文明開化と近代建築のはじまり

「博物館明治村を歩く。明治~昭和初期の名建築に出合う!明治村の成り立ちと歴史」では、愛知県犬山市にある「博物館 明治村」の歴史や成り立ちについて紹介した。今回は、明治村に保存された貴重な建造物から見える、近代建築の歴史についてレポートしたい。

明治時代の幕開けで、日本に欧米から文化がどっと流れ込んだ。洋装を取り入れ、洋食を食べ、鉄道が走り、ガス灯で明るく照らされる。その影響は主に都市部が大きかったと思われるが、かなりのスピードで広まっていったことだろう。建築も然り。それまで培われてきた木造建築の技術の素晴らしさももちろんあるが、石造りやレンガ造りの洋風建築が見られるようになった。産業革命の進行と共に、鉄、セメント、ガラスを用いる近代建築の礎が築かれたといわれる。

政府がまず手掛けたのは、洋式工場の建設だったという。世界遺産となった富岡製糸場もそのひとつで、近代化を進めることで、輸出品だった生糸の質を高める目的があった。そういった工場によって、洋風の建築が地方にも知られていった。

1870(明治3)年建設の品川燈台。現存する最古の洋式灯台で、レンガ造り。重要文化財となっている。手前左側のレンガ造りの建物は三重県の菅島に建てられた菅島燈台付属官舎で、レンガは地元で作られたもの。こちらも重要文化財1870(明治3)年建設の品川燈台。現存する最古の洋式灯台で、レンガ造り。重要文化財となっている。手前左側のレンガ造りの建物は三重県の菅島に建てられた菅島燈台付属官舎で、レンガは地元で作られたもの。こちらも重要文化財

文明開化の圧倒的な存在感を地方で見せた公共施設の建物

官営工場に続き、洋風建築が進められたのは、官公庁や学校など公共施設。国会議事堂や鹿鳴館もそうだ。明治村では、三重県庁舎や、同じく三重県にあった宇治山田郵便局舎、三重県尋常師範学校などがある。

近代建築の広まりについて、学芸員の中井さんに聞いた。「例えば、”お雇い外国人”としてイギリスから招かれたジョサイア・コンドルは、工部大学校の教師として近代建築技術を持つ日本人を養成しました。またそれとは別に、地元の大工が見よう見まねで洋風建築を建てる流れもありました」。

三重県庁舎は、木造ではあるが、窓は欧米のスタイルである、上げ下げ窓。ベランダを備え、堂々とした存在感を放つ。実はこの設計は、地元の技術者、清水義八を中心にしたものだ。地方で地元の大工たちがそれまでの技術と洋風な意匠をミックスさせたものは、擬洋風と呼ばれている。

(左上)三重県庁舎。「木製の扉や窓の桟(さん)など、そこにさらに木目を書いているんですよ。実際使っている木よりも、もっといい素材に見せるために、わざわざペンキで書いているんです」と中井さんが教えてくれた(右上)1909(明治42)年建設の宇治山田郵便局舎。建物前にある黒いポストは複製した明治時代のもの(左下)三重県尋常師範学校のアーチ部分に施された飾り。こういった細かな手の込みようが明治期の建築のおもしろさだ(右下)山梨県山梨市にあった、東山梨郡役所(左上)三重県庁舎。「木製の扉や窓の桟(さん)など、そこにさらに木目を書いているんですよ。実際使っている木よりも、もっといい素材に見せるために、わざわざペンキで書いているんです」と中井さんが教えてくれた(右上)1909(明治42)年建設の宇治山田郵便局舎。建物前にある黒いポストは複製した明治時代のもの(左下)三重県尋常師範学校のアーチ部分に施された飾り。こういった細かな手の込みようが明治期の建築のおもしろさだ(右下)山梨県山梨市にあった、東山梨郡役所

耐震構造も考えられた民間の洋風建築

工場や公共施設の洋風化と共に、もちろん、一般の住宅でも取り入れられている。家全体を洋風にしたというと、明治村に移築された建物では、西郷隆盛の実弟である西郷從道(つぐみち)邸の洋館が代表的なものだ。

西郷從道は陸・海軍などの大臣を歴任し、在日外交官の来客も多かったことから、接客用に洋館を設けた。日常の生活は同敷地内の和風の住宅だったという。この洋館は、窓の上のカーテンボックスや暖炉や、廻り階段などはヨーロッパから輸入されたもの。また、耐震性を高めるための工夫として、屋根は瓦ではなく軽い銅板が使われ、壁の内側には錘(おもり)となるようにレンガが埋め込まれている。

耐震性が見られる建物としては、聖ヨハネ教会堂もある。1907(明治40)年に京都の河原町通りに建てられた教会堂だ。ここの構造は、1階がレンガ造り、2階が木造、屋根は金属板と、上にいくほど軽い素材となっている。

「レンガなどの素材は入ってきても、日本の風土も考慮して作っているので、そのまま洋風の建物を作ったわけではない」と中井さん。聖ヨハネ教会堂に見られるように、地震による被害を研究し、耐震構造が進歩したのも明治期の特徴だ。また、同教会堂の2階部分の天井は竹の簾が使われており、京都の気候に合わせたといわれている。選択肢が広がった建材を工夫しながら、建築されていった。

(左上)フランス人建築家レスカスの設計によるものと考えられている、西郷從道邸の洋館</BR>(右上)西郷從道邸の鉄板を押して整形したものが張られた天井。これも近代化のひとつ</BR>(左下)聖ヨハネ教会堂。2階が会堂で、1階は日曜学校や幼稚園として使われていた(右下)聖ヨハネ教会堂の2階の天井(左上)フランス人建築家レスカスの設計によるものと考えられている、西郷從道邸の洋館
(右上)西郷從道邸の鉄板を押して整形したものが張られた天井。これも近代化のひとつ
(左下)聖ヨハネ教会堂。2階が会堂で、1階は日曜学校や幼稚園として使われていた(右下)聖ヨハネ教会堂の2階の天井

文豪が住んだ家と商家に見る洋風化

家の建て替えは今と同じように大きなことなので、すぐに一般の人々の家全体が洋風化したわけではない。和住宅をベースに、障子がガラスを使ったものになったり、灯りが近代化したり、といった小さな変化だったりもしただろう。

明治村には、江戸時代から続く和の趣をたっぷりと残した一般住宅もある。そのひとつが、森鴎外と夏目漱石が住んでいた住宅だ。森鴎外は1890(明治23)年から1年ほど住み、「文づかひ」などの小説を執筆したという。夏目漱石は1903(明治36)年から3年ほど住み、ここで「吾輩は猫である」を仕上げた。掃き出し窓を行き交う猫の姿など、文中にはこの家の中の様子がよく表わされている。そんな住宅においての洋風化が見られるところが、廊下だ。驚くほどほんの短いものではあるが、それまではふすまで仕切るだけだった日本の住宅から近代化への一歩が見られる。

もうひとつご紹介したいのが、東松家住宅。こちらは名古屋市にあった商家だが、1901(明治34)年ごろに3階以上を増築したとされる。江戸時代には武家以外で3階建てにすることは許されておらず、1867年に京都と東京で解禁となり、以後全国で順次認められるようになったという経緯がある。正面の壁が3階まで直立しているのは日本の建築にはなかったもので、ビル化する商店建築の先駆けとも言われる。

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明治時代の建築は、細かな装飾や優美なたたずまいなど魅力的だ。紹介しきれなかった建物がたくさんあり、どのように今につながっているのか、実際に見てわかる楽しさも多いので、ぜひ足を運んでほしい。昔のものから学ぶことは多く、これからの住まいのヒントがあるはずだ。

取材協力:博物館 明治村 http://www.meijimura.com/

(左上)森鴎外と夏目漱石が住んだ住宅(右上)台所から座敷へとつながる廊下</BR>(左下)東松家住宅(右下)東松家住宅の内部(左上)森鴎外と夏目漱石が住んだ住宅(右上)台所から座敷へとつながる廊下
(左下)東松家住宅(右下)東松家住宅の内部

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