海岸砂丘の高低差を活かした庭が特徴
新潟と聞くと日本酒や日本海の海の幸などに目がいきがちだが、実は豪農、豪商と呼ばれた人たちの館が多く残されており、国の指定名勝に指定された庭園はかなりの数に上る。県内を走る国道290号線の約150kmに28ヶ所ある日本庭園と伝統建築をガイドする「にいがた庭園街道」なる活動もあるほどで、新潟は庭園王国なのである。
そのひとつが新潟市内、古町と呼ばれる新潟砂丘に古くから開かれた地域にある旧齋藤家別邸(以下別邸)だ。現在の地名は西大畑、旭町だが、このあたりは江戸時代には新潟町と呼ばれた湊町。日本海との間には広大な海岸砂丘があり、飛砂を防ぐため、宝暦年間(1751~64年)以降クロマツが植えられてきた。現在も齋藤家別邸周辺にマツ林があり、土地の歴史を伝えている。
その地に齋藤家が別邸を造り始めたのは大正5(1916)年。隣には元禄年間(1688~1704年)創業と言われる老舗料亭・行形亭(いきなりや)があるのだが、この料亭は砂丘のマツ林の中に点在する離れの風情で知られる。庭づくりに砂丘の高低差を活かしているわけで、齋藤家がこの地を選んだのもそういう理由なのだろう。
実際、齋藤家が別邸を造る以前の土地の使われ方では池泉と滝のある庭が人気を呼んだ料亭があったり、その後に移転してきた医院も庭園に療養室を点在させたりしていたのだとか。自然の地形を生かした庭が代々作られてきた土地なのである。
市民に愛され、保存活動を経て市が取得
齋藤家は近代の新潟市で活躍した新潟三大財閥のひとつで、別邸を建てたのは同家の四代目喜十郎(1864~1941)。齋藤家は幕末頃に家業の清酒問屋から事業を発展させ、明治に入ってからは北前船経営に取り組んで成功。海運業で得た利益をもとに銀行業、化学工業などにも進出した。四代目は衆議院議員、貴族院議員を歴任した政治家でもあり、別邸には総理大臣を務めた若槻礼次郎や大倉財閥の創始者大倉喜八郎など著名人の来訪も多かったそうだ。
だが、戦後の農地改革で所有する多くの田畑を失い、さらに五代目死去に当たって多額の相続税が課されたことなどから別邸を維持し続けるのが難しくなり、昭和28(1953)年には手放すことになった。買い取ったのは新潟の建設会社・加賀田組の二代目加賀田勘一郎氏。その後、加賀田家は2005年まで三代にわたって自邸として居住してきた。
現在、別邸は新潟市の所有となって保存、公開されているが、それにあたってはこの加賀田家の存在が大きいと別邸の学芸員を務める久保有朋さん。
「二代目の勘一郎氏は実業家であっただけでなく、市議会議員、市議会議長を務めるなど政治家であり、また、新潟県文化財保護連盟会長として文化財保護にも尽力した人です。趣味で囲碁や茶道をたしなんでおり、自宅は茶会が開催されたり、昭和30(1955)年には本因坊戦が行われたりと市民に開かれ、親しまれてきた建物でした」
そのため、別邸の所有が加賀田組を離れたときには存続を危ぶむ声が出た。それが「旧齋藤家夏の別邸の保存を願う市民の会」(のちに旧齋藤家別邸の会に名称変更)につながり、保存のための活動が行われることに。署名、募金、別邸の一部公開、庭園やまちづくりのシンポジウム、市議会への請願などさまざまな活動の末、2009年には新潟市が別邸を取得、2年間の補修期間を経て公開されることになった。
庭を眺めるために造られたもてなし空間
では、実際に見学していこう。門をくぐると玄関までの間には御影石を敷き詰めたアプローチがあり、主玄関を入った辺りから正面に庭が見えてくる。まっすぐ進むと廊下を挟んだところに大広間があり、ここから見る庭は圧倒的だ。
「別邸では建物を南側に寄せて北側に砂丘地形を利用した主庭を築いています。庭園は南に面しているので樹木の生育には良い環境ですし、建物内からは日の当たった明るい庭が見えることになります。また、庭の眺めを最大限に生かすため、庭側にはほとんど柱がなく、全面が窓といってもよいほど。齋藤家では迎賓館、もてなしの場として別邸を使っており、この風景がなによりのご馳走だったわけです」
大広間に座って眺めると目前には庭だけが広がり、それが季節ごとに趣を変える。春にはつつじ、あやめ、さつき、夏には新緑、秋には紅葉、冬には雪景色が楽しめるそうで、四季折々に魅力的だと久保さん。ただし、夏は日が入らず、敷地の中央に池があることもあって涼しく過ごしやすいものの、冬は極寒とか。それでも雪吊りが珍しいと関東圏から雪の季節に訪れる人も少なくないそうだ。
同じ大広間内でも座る場所によって庭の印象が変わるのも面白いところ。玄関近くから眺めると建物が額縁の役割を果たすのか、絵画的に見え、庭の高低も感じられるが、縁側近くから眺めると視界全部が庭となり、緑の中にいるように思えるのである。
ちなみに庭の高低差は8m近くあり、実に立体的。庭の高台にある茶室の近くには滝があるのだが、落差3.8mは庭園内とは思えないサイズだ。
建物と庭は一体という庭屋一如の考え方
「建物と庭を一体のものと考え、室内からの庭園の眺望を楽しむ造り、考え方を庭屋一如(ていおくいちにょ)と言いますが、別邸では部屋ごとに見えるものが異なります。1階、2階には同じ広さの大広間があるのですが、2階からの庭を見下ろす、俯瞰的な眺めは1階とは全く異なり、同じ庭だというのに新鮮な驚きがあります」
確かに庭自体は同じものであるにもかかわらず、部屋を移動するごとに見える風景は異なるように造られており、一軒の家の中に違う空間があるかのようだ。
作庭には明治時代から昭和初期にかけて東京を中心に活躍した庭師・松本幾次郎と弟の亀吉が関わった。幾次郎の代表作品としては渋沢栄一邸(曖依村荘 あいいそんそう。北区飛鳥山にある飛鳥山公園内・旧渋沢庭園。東京大空襲で大半の建物が焼失、庭も残っていない)、成田山新勝寺・成田山公園(部分)などがあり、当時は京都で活躍していた7代目小川治兵衛(植治。飛鳥山公園の近くの旧古河庭園、京都の無鄰菴などで有名)と並び称されたそうである。
この時代の作庭は西洋文化の影響を受け、自然の中の心地よい景観を取り入れることを理想とした「自然主義風景庭園」。それ以前の禅、浄土といった精神的なものを一定の約束事に基づいて配する禅寺の石庭などと比べて考えると、違いが分かるのではなかろうか。
植栽は常緑樹が中心となっており、特に多いのはマツ類。砂防のために植えられていたクロマツをそのまま利用、高さ16m、幹周2mの巨木に成長しているものもあり、高低差といい、あるものを上手に利用した庭園である。
トイレの天井にまでこだわった造り
建物にも見どころは多い。別邸は主玄関を境に西側が居室、接客空間で、東側は厨房、土蔵などのあるサービス空間となっており、見どころが多いのは西側。久保さんの案内で見学してみて気づいたのは細部や見えないはずのところにほどこだわりがあるという点だ。
たとえば2階のトイレの天井には紅白の杢板(木目の乱れや節などが美しく、面白い紋様として表れている板のこと)が組み合わせて貼られており、斬新。だが、知らなければ多くの人はトイレの天井を見上げることはない。このトイレには日本の伝統的な文様のひとつである猪目をあしらった窓が作られてもいた。
1階、西の間には今となっては作れない一面だけに麻が使われた襖もそうしたもののひとつ。地元の表具師によれば、京都に一人、職人さんが残っているとのことだが、今後、修繕しようとしたときにはできないかもしれないと久保さんは懸念を抱いている。
西の間は竹林を望む部屋で、ここでは欄間や引手その他にも竹があしらわれており、この部屋は竹で統一しようと楽しみながら造ったであろう施主、大工の姿を妄想してしまった。今では引手のような小さなものにこだわって家を作ることはほぼあり得ないが、当時のお金持ちにはよくある楽しみだったのだろう。
個人的には1階大広間付書院の欄間の、木目、自然にできてしまったひび割れ、穴などを上手に利用した彫刻の見立てぶりに感動した。普通なら穴が開いた材など使えないと思うところを、それを上手に取り込み、いかにも自然な風情に仕立ててあるのである。職人技とはこのことだ。
見えないところにこそ手をかける文化
建物を見学していて浮かんだ言葉がある。
羽裏だ。
これは羽織の裏地のことで、普通は見えないものだが、本当におしゃれな人はそこにこだわるという。特に男性の場合、着物、羽織自体は地味な色、柄が多く、こだわりを見せるとしたら羽裏にならざるを得ないが、見えないものにお金をかけるには心、懐に余裕が必要だ。
「2階、茶室の床柱には杉の虫食皮付丸太が使われているのですが、この縮れたような虫食いに出会うまでどれだけの材を見たかと考えると、気が遠くなります。しかも、それを茶室でもっともメインとなる床柱に配する。一見、すごく見えないものが実はという感覚は羽裏にこだわる粋さに通じるところかもしれません」
その粋な感じはかつての新潟の豪商たちの財力、それが築いてきた文化によるもの。別邸が市民活動で保存、継承されたのは、そうした文化を大事にしようという意識が強い土地柄からと言えそうだが、それでも問題も残されている。
お金をかけて造られたものを維持していくためにはお金がかかるという問題だ。
「特に庭の維持にはお金がかかります。指定管理者である私たちが毎朝やってくるボランティアの方々と一緒になって清掃、雑草取りをするほか、庭師さんにも定期的に手入れをしていただいています。新潟には庭園に興味を持っている人が多く、ボランティアも集まるのですが、これからはどうなるか。池の水も年に2回抜いて清掃しています。本当はもっと頻繁にやりたいのですが、予算がなく、できないのが現状です」
今後の保存、継承には費用の問題も
今後は建物の劣化も進み、修繕費も嵩んでいくはずだ。だが、公共の所有となるとすぐには予算が出ないという問題もある。
「雨漏りがあって2年くらいもてばいい程度の簡易的な修理をするような場合でも半年かかり、もっときちんとした整備計画となると何年かかるか。そうこうしているうちにも劣化が進んで修繕費も嵩むことになりかねません」
雨漏りがある、屋根が落ちたとなった場合、その部分を使わないようにするという考え方もあるだろうが、それでは時間の経過とともに保存、継承したはずのものが無くなってしまう。せっかくここまで保存、継承したものである。新潟の歴史、文化の生き証人としてできるだけ良い姿で残してもらいたいものだ。
ところでここまで触れてこなかったが、別邸では庭を散策できる。佐渡の赤玉石、現在は採石できない京都の鞍馬石、幻の名石といわれる阿賀野川上流の海老ヶ折石など貴重な庭石のほか、江戸の大名庭園から運ばれてきたという巨石もあり、建物を見下ろす眺望も見事。訪れたら忘れずに庭を歩いてみてほしい。可能ならボランティアに館内をガイドしてもらう(無料)、あるいは公式ガイドブック(300円)を購入して見学すると理解が深まる。
また、周辺には前述の行形亭のほか、北方文化博物館新潟分館(こちらも豪農・伊藤家の別邸)、砂丘館(旧日本銀行新潟支店長役宅)、安吾 風の館(旧市長公舎)、カトリック新潟教会、旧新潟県副知事公舎を利用したレストランなどがあり、建物好きには楽しい。
半径200~300mほどの範囲にこれだけの建物があり、残されていると考えると、かつての新潟の繁栄ぶり、そして古い建物、文化を大事にする土地柄が分かるというものである。
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