雛めぐり(ひなめぐり)のまち、奈良県高取町の歴史とは
毎年3月になると、全国で雛めぐり(ひなめぐり)が開催される。
町屋などに雛人形が飾られており、町をひと巡りしながら見物する趣向だ。現在では日本中で開催されているが、中でも奈良県高取町の「町家の雛めぐり」は有名で、今年(2022年現在)で16年目になる。
高取町の歴史は古く、飛鳥に都があったころ飛鳥の宮殿の造営に携わった東漢氏(やまとのあやうじ)が居住した地域だ。東漢氏は朝鮮半島からの渡来人で、清水谷遺跡、観覚寺遺跡の住居跡からはオンドル(韓国式床暖房)とみられる石組も見つかっている。東漢氏は建築技術だけでなく、薬草の知識ももたらした。日本最古の歴史書である『日本書紀』には薬狩りの記事が2件ある。推古天皇19(611)年5月に菟田野(現在宇陀市)、そして翌年には波多(現高取町羽内あたり)で行われており、どちらも大和売薬の拠点として栄えた。高取町は薬で栄えたまちなのだ。
中世に武家が生まれると、大和南部で一番の武士集団である越智氏が居住したが、郡山の筒井氏との覇権争いの末、敗北。戦国末期に豊臣秀長が郡山城主になると、平城の大阪城や郡山城に攻め込まれたときの詰城として、高取山上に高取城を築いた。高取城の美しい石垣は現存しており、往時の繁栄を偲ばせている。
中世から戦国期にかけて、陀羅尼助などの伝統的な薬は作り続けられていたものの、製薬文化は一時廃れたのではないかと考えられる。しかし明治時代になると、失業した武家集団が、国から支給された一時金を元手に製薬を始め、高取は薬の町として再生する。大正にかけて全国展開し、最盛期の行商は500人もいたという。高取の町民は薬研などを使って行商が売り歩く薬を調製し、昭和40年ごろまでは大いに栄え、大きな家がたくさん建ち並んでいた。
雛人形の展示で高取町を再生するために
雛めぐりの仕掛け人で「天の川実行委員会」代表の野村幸治さんが、定年で高取町に戻ってきたのは2002年6月のことだという。
「1997年に町の大通りである土佐街道に石畳が敷かれてカラー舗装され、2001年には古い町家を利用して、観光案内所の夢創館がつくられました。しかしハードだけで、ソフトがなく、観光客はほとんど集まりませんでした。地域が消滅するのは、お店がなくなることもひとつです。これ以上、まちにお店がなくなるのを食い止めるには、購買者を増やすしかありません。高取町の人たちだけでは足りませんから、イベントを開催して、外から人を呼ぼうと考えました」と、野村さんは当時の状況を回想する。
2006年の4月5月6月の3か月にわたり、1日限りの「にぎわい市」を開いたところ、700人ほどの人が集まったが、月一度の開催ではあまり影響がなかった。1ヶ月はイベントを開催しないと意味がないが、現実には資金がなく、仲間は5人。ではどうしたらよいか。まずは町に呼びたいお客様を考えた。町を訪れたときに、感動してくれて、食べ物やお土産を買ってくれ、口コミで広めてくれる力のある中高年女性がターゲットにふさわしいと考えたとき、ひな人形の展示を思いついた。薬で栄えた高取の町家は大きく、雛人形を飾る舞台にうってつけだった。
しかし、雛人形は蔵で30年から50年と眠らせたままの家がほとんどで、雛人形を飾ってほしいと頼んでも、「50年前に蔵にしまったきりだから、虫がついているわよ」などと断られた。しかし、熱心に頼んでとにかく蔵から出してもらったところ、まったく虫がついていなかったそうだ。
「人形の顔を見るとさまざまな思い出がよみがえるのか、『そういえば、娘が出来たとき、実家の両親が持ってきてくれたわ。子どものときは飾っていたわね。やっぱり飾ってあげなくちゃいけないわね』と言われたりしました。思い返してみたら、このときからイベントが始まっていたのだと思います」と、野村さんは感慨深げに語る。2007年3月に開催された第一回のひなめぐりには、約30軒が参加してくれた。
その後全国から「雛人形を引き取ってくれないか」と問い合わせがあり、送られてきた雛人形をメイン会場の「雛の里親館」にピラミッド状に並べた。名付けて「天段の雛」。2022年は、17段500体が並べられている。
雛人形にまつわるそれぞれの雛物語を一緒に展示する
雛人形は戦後のもので、立派な段飾りだが、当時は歴史的に価値があるともいえなかった。そこで野村さんが思いついたのは、雛人形の物語を展示してもらうことだ。
「私は森昌子さんのファンで、彼女の『雛ものがたり』という歌から、すべての雛人形に物語があるという発想を得ました。そこで、持ち主に雛人形にまつわる思い出を教えてもらい、雛の横に置いたのです。これが高評価をいただきました」
展示をした雛人形は観光客の想い出もつなげている。
「戦時中の3月3日に、お母さんが浜辺に連れていってくれました。『本来3月3日は女の子の節句で、家で雛人形を飾ってご馳走を食べさせてあげたいけれど、こんな時代だから』と、お重いっぱいにご馳走を作って食べさせてくれたのを思い出しました」と、涙を流しながら語ってくれたお客様もいたそうだ。
高取にある資源を生かして、まちに人を呼ぶために
第一回雛めぐりは新聞でも報道され、なんと1ヶ月で8,100人が集まった。
当時の高取町人口より多く、高取町始まって以来のことだったそうだ。二回目はその3倍以上の25000人。口コミで集まった人がほとんどで「去年来たら良かったから」と、友達を連れてくる観光客も多かったという。
三回目が38,000人、四回目は49,000人と増え続けたが、トイレは観光案内所・夢創館の男女各一室だけ。食べるものもなくお土産物もない。さらには駐車場もない。そこで大工や左官屋が所属する商工会青年部が、JAの建物を買い取ってメイン会場にし、倉庫を新しくカフェに改修し、トイレも男女各二室設けた。
「高取町にある土佐街道の街並みは美しく、財産です。昭和60年ごろまでは虫籠窓の町家が残っていましたが、新しい家に建て替えられたり、駐車場になったりして減ってしまいました。それでもまだ昔ながらの町家が残っているのですが、空き家も多くなっています。その空き家も仏壇を置いたままだったり、家を継いだ息子や娘が他の土地に住んでいたりで、面倒くさがって貸したがらない持ち主が多いのです。町のためになんとか売るか貸すかしてくれとお願いし、『たかとり空き家バンク』というサイトを作って、高取でお店を出したい人や移住したい人と空き家になった町家をマッチングしています。また、東京都港区と地域連携の話が進んでいて、第二の人生を高取で過ごしてもらうことや、週末やイベントに高取に滞在してもらったりできないか、と考えています」と、野村さんはさまざまな工夫を考えているそうだ。
雛めぐりの存続と雛人形のために必要なこととは
しかし、今後の事を考えると楽観的とはいえない部分もある。
高取の町民は高齢者が多い。今後、イベントを支えてきた65歳、70歳も働くのが当たり前になると、イベントの担い手が十分に取れない可能性もある。力仕事は行政と協力して行っているが、今後どうやってイベントを存続していくのかが悩みだという。
「若い人は仕事もありますし、1ヶ月もの間、イベントに従事するのは無理があります。でも1ヶ月より短いとあまり効果がないのです。当初、雛めぐりの行程は2キロでしたが、端から端まで見学されるお客様は多くありませんから、おととしから、見学の行程を1キロに減らしたところ、ずいぶん手間がかからなくなりました。少しでも負担を減らしつつ、うまく行政と連携したいと考えています。高取に移住してきた人や近くに住む人が空き家を利用して、カフェやそば屋、カレー屋、ゲストハウスを開いてくれましたから、今後は店とも連携していければと考えています」(野村さん)
2013年には、壺阪寺大雛曼陀羅(つぼさかでらだいひなまんだら)の公開も同時開催されるようになった。初年度は150体だったが「普通の寺社では焚き上げられてしまうが、壷阪寺なら飾ってくれる」と、全国から雛人形が送られてきて、2022年はなんと3,000体以上の雛人形が飾られる。
「毎年たくさんの雛人形が始末されていて、なんとかできないかという思いもあります。雛人形は素晴らしい美術品です。日本に留学していた学生さんから、帰国の際に持って帰りたいから譲ってもらえないかと言われたこともありますし、外国の方に差し上げるなどして、なんとか使ってあげたいですね」と、野村さんが思案すべきことはたくさんあるようだ。
往時は薬で栄えた高取の町並みは味わい深く、雛人形がよく似合う。「町家の雛めぐり」は3月31日まで、「壺阪寺大雛曼陀羅」は4月18日まで公開中なので、興味のある方は訪れてみてほしい。
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