湘南・大磯に渋沢栄一が護った江戸時代建築「鴫立庵」がある
新一万円札の肖像となった明治の実業家・渋沢栄一。エネルギッシュに各地で活動した渋沢の足跡には、思いもよらない場所で出会うことがある。その一つが神奈川県大磯町だ。
東海道五十三次の宿場町として栄えた歴史をもつ大磯には、日本最大俳諧道場の一つ、「鴫立庵(しぎたつあん)」がある。江戸時代の浮世絵にも描かれた、400年前の姿をとどめる建物で、渋沢栄一がその修復のために費用の一部を寄進している。
現在も鴫立庵では句会などが開かれているほか、地域の文化施設として利用されている。
平安時代の漂泊の歌人、西行法師の遺蹟に建つ「鴫立庵」
この鴫立庵は、平安時代の歌人、西行法師(さいぎょうほうし)に由来する。西行は、旅にあって歌を詠むことを実践し、旅の中に歌と仏道というふたつの道を見いだした。「都びとのたしなみとして都に住まいして歌を詠む」ことが当たり前の時代に、西行の思想と行動はあまりにも革新的だった。そんな西行が後世に与えた影響は大きく、たとえば江戸時代、松尾芭蕉は西行にあこがれ、その足跡と歌枕の地を訪ねて東北地方へ旅し、その紀行を「おくのほそ道」として上梓した。
そんな西行にインスパイアされた人物に崇雪(そうせつ)がいる。崇雪は、小田原城主・北条早雲(ほうじょうそううん)に招かれて京都から小田原にやってきた薬師(くすし・現代の医師兼薬剤師)・外郎一族(ういろう)の子孫で、隠居後のわび住まいの地に大磯を選んだ。
崇雪は小さな草庵を結んで、庵のかたわらに五智如来石仏をまつった。そして草庵の脇を流れる沢の近くに「鴫立沢」と刻んだ標石を立てたのだ。江戸時代初期、1664(寛文)4年のこととされる。
西行の歌で最も知られているもののひとつに、新古今和歌集の「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢(しぎたつさわ)の秋の夕暮れ」がある。崇雪がこの歌にインスパイアされたのは間違いない。
崇雪が草庵を建ててからおよそ30年後の元禄8年(1695)。俳人の大淀三千風(おおよどみちかぜ)がこの草庵に移り住んだ。三千風は草庵を鴫立庵と命名して、初代の庵主となり、庵を整備、庵主の居宅や、西行像を安置する「円位堂(えんいどう)」などを建てた。元禄10年(1697)には西行500年忌を行うなどして、鴫立庵と西行法師のイメージを積極的に広めていった。そして単なる草庵だったこの地を、西行のスピリットを引き継ぎ、また芭蕉が確立した俳諧の流れをくむ道場「鴫立庵」として確立させたのである。鴫立庵は、落柿舎(らくししゃ・京都)、無名庵(むめいあん、滋賀県大津市)と並んで日本三大俳諧道場のひとつに数えられるようになった。
ちなみに俳諧とは、複数人で俳句を詠み合うことなどをいう。俳諧道場は、複数人が集まって俳句を詠み合い、批評し合う場のことだ。
鴫立庵への寄進がきっかけとなり、渋沢栄一は大磯にかかわっていった
三千風が建てた江戸時代初期の建物が伝わっているのが、現在の鴫立庵である。
明治5年(1872)、鴫立庵の11世庵主となった寿道(じゅどう)が、老朽化した建物の修復を考えた。このとき、渋沢はその費用にと2円を寄進している。このころの2円は現在のおよそ4~5万円に相当する。
渋沢が鴫立庵修復工事のために寄進をしたのは、庵主の寿道が、武蔵国大里郡明戸村(むさしのくに おおさとぐん あけとむら)の出身、渋沢の生地は武蔵国榛沢郡血洗島村(むさしのくに はんざわぐん ちあらいじまむら) だったことにある。異なる村ではあるが、どちらも現在の深谷市で隣村といってもいい。渋沢にとって、寿道は同郷人に等しいという感覚だったのだろう。
明治6年(1873)の鴫立庵改修寄進帳には、渋沢の署名に並んで、富岡製糸場の尾高惇忠(おだかあつただ)の名がある。富岡製糸場の設立にかかわった渋沢が、富岡製糸場の場長であった尾高に寄進を呼びかけたと考えるのが自然だ。
渋沢栄一は鴫立庵の修復にかかわったことがきっかけとなったかのように、その後、大磯に深くかかわっていく。
明治18年(1885)、陸軍軍医総監であった松本順が、西洋に倣った海水浴を健康増進のため日本に導入しようと提言し、大磯に海水浴場が開設された。当時はまだ「うみみずよく」と読み、肌着を身につけて海水に体を浸すことだった。「潮湯治(しおとうじ)」の言葉もあって、つまりは海水を「塩分の濃い冷たい温泉」に見立てて入浴と休憩を繰り返し、療養効果を高めるのが海水浴だった。
明治20年(1887)には、東海道線が横浜から国府津まで延伸開業し、東京から大磯へのアクセスが飛躍的に向上。そして同年、海水浴場に隣接した場所に、松本によって「祷龍館(とうりゅうかん)」が建てられた。祷龍館は治療目的で海水浴にやってくる人たちの宿泊施設と病院だが、一般の人のための旅館も兼ねていた。
祷龍館の建設に際し、松本は1口200円で館員(会員)を募り資金を集めた。これに渋沢栄一も賛同。当時の200円は現代の400~500万円に相当する。渋沢のほか、実業家・銀行家で後の安田財閥創始者となる安田善次郎(やすだぜんじろう)や、伊藤博文内閣で大臣を歴任した榎本武揚(えのもとたけあき)など33人が館員に名を連ねている。館員は無料で宿泊用の部屋を一室借りることができ、病気のときには薬代だけで医師の診療を受けられた。また館内には日本料理や西洋料理の食事処もあった。渋沢は大磯の風光を大いに気に入り、祷龍館をしばしば利用するようになる。
明治23年(1890)の1月7日から2月1日まで祷龍館に逗留したのを皮切りに、明治27年(1894)には病後療養のため年末年始を過ごし、その後も足繁く大磯に足を運ぶ。こうした大磯通いを通じて、渋沢は何度か鴫立庵にも足を運んでいたようだ。
鴫立庵の門は簡素な印象だが、細部にこだわりがみられる
ここからは現在の鴫立庵の姿をお伝えしていこう。
JR東海道線大磯駅から坂道を下っていくと国道の信号が「鴫立沢」。国道の脇に小さな沢が流れ、石段を下って沢に架かる石橋を渡ると鴫立庵の入口だ。棟門形式の簡素な門が出迎える。ただ、この門は、見た目こそ簡素ではあるが、細部をみれば板壁に練土を塗って練塀のようなイメージを出し、さらに腰壁に杉皮を張って野趣を強調している。門扉は表面に細い丸竹を二つに割った半割竹を張り詰めている。また門扉や脇扉のヘリには斜めに筋を刻んだ鉈目削(なためけずり)の装飾が施されている。簡素な門ではあるが、細部に至るこだわりが見てとれる。
歴代の庵主が住まいとした「鴫立庵室」
門をくぐると、右手に茅葺の建物が2棟並んでいる。手前が東住舎の「鴫立庵室」、奥が俳諧道場となる「秋暮亭(しゅうぼてい)」だ。
住居である鴫立庵室は、寄棟の建物で、土間と二間続きの濡れ縁(ぬれえん)付きの和室という構成。庵主一人の住まいであれば十分かもしれないが、江戸時代の古民家としては大きくはない。来客も少なくないであろう俳諧道場ということを考えると、いささかこぢんまりしているといった印象だ。
二間の和室は奥の部屋が上座で、簡素な床と付書院(つきしょいん)が設けられている。床脇(とこわき)は略されて押し入れになっているが、シンプルながら最低限の書院造(しょいんづくり)の体裁を整えている。和室は竿縁天井(さおぶちてんじょう)、濡れ縁は化粧屋根裏天井(けしょうやねうらてんじょう)。濡れ縁の梁は角材。特に凝ったものではなくオーソドックスな古民家の造りだ。
ただ、付書院の意匠は独特だ。壁面に円窓(まるまど)を設け、障子越しに円窓の明かりがうっすらと見えるようになっている。障子を開けば外の景色が見える。付書院の障子は開閉できない「はめころし」が一般的だから、引き戸にして開ければ屋外が望めるというのも特徴的だ。
日本三大俳諧道場のひとつとされる建物の意匠
俳諧道場となる秋暮亭は、少し高い場所に建ち、住居である鴫立庵室からは階段と通路で結ばれている。茅葺、寄棟、10畳ひと間の方形の建物で、正面と左に濡れ縁を回廊のようにめぐらせている。濡れ縁の上部は庇(ひさし)があり、吹放(ふきはなち)のような構造になっている。住居である鴫立庵室の濡れ縁は一般的な化粧屋根裏天井だったが、こちらは濡れ縁にも天井を設けている。天井付きの濡れ縁は珍しいし、よく見ると梁はぜいたくに磨き丸太を通しで用いている。
和室にしても、意匠は独特だ。部屋の正面には「床の間(とこのま)」のような棚があって、棚には松尾芭蕉の像が置かれている。上部には「俳諧道場」の扁額が掛けられている。しかしこの棚は、いわゆる「床の間」ではない。
和室の右手をみると、掛軸が掛けられた壁があり、上部に落掛(おとしがけ)があって、こちらがいわゆる「床の間」にあたることがわかる。織部床(おりべどこ)と呼ばれる様式で、床框(とこがまち)を廃して床は畳のままにして、落掛の存在で床の間であることを示すものだ。さらにかたわらには小さな棚があり天袋があって、天井はやや低くした落天井(おちてんじょう)にしており、床脇であることがわかる。つまり右手の壁は一見するとただの壁に見えるが、本床と床脇を備えた床の間の意匠なのだ。
住居はプライベート空間、だから細部の意匠にはこだわらずオーソドックスなものにする。しかし不特定多数が訪問する俳諧道場は、ある意味オフィシャルな空間であり、主である鴫立庵主のこだわりを細部にまで見せる。そんなふうに造られていることを感じる。釘隠しは千鳥や亀の意匠の飾り細工だ。
敷地内に散在する堂宇、石仏
鴫立庵にはいくつかの堂がある。
初代庵主大淀三千風の建てた元禄時代の建造物が現存するのが円位堂(えんいどう)。円位は西行法師の僧名(西行は号)。堂内の厨子には等身大の西行法師の像がまつられている。仏像ではないが、玉眼の使用や衣のひだの表現などに仏像彫刻の技術が用いられている。片膝を立ててくつろいだ姿勢の像は写実的で、仏師の技量を感じさせる。
法虎堂(ほうこどう)は、大磯出身と伝わる虎御前(とらごぜん)を安置する堂。虎御前は、鎌倉時代の曽我兄弟の仇討ちを描いた「曽我物語」に登場する。曽我物語は歌舞伎や浄瑠璃、能などで「曽我もの」として現代でも上演される超ロングヒットの演目である。この中で虎御前は兄弟の兄・曽我十郎への愛を貫いた遊女として描かれており、江戸時代には吉原の遊女などに「虎御前推し」が少なくなかったらしい。ということで、この堂と堂内の虎御前像木像は吉原遊郭からの寄進と伝えられている。時代的には明暦の大火(明暦3年=1657)の後に浅草北部へ吉原遊郭が移転し「新吉原」と呼ばれたころ。鴫立庵初代庵主大淀三千風の時代だ。像は虎御前19歳、尼御前姿だが剃髪はしていない。
また、敷地内には数多くの石碑がある。多くは歴代庵主の句碑だ。ちなみに「鴫立沢」の標石は2ヶ所にある。ひとつは入口の鴫立沢に架かる石橋のたもとにあるもので、「志ぎたつ沢」の文字が読みとれる。もう一つは建物の裏手、五智如来像の近くにあるもので、こちらは「鴫立沢」と刻まれており、最初に崇雪が立てたもののレプリカだ(実物は大磯町郷土資料館に展示)。この標石の裏には「著盡湘南清絶地(ああ しょうなん せいぜつのち)」と刻まれている。
碑文の解釈は、相模国の南という意味の「相南」を、中国・湖南省の湘江下流部の景勝地「湘南」になぞらえ、大磯の風景を「湘南」とし、「清絶地」、すなわち清らかですがすがしい土地と評した、ということ。日本の歴史のなかで初めて「湘南」の文字が使用された例とされ、大磯は湘南発祥の地、とされている。
最後に、崇雪が立てたという五智如来(ごちにょらい)石仏を見ておこう。
五智如来は密教のほとけで、一般的には大日如来(だいにちにょらい)を中心に、阿閦如来(あしゅくにょらい)、宝生如来(ほうしょうにょらい)、阿弥陀如来(あみだにょらい)、不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい=釈迦如来しゃかにょらい)の金剛界五仏(こんごうかいごぶつ)で構成される、5体一組の仏像をいう。
当初、崇雪はこれを本尊として「西行寺」といった寺院を建てようとしたらしい。事実、江戸時代の検地帳では、鴫立庵は寺院と同様の扱いとなっている。
約350年を経た今、鴫立庵は崇雪が建てようとしていた寺院とはなっていないが、地域住民から親しまれ、そして大磯を訪れる観光客が足を運ぶ場所となっている。その歴史の一端に渋沢栄一がいることを想うと、感慨深い。
■取材協力:鴫立庵
https://www.nem-shiteikanri.jp/shisetsu/shigitatsuan/
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