすことが目標だ。さらに、建築士だけではなく、他業種との連携を増やしていきたいという。
「私たち建築士は、建物の改修工事はできるけれど、その後の活用まではなかなかできません。たとえば、不動産会社と協力して、建物を活用したい人とマッチングしてもらうなど、業種を超えた連携をしていきたいと考えています」(市川さん)
課題を抱えながらも、楽しみながら活動をしている皆さんの姿が印象的だった。「建物がまちや人に与える影響は大きい」という市川さんの言葉通り、私たちは日々、無意識のうちに景観から何かを受け取っているだろう。身近な古い建物の裏側に、そうした価値を守ろうとする人たちの静かな取り組みが隠れているかもしれない。
特定非営利活動法人あいちヘリテージ協議会:https://www.aichiheritage.com/
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