港町として岡山県内屈指の商業都市だった「玉島地区」
岡山県第2、中国地方第3の人口規模を誇る岡山県倉敷市。玉島地区は同市の西部にあたるエリアだ。倉敷市は倉敷・水島・児島・玉島・船穂・真備などのエリアに分かれており、玉島はその中のひとつ。とくに倉敷・水島・児島・玉島は人口や面積が大きな主要エリアになる。
エリアにはそれぞれ個性があり、倉敷は県内を代表する観光地・倉敷美観地区やJR倉敷駅を有することで知られ、市役所の本庁舎も所在する。水島には瀬戸内工業地域の一部を担う巨大工業地帯・水島臨海工業地帯があり、児島は瀬戸大橋や国産ジーンズ発祥の地として有名だ。
その中で玉島は新幹線停車駅の新倉敷駅が所在し、良寛の修行地である円通寺や日本最古の海水浴場ともいわれる沙美海岸がある。
玉島エリアの平野部のほとんどは、かつては海だった。江戸時代初期から干拓が順次進められ、現在の玉島の広い平野部が生まれた。1600年代後半ごろには、現在の玉島の平野部の多くが誕生している。そして干拓とともに造成されたのが「玉島湊」である。
玉島湊は内陸にあった備中松山城下の外港として機能した。「高瀬通し」と呼ばれる運河で高梁川と繋がり、水運を利用した高瀬舟による玉島湊〜高瀬通し〜高梁川〜備中松山城下というルートが生まれたのである。玉島湊の周辺には大きな港町が形成され、物資の集散地として大いに繁栄。備中国内で有数の商都として「西の浪速」「小浪速」の異名で呼ばれることもあったという。この港町が、のちの玉島中心市街地となる。
明治時代以降も玉島は岡山県内で屈指の経済都市としてにぎわい、金融機関や官公庁の主要な出先機関も置かれた。さらに周辺地域との合併により「玉島市」となる。しかし1967年(昭和42年)に、玉島市・旧 倉敷市・児島市の3市が対等合併し、現在の倉敷市を新設。玉島市は倉敷市を構成する一地区・玉島地区となり、市役所の玉島支所が設置され、現在に至っている。
新しい倉敷市の一部となった玉島だが、1970年代半ば以降は自動車中心社会への移行や郊外への大型店進出などによって、生活環境が変化。その影響で玉島中心部の店舗は減少し、経済都市としてにぎわったかつての勢いはしだいに失われていった。
そんな玉島の現状を打破し、活気を取り戻すために始まった取り組みが「産業観光」だ。
観光化していない「生業」にこそ地域の魅力や文化が詰まっている
玉島の産業観光について話を聞いたのは、フリーランスのコピーライターであり、玉島を拠点に「産業観光コーディネーター」を務める赤澤 雅弘(あかざわ まさひろ)さん。玉島で産業観光をスタートさせた人物だ。
「玉島の産業観光は2005年(平成17年)から始まりました。産業観光という概念はJR東海の元代表取締役・須田寛さんが提唱したものです。ただし玉島の産業観光は、開始当初より他地域で行われている産業観光とは違ったスタンスで行われています」と赤澤さんは話す。
赤澤さんによると「一般的な産業観光は、工業などの比較的規模の大きな第二次産業や、工芸品などの伝統産業といったものがテーマになっていることが多いです。場合によっては企業が産業博物館・企業ミュージアムなどを建設し、産業の観光資源化を図ることもあります」とのこと。
「玉島ではそれとは異なり、立ち上げ当初から『もともと観光目的でないもの』すべてを産業観光の対象としています。比較的規模の大きな企業や伝統工芸だけでなく、商店や町の小さなものづくり現場、さらには農業や漁業などの第一次産業も対象です。これらはすべて観光を目的に事業をしているわけではありません。生活のための『生業(なりわい)』として、日々の暮らしの中にあります」
「観光化していないもの、住民の暮らしの中にあるものだからこそ、地域の歴史・文化が感じられ、それが魅力に繋がるのです。玉島版・産業観光はものの視点を変えたり、考え方を変えるだけで観光が生まれます」と赤澤さんは玉島の産業観光のポイントを語る。
玉島版の産業観光で、もうひとつの大きなポイントとなるのが経済効果だという。産業観光で参加者が企業・事業者を訪れ、見学して話を聞くことで、仕事に携わる人から直に熱い思いやこだわりが伝わる。すると、自然と参加者は訪問した企業・事業者の製品を購入する。
「金額で見ると小さい額かもしれません。しかし目の前でダイレクトに結果が見えると、事業者としては手応えややりがいを感じます。すると各企業・事業者が産業観光を『自分ごと』として捉えるようになりました。その結果、各企業・事業者がさまざまな工夫をして、参加者を楽しませようと考え出したのです。そしてそれがさらなる購買に繋がり、リピーターの獲得になりました」と赤澤さん。
玉島の産業観光ツアーは2024年(令和6年)現在、年間約20本を開催。とくに2〜3月がメインとなっており、この2ヶ月では約6本が開催される。これまで産業観光で訪れた企業は、玉島地区だけで累計およそ70に上るという。現在、産業観光の参加者募集が開始されると、ほとんどのツアーが予約開始当日に定員に達するほど盛況だ。なお産業観光の訪問先は、玉島地区以外も含めれば、備中エリア・瀬戸内海島嶼部・四国などで累計約400にもなるとのこと。
合併で失われた玉島の誇りや歴史・文化を取り戻し、産業観光によって次代へ伝えていく
玉島の産業観光はどのような経緯で生まれたのだろうか。赤澤さんは「倉敷市の主要地区の中で、玉島は存在感を欠いていました。有名な観光地である倉敷美観地区のある倉敷、水島臨海工業地帯がある水島、瀬戸大橋とジーンズが有名な児島。それに比べると、知名度の高い観光地が玉島にはありませんでした。1967年の合併以降、玉島は倉敷市の一部となって、港町として栄えた歴史や文化に対する誇りが失われたと私は感じています。玉島で生まれ育ち、現在も住んでいる私は、こうした現状をなんとかしたいとずっと思っていました」と話す。
転機が訪れたのは2000年代初めごろ。赤澤さんは玉島の蔵で開催されたあるミュージシャンの小さなコンサートを訪れる。そこでミュージシャンが玉島の街の雰囲気を絶賛していたという。全国各地でコンサートを開き、さまざまな街を見てきたミュージシャンが、なぜ玉島の街に魅了されたのか不思議に感じた赤澤さん。それ以来、空き時間を利用して玉島の街中をカメラを片手に歩いて回った。すると古い・廃れたと思っていた街の中に、魅力的な風景が残り、高校生のころまで慣れ親しんだ商店や地元企業の多くが今も元気に営業をしているのを知ったという。
さらに2004年(平成16年)に倉敷で開催されたJR東海の元代表取締役・須田寛さんの講演を聞く機会があり、そこで赤澤さんは産業観光という存在、産業観光の定義などを知った。「このとき玉島の魅力と産業観光が結びついたのです。いままで『玉島には魅力的な観光地がない』と言われ続けていましたが、産業観光なら玉島の魅力を存分に生かせると思いました」と赤澤さんは振り返る。
「玉島は古い港町。創業100年を超す企業をはじめ、いまでも活発に営業する老舗が多く存在しているんです。さらに沿岸部には近代的な大型工業、ハイテク企業が集まる玉島ハーバーアイランドがあります。また北部で果樹栽培などの農業も行われています。食品関連の事業所が多い点も特徴です。産業が豊かなことが玉島の魅力。産業観光によってそれまで観光資源とみなされなかったものに焦点を当てれば、玉島の地域活性化に繋がると思ったのです。それが合併で失われた玉島の誇りや歴史・文化を取り戻すことになり、さらそれを次代へ伝えていけると考えました」
産業観光を思いついてから、赤澤さんは玉島商工会議所へ通い詰めて何度も提案を続け、やがて会議所の理解を得て「産業観光推進アドバイザー」として活動を開始する。そして地元の企業や事業者を回り産業観光について説明。協力を得られる企業を探すのは大変だったそうだ。
赤澤さんによれば「大きな企業さんは社会貢献などの意識が高く、比較的理解を得やすかったですね。いっぽう小さな事業者さんは、玉島への想いは深い反面、自らの事業や玉島の街の現状に対してネガティブな印象をもっているようでした。そのため、産業観光の受け入れについてはためらうところが多かったです。『古いこと』『長く続いていること』は悪いことではなく、『歴史がある』『老舗としての重みがある』という魅力に気づいてもらうのに時間がかかりました」とのこと。なんとか14事業者の協力を得ることに成功し、2005年(平成17年)に第1回となる玉島産業観光ツアーが開催された。
2014年からは、玉島に多く残る昭和の雰囲気があふれる町並みを生かした「思ひ出の商店街」という企画もスタート。昭和レトロを押し出した街おこしは次第に話題となり、産業観光とは別に動き出し、「にぎわう昭和のまち玉島実行委員会」が組織された。その後も「備中玉島みなと朝市」の開催や、「玉島家と行く 昭和レトロな?玉島商店街 周遊マップ」が制作されている。
※参考記事
倉敷市「玉島商店街」は懐かしくて楽しい"昭和のまち"。発想転換で歴史ある街に新たな価値を
産業観光の参加者を楽しませようと、事業者がそれぞれ個性的な工夫を展開するように
これまで玉島地区で約70の事業所が参加したという産業観光。その中でもとくに人気が高い訪問先のひとつが、玉島中心部にある株式会社 豊島屋(てしまや)だ。1720年(享保5年)に綿・海産物の問屋として創業した倉敷市内きっての老舗企業である。豊島屋は明治から醤油醸造を始め、昭和初期からはソース製造を開始。「タテソース」ブランドや、近年人気の「激辛ソース」などで親しまれている調味料メーカーだ。
豊島屋は2005年の産業観光開始時から参加している。現在では産業観光の訪問先の中で、1・2を争うほどの人気事業所となった。
豊島屋代表の大野 豊(おおの ゆたか)さんは「当初は工場見学がメインでしたが、次第に内容が変化したんです。いつしか私のトークが見学のメインになりました」と笑顔で話す。大野社長は豊島屋の名物社長として人気で、さまざまな笑いのネタや体験談が散りばめられた軽妙なトークに参加者は魅了される。ほかにも多彩な各種ソース・調味料に合う料理が少しずつ提供される“七色のお品書き”と銘打った試食会や、自社製品のお土産なども好評とのこと。
「訪れていただいた以上、参加者の方にはとにかく心の底から楽しんで帰ってほしいという思いで、産業観光に参加しています」と大野さん。赤澤さんは「参加者を楽しませるため、各事業者がそれぞれ独自の工夫をしはじめた」と話すが、豊島屋はその代表例だろう。
産業観光がきっかけでお茶文化が新たな観光資源として着目される
豊島屋と同じく、産業観光スタート初期から参加しているのが茶・茶道具販売の器楽堂老舗(きらくどう ろうほ)だ。創業は江戸時代末期という老舗である。備中松山(高梁市)で古物道具商として始まり、玉島へ移って茶・茶道具の販売を始めたという。
器楽堂老舗の産業観光では、店内にある茶室でお茶会体験ができ、参加者に好評だ。器楽堂老舗の器楽堂 晃(きらくどう あきら)さんは「ずっと前から私たちは、凝ったことや正式なことをしなくても、お茶は十分楽しめることを多くの人に知ってほしいと思っていました。そんなときに産業観光の話が来たのです。お茶を通して参加者の方々が楽しんでおられ、玉島のお茶文化の底上げに貢献できたらと思います」と語る。
「私たちにとって当たり前のことでも、初めての方には新鮮に感じてもらえるんだと、産業観光を通じて知りました。私たちにとっても、産業観光は勉強の場になっています」と器楽堂さん。
また赤澤さんは「それまで和気あいあいとした雰囲気で見学をしていた参加者が、茶室に入った瞬間にキリッとした引き締まった表情に変わります。お茶会の体験後は、何か感じるものがあるのか、みなさん体験前と違った表情をされているのが印象的です」と話す。
玉島は港町として繁栄し、豪商が多く生まれた。そして客人をもてなすために商人のあいだでお茶の文化が広まったといわれている。最盛期の茶室数は約400にも上ったという。そのため現在でも茶・茶道具の店や、和菓子店が多く存在。表千家・裏千家・藪内といった各流派の茶道をたしなむ人も多い。そんな玉島のお茶の文化は、産業観光がきっかけとなって、それまでお茶に興味を示さなかった一般の人々からも注目され始める。やがてお茶会カレンダーが制作されるなどし、「玉島のお茶文化」として観光資源のひとつとなっている。東日本などの遠方や、さらに海外からもお茶文化を目的に玉島へやってくるという。
大切なのは地域の歴史や文化を紐解き、ストーリーとして魅せること
2005年から約20年にわたり続く玉島の産業観光。赤澤さんは産業観光を行ううえで大切にしていることは「やり続けること」と「ストーリー」だという。玉島の産業観光は「港町玉島に残る百年企業」「昭和の雰囲気の残る町並み」「玉島に根付くお茶の文化」「伝統産業と最先端の産業のある玉島」などといったストーリーをもとにツアーが構成されているのが特徴だ。
赤澤さんは「地域の歴史・文化を紐解いて、その魅力をあぶり出し、それを元にストーリーを組み立てることで、地域の魅力が参加者へ伝わるのです」と話す。こうしたストーリーは玉島を飛び出し、周辺地域も巻きこんでいく。
産業観光で玉島と最初に連携した地域が高梁市だった。「もともと港町・玉島は内陸にある備中松山(高梁市)の外港として生まれました。ですから産業観光開始当初より、いずれは高梁商工会議所さんと連携した産業観光を考えていました」と赤澤さん。高梁川の水運で結ばれた玉島と高梁を巡る産業観光は、さらに上流の新見市とも連携。高瀬舟の運航を管理した『船指役(ふなさやく)』の子孫の協力も得て、貴重な話を聞いたり、道具の見学ができたりしたという。
さらに港町・玉島は周辺地域の交通の要衝でもあった。路線バスが全盛の時代には玉島に大きなバスターミナルがあり、岡山県南西部の交通のハブだったという。これに目を付けて、かつて路線バスで玉島と結ばれていた矢掛町・浅口市・笠岡市・井原市などと連携した「玉島バスセンター物語」といった産業観光ツアーも実施され、好評だという。
産業観光を全国にある玉島と同様の地域でも
玉島の産業観光の参加者は、地元・倉敷市や岡山市を中心とした岡山県、および周辺地域の人が多いという。赤澤さんは「産業観光を続けてみて、地元の歴史や文化・産業について関心がある人が、実は多いんだなということがわかりました。新型コロナウイルス感染症の流行を機に、近場で観光を楽しむ『マイクロツーリズム』が提唱されましたよね。玉島では産業観光というマイクロツーリズムを、2005年からずっとやっているんです」と言う。
常連参加者の中には、海外旅行を多数経験した旅行の上級者もいるという。「世界中を回った海外旅行経験が豊富な方から『こんな近場に、海外にも負けない魅力的な地域があったとは知らなかった。赤澤さんが企画する産業観光でしか行けない場所へ行け、ここでしか会えない人に会える。わざわざ海外へ足を運ぶのと同じくらい楽しい』という感想いただいたときには、本当に玉島で産業観光を開催したのは正解だったなと思いました。おかげさまで『また来たい』と話すお客様が多く、リピーターも多いんです」と赤澤さんは感慨深げに語る。
2005年から約20年続く産業観光の話を聞き、赤澤さんには講演の依頼や観光の相談なども来るという。赤澤さんのアドバイスにより、香川県の坂出市や塩飽諸島、高知県などでも地元を回る産業観光が行われたそう。
赤澤さんは「玉島で確立した産業観光のノウハウやスタイルを、玉島と同じように歴史や文化・産業などが埋もれかけている地域でも活用してほしいんです。そのための種まきをしていきたいと思います」と思いを語った。
取材協力:
産業観光コーディネーター 赤澤雅弘
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