「血縁家族」と「専用住宅」という考え方
空き家が全国で1,000万戸にも上り、社会問題とされている。住宅に対する固定資産税の優遇措置が直接の要因ではあるが、その背景には、制度設計において「血縁家族」と「専用住宅」という考え方を基本に据えたことがある。
この「血縁家族」「専用住宅」という考え方は、近世・近代に発達した都市の自生的な秩序や世帯構成、空間利用の本来の姿から乖離したものだった。そこで、まず、この「血縁家族」と「専用住宅」という考え方が、都市史のなかでどこまで遡れるものかを探ってみた。
幕末・維新期の世帯構成を調べると、都心部において奉公人の比重が高いことに気づかされる。
・大阪 尼ヶ崎一丁目では奉公人のいる世帯は83.5%、奉公人の人口比率は49.3%。平均世帯規模が6.2人のうち奉公人は3.1人
・大阪 道修町三丁目は、奉公人のいる世帯83.3%、奉公人の人口比率47.4%、平均世帯規模6.1人に奉公人2.9人
・江戸 日本橋本石町二丁目 奉公人のいる世帯41.7%、奉公人の人口比率35.2%。平均世帯規模6.1人、奉公人2.1人
・京都 五条橋東二丁目東堀 奉公人のいる世帯57.9%、奉公人の人口比率33.1%。平均世帯規模6.4人、うち奉公人2.1人
といった具合である。
表店の商人層の町屋に居住していたのは、血縁家族に限らなかった。一方、郊外や他の城下町では奉公人はほとんどいなかった。世帯の概念は、血縁関係のある家族、というのとだいぶ違う。ちなみに奉公人の出自は、実は地方ではなくて、実は同じ町の縁のある商家であることが多かったらしい。修業を終えるまで年月がかかるので、奉公人は晩婚でそのために出生率は低かったとも言われる。
建築の観点から興味深いのは、奉公人のうち営業使用人のいる「店」と、家事使用人のいる「奥」とは、「互いに通路することを禁ぜり」(鴻池家)と空間的に分離されていた点である。
建築類型も、町家では、表通りから格子、土間、店、玄関間、奥座敷、裏庭、と公私とが緩やかに配分を変えながら繋がり、主人や奉公人もそうした場毎の特性を踏まえてうまく住みこなしていた。といまの核家族用の内と外で分離、という住宅とはだいぶ違う。
江戸・幕末・明治初期の人口構成と大都市の少子化
裏店の長屋には、仲士、日雇、手伝いといった都市生活サービスを担う人びとが暮らし、その世帯構成は、単身者、シングルマザー、夫婦のみ、孤児など多様だった。江戸(1722年)の庶民の人口構成は女性100に対して男性184と、単身男性が相当数含まれる。江戸幕府は社会保障を担うものではないので、相互扶助も自ずから行われた。高齢の母と二人暮らしの娘が、働きにでるときに母の面倒を隣人と家主に依頼したという記録も残っている。
社会扶助において、家請人の役目も大きい。店子に対しては、身元保証のみならず、婚姻の仲立ち、喧嘩の仲裁、仕事の斡旋なども行ったという。勤勉な孤児らには、町方に働きかけて町番などの自治の仕事(夜勤)を回してもらい、生計の足しにしていた。家請人の基本職務は家賃の取り立てなのだが、この利益目的のために不安定な借屋人たちの生活を補っていくインセンティブが働いた。
幕末・明治初期の大都市も少子化だった。資料(斎藤修「江戸と大阪」)によると未婚の子供の数は一世帯当たり
都市部
大店 1.4人
渡世・職人 1.7人
雑業 1.8人
農村部
10石以上 5.9人
2-9石 3.9人
2石未満 3.7人
とされる。農村から都市への人口流入は徳川中期までで止まっている。そして、この幕末・明治初期は都市内での婚姻が主体で、特に富裕層ほどそうだった。出世する商人ほど晩婚で、鴻池家の手代の初婚は36-7歳、妻は26歳とのことで歳の差婚であった。
そんなわけで大都市における人口は横ばいから縮小傾向である。逆に農村部では子供の数は多く、それも富裕層ほど多いのが興味深い。働き手の需要と栄養状態と疾病の関係だろうか。
近代における非血縁世帯
近代においても、非血縁世帯は小工場や商店も担った。谷本雅之氏は、こうした都市世帯に「都市小経営」という言葉を与えている。
実態としてデータで押さえると、
(1)小経営
資本金5,000円未満の工場が工場数の85%以上、従業員数でもほぼ半数を占める(1932年)。資本金2,000円以上5,000円未満の平均従業員数が4.39人、平均被雇用者は2.90人であった。ちなみに5,000円以上1万円未満では6.76人、5.38人である。
そしてこうした小工場で働く住み込み徒弟を維持・再生産するのに不可欠だったのが、女性配偶者だったと考えられている。これを裏付けるのは、独立工場主の有配偶率の高さで、20代前半で35%以上、20代後半で30%以上も労役者・労務者を上回り、所得水準の高い役員・職員よりも多かったという。
小売世帯の調査では、女性の平均的な一日の従業時間は、300分前後、家事+針仕事が400分前後という配分だった。女性配偶者は従業、家事、針仕事と多面的に生産活動に参画していた。主流は専業主婦ではなかったのだ。
(2)家事使用人
下図のように、こうした都市部の業主(公務・自由業、商業、工業の順)ほど家事使用人を使う割合が高く、家事使用人の過半が小経営の業主世帯で雇用されていた。全国の農業世帯とは対照的である。
東京市の調査では、東京の中小工場主や商業主世帯の世帯当たり家族員数は、それぞれ平均6.39人、6.24人で、農家世帯の7.60人を下回っていた。都市小経営では「夫婦または一方と子」の世帯は76.4%、農家の46.6%。要するに都市では傍系親族の手がない分、家事使用人を導入して配偶者が家業を切り盛りしていたという構図が浮かび上がる。それも子どもが多い世帯ほど。公的な社会保障は期待できないため、保育サービスは自前で調達していたかたちである。
このように近代でも、都市部の業主世帯は、住み込み徒弟と家事使用人とが同居し、女性配偶者が切り盛りするのが一般的だった。専用住宅、核家族、専業主婦というパターンではない。今でいえば相撲部屋(稽古場があり、女将が住み込みの弟子を預かる)のような生活空間が引き続き成り立っていたのも、こうした世帯構成から伺える。
非血縁世帯における建築類型
以上、みてきたように江戸から昭和初期にかけて都市の世帯は、住込み徒弟や家事使用人を交えた6人前後の共同生活が基本であった。いまでいう血縁家族という概念とはだいぶ違う。こうした世帯の生活空間は複合用途なので、町家や長屋、あるいは屋敷といったように建築類型で呼ばれる。住宅とは称されない。
その典型的な空間構成を見てみた。
(1)町家
まずは町家。医者世帯である。表通りにいつも開放した玄関と上がりの間があり、そこから階段を上ると診療室になる。街と中が繋がっている。就寝時は男女べつべつ1階は、祖母・妻・娘、看護婦・女中。2階は夫・息子、書生。ちゃぶ台のある居間が、夜は看護婦・女中の寝所になる。中庭が備わっている。
(2)長屋
裏通りには長屋。2階は工場勤めの人らに間貸ししていた。1階の就寝場所は、茶の間は夫と長男、客間は妻と次男、末娘は近所の祖父母の家で寝る。二棟長屋として対称の空間が壁を接して連なり、わずかな隙間で同じ二棟長屋が何棟も続く。井戸、洗濯場、お手洗いがこうした長屋の共同施設である。こうして緩やかなコミュニティが形成され、間貸しもしていて相互扶助のベースとなっていることが伺える。
町家、長屋の事例が示すように、汎用的な空間形式なので、それを診療所や間貸しに利用することもできた。引っ越しは、家具だけでなく畳や障子、襖も一緒で、移転先でもその寸法のまま収められたという。建築の枠組みは持続させたまま、仕事や生活の仕方に応じて融通できる、という合理的なシステムだった。
また、どちらも、夫婦は別々に就寝するのを前提とした間取りであることが注目される。戦後に一般的となった夫婦生活やプライバシーといった概念とはかなり違う。また尺貫法の秩序である。
「家族」「住宅」の見直しと新たな建築類型を考える時期
「家族」のための「住宅」という考え方が主流になった転機は、1950年だろう。
この年、衛生状態を改善する意図を含めて、建築基準法が定められ、「住宅」が定義される。都市計画においても「住居専用地域」等が決められ、都心のオフィスと郊外の専用住宅という都市構造が志向された。同年、「住宅」金融公庫が設立され、借地や農地を払い下げられた市民への住宅建設への融資が始まる。薪にするために戦時中に禿山になったところに、木造戸建てのために杉の植林もこの時期に始まった。
1955年には日本「住宅」公団が発足し、郊外の団地や宅地の供給を担った。
これらの制度によって、「家族」のための「住宅」という考え方が主流になっていったものと考えられる。深く広く浸透していった。そしていまでは、「家族」「住宅」という考え方を抜きにして、都市や生活空間を考えることができなくなる位だ。このような状態は、「人間は自分自身がはりめぐらした意味の網の中にかかっている動物である」という解釈人類学者クリフォード・ギアツが引用した言葉を思い出させる。
しかし、もし政策等の介入がなかったとすれば、都市生活の基本単位はこうした小経営世帯であり、建築類型は複合用途に対応して外部と緩くつながった町家・長屋のままだったと思われる。そして公的な社会保障が及ばなければ、相互扶助はこうした街区内の小さなコミュニティによって担われていたことだろう。
このような職住の融合した都市組織と自生的なコミュニティを、「家族」「住宅」という考え方が分断してしまった。21世紀、人間のための都市を再生していくには、この「家族」「住宅」といった意味の網からいったん逃れて、新たな建築類型を考え直すべき時期なのだと思う。
参考文献
斎藤修「江戸と東京 近代日本の都市起源」NTT出版 2002
吉田伸之「伝統都市・江戸」東京大学出版会 2012
吉田桂二「間取り百年 生活の知恵に学ぶ」彰国社 2004
祐成 保志「〈住宅〉の歴史社会学―日常生活をめぐる啓蒙・動員・産業化」新曜社 2008
住田昌二「現代日本ハウジング史1914-2006 」ミネルヴァ書房 2015
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