2025年の干支は巳(み)
2025年は巳年なので、縁起物の蛇の置物などを玄関に飾る方も多いだろう。
十二支には長い歴史があり、時代とともに陰陽五行説に関連付けられたり、生命の循環に関連付けられたりしてきた。
よく知られるのは、子は種に命が宿る状態で、寅は草木が芽吹いた状態、未で果実が熟し、戌で枯れ始める、そして亥で再び種に戻るとする考え方だろう。巳は植物の成長が極まった状態だとされ、種子が出来始めるのもこのころのため、新しいことが始まる年だと考えられる。また、蛇が脱皮することからも、復活と再生のイメージが強いようだ。
そこで日本において語られる、蛇にまつわる伝承や昔話を見ていこう。
三輪山の伝説と蛇
日本神話における蛇といえば、なんといっても三輪山の蛇伝説だろう。日本書紀や古事記の崇神天皇条には、三諸山(三輪山)に大物主神(オオモノヌシノカミ)のエピソードがある。両者のストーリーは少し違うが、ここではわかりやすい古事記のストーリーを紹介しよう。
崇神天皇の時代に疫病が大流行したとき、大物主が天皇の夢枕に現れ「三諸山に意富多多泥古(オホタタネコ)をもって大物主を祀らせれば疫病が鎮まる」と託宣した。意富多多泥古は大物主と活玉依毘売(イクタマヨリヒメ)の子である櫛御方の曾孫にあたるのだが、その経緯が少し変わっている。
活玉依毘売が妊娠したとき、夫は夜だけ現れて、朝になると出て行ってしまうので、その正体がわからなかった。そこで、夫の着物の裾に麻糸を通した針を刺し、朝になってから調べてみたところ、麻糸は鍵穴を通って外に出ていた。麻糸を辿ると、三輪山の神の社まで至ったため、夫は三輪山の神とわかったというのだ。三輪山の名は、麻糸が三輪(巻)だけ残っていたからとされる。
ここでは神の姿について明確には言及されていないが、鍵穴から抜けられる姿であると、細長い蛇であることが暗に示唆されているのがわかるだろう。
日本書紀の崇神天皇条にも、孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命が三輪山の大物主の妻となったが、その正体が蛇だったために驚いて、結果的に命を落とす話が登場する。
なぜ三輪山の神が蛇神とされるのかはわからないが、往古、三輪山あたりに蛇信仰があったと考えるのが自然だろう。
出雲のヤマタノオロチとは違い、人身御供を要求するような悪神ではないが、疫病を引き起こすこともあったわけだから、ただただ穏やかな神とはいえまい。
奈良県曽爾村の亀池の伝説
全国的に、美しい娘が淵や池の主に魅入られて、蛇になってしまう話は少なくない。
中でも、奈良県曽爾村の亀池の伝説は悲しい。
ある大雪の日、父子が住む家の前で、若い娘が行き倒れになっていた。息子が娘を看病すると、病が癒えた娘はお亀と名乗り、伊勢国太郎村の娘だと告げて、息子の嫁となる。この家の井戸は太郎路池の水を溜めたもので、日々の雑用に使う水は、この井戸から汲みだしていた。そしてある日お亀が井戸を覗き込むと美しい男の顔が映り「今夜八ツ、太郎路池のほとりに来て欲しい」と告げたことから不幸が始まるのだ。
その日から、お亀は夜になるたび外出するようになる。夫が尋ねると、「早く子供が授かるように水垢離をしている」と答えるのだが、いざ男児を出産すると、お亀は「私の責任は果たしました」と姿を消してしまった。
仕方なく夫は一人で子育てしていたが、ある日どうしても赤子が泣き止まなかったので、あやしながら太郎路池のそばまで来た。すると突然お亀が現れ、ものも言わず乳をやるのだが、「二度と来ないでください」と告げてまた姿を消してしまう。しかししばらくすると、また赤子が泣き止まない。困った夫が太郎路池までやってくると、「あれほど、二度とくるなと言ったのに、なぜ来た」と蛇の姿のお亀が現れ、大口を開いて襲い掛かったという。太郎路池は現在お亀池と呼ばれており、お亀が襲い掛かった場所を「大口」と呼ぶなど、関連する地名があちらこちらに残っている。
淵の主に魅入られた娘は機織りが上手だったとするパターンも多い。土地によっては、「今でも淵の底から機織りの音が聞こえてくる」と話が結ばれることもあり、水の音が機織りの音に聞こえたのだろう。
和歌山県田辺市あたりの安珍清姫伝説。化身としての蛇
恋の妄念から蛇に変身してしまった女性の話しは、安珍清姫伝説が有名だろう。清姫は、和歌山県田辺市あたりの豪農の娘だとされている。
ある日、宿を借りた旅の僧・安珍を見て、清姫はたちまち恋に落ちる。「どうか私を妻に」と迫る清姫に、安珍は「帰り道にあなたの夫となりましょう」と約束するのだが、修行の身で女性と関係を持つわけにいかない。違う道を通って帰ろうとしたが、清姫はそれに気づいて追いかけてきた。
安珍は日高川を泳いで逃げたが、清姫も蛇の姿に化して泳いできたので、安珍は道成寺に逃げ込んだ。そして鐘の中にかくまってもらうのだが、清姫はこれにも気づいて、鐘に巻き付いて離れない。しまいには口から火を吐きかけ、安珍を焼き殺してしまった。
奈良県御所市の野口神社にもよく似た話が村娘と役行者の話しとして伝わっており、恋の妄念から蛇になる話は全国的に伝わっている。
多くの場合、蛇になるのは女性なのだが、和歌山県岩出市の住蛇(じゅうじゃ)が池に棲む蛇は、小野小町に片思いする深草少将が変じたものだ。
深草少将は小野小町に求愛するが、「百夜通ってくれたならあなたの思いに答えましょう」と返事がくる。貴族といえども政務やら付き合いやらで忙しく、百夜続けて通うのは至難の業で、つまりは拒絶されたのだが、少将は諦めずに九十九夜まで通った。
能の「百夜通い」などでは百夜目に雪の中で凍死してしまうのだが、岩出市では、「このままでは深草少将の気持ちに答えねばならなくなってしまう」と恐れた小野小町が逃げ出し、少将は蛇となって追いかけたと伝えられているのだ。
常陸国風土記登場する角のある蛇
常陸国風土記には、夜刀神と呼ばれる角のある蛇が登場する。
継体天皇の御世に、箭括(やはず)氏の麻多智(またち)という人物が、郡役所から西の谷の葦原を開墾したが、夜刀の神が群をなしてやってきては、さまざまな妨害をした。
土地の人によれば、夜刀の神の姿は、蛇の体で頭には角がある。かわやなぎを身に着けずにこの姿を見ると、一家一門は破滅し、跡継ぎの子孫が生まれなくなるとのこと。しかし麻多智は恐れずに甲冑と矛で身を固めて戦い、山に追い払った。
そして山の登り口に大きな杖を立てて「ここから上は神の土地とするが、ここから下は人の田とする。今後は、私が神の祭祀者となって、代々永く敬い祭るから、どうか祟ることのないよう、恨んではならぬ」と告げて社をつくったのだという。
わざわざ「祟るな」と断るほどだから、麻多智の行いは正当なものではないと想像できるだろう。この話は、後着の民が先住民を侵略したことを、伝説化したものだとも考えられる。
夜刀神を祀った神社は茨城県行方郡の愛宕神社だ。
熊本県八代市の八代神社
中国における四神は、東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武だ。玄武は蛇の尾を持つ亀なので、北極星や北斗七星を神格化した妙見信仰においては、蛇が関連付けられている例が散見される。
たとえば飛鳥時代に鎮座したと伝わる熊本県八代市の八代神社では、妙見神は「亀蛇」の背中に乗って海を渡ってきたとする。
日本には星信仰はなかったとされるのが従来の定説で、中国から入ってきた妙見信仰が最古とされている。
しかしその根拠は、日本書紀や古事記に信仰対象となる星の神が登場しないという、不確実なものだ。日本書紀には星の悪神である香香背男が登場するが、「悪神」とあるように、あっけなく退治されてしまうので、信仰の対象ではないというのだが、本当にそうだろうか。実際、香香背男の本拠地であったとされる大甕(現在の茨城県日立市)では、香香背男はこのあたりを支配していた豪族で、大和に侵略されたと考えられているようだ。
しかし、星信仰があったと明言できる証拠もない。海の民が星を信仰するのは自然だが、日本近海では陸地の山や大木の位置で自分の場所を知る「山立て」がもっぱらだったとされる。さらに日本の陰陽師が星を観察した記録もなく、日本人が星を見上げて祈ったと考える根拠が乏しいのだ。
しかし、天文民俗学者の野尻抱影氏は著書『日本の星』の中で、瀬戸内の船頭が、北斗七星を「舵星」と呼んでいたと記録しているし、香川県の漁師が「イカリボシ(カシオペア座)」を見て夜が更けたことを知ると報告を受けたと書いている。
そういったことを考え合わせれば、流れ星や彗星など、尾を引く星を蛇神として信仰した古い日本の星信仰が、中国の妙見信仰と習合した可能性もあるだろう。
日本における蛇は、どこか恐ろしいものとして語られてはいるものの、信仰の対象ともされてきた。巳年を機会に、蛇の伝説に気をかけてみてはいかがだろうか。
■参考
中央公論新社『日本の星: 星の方言集』野尻抱影著 1976年7月発行
平凡社『風土記』吉野裕訳 2000年2月発行
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