山手線御徒町駅の開業は1925(大正14)年11月1日。1971(昭和46)年開業の西日暮里駅、2020(令和2)年営業開始(2023年10月31日現在では仮開業)の高輪ゲートウェイの両駅を除けば、山手線の駅ではもっとも遅い開業になります。
御徒町駅の開業は、上野駅~東京駅間の高架線開業に伴ったもの。したがって開業当初から高架駅でしたし、山手線の環状運転開始と同時に開業した駅でもあります。
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道路をまたいでホームをつくり、開業

開業当初からの高架駅
山手線御徒町駅は、駅の北側には春日通りに架かる「切通橋(きりどおしばし)架道橋」、南側には「第3御徒町高架橋」という道路をまたぐ2つの鉄道橋があり、この2つの橋を結ぶ形で高架上のホームが設けられました。
開業したホームは、当時の地形図から推測すると、およそ130mとかなり長いものでした。というのも、御徒町駅が誕生した1925年は、山手線は全長17mほどの車両の6両編成で運転していたからです。
この状況に合わせたホームの長さは約100mであり、その規模であればホーム北端が春日通りをまたぐ必要はありませんでした。しかし実際には将来的に山手線の編成が長くなることを見越して、あらかじめ余裕をもった長さでつくられたのです。
延伸を繰り返したホーム

アーチとトラスを組み合わせたレトロな雰囲気の上屋
結果的には、山手線は、1961(昭和36)年ころからは1両20mの新型車両による8両編成、1971(昭和46)年にはさらに2両増やした10両編成、そして1991(平成3)年には現在の11両編成へと変わりました。
8両までは対応できたホームも、10両以上になると対応できず、その都度ホームは建て増しをして長くなっていきました。
なお、現在は山手線内回りと外回りでホームが分かれていますが、御徒町駅開業当初は西側(内回り側)のホームのみの駅でした。ということで、山手線内回りホームの上屋(うわや)などの多くは開業した当時のまま残っています。
特にホームの屋根を支える構造はアーチ構造になっており、このアーチが、ホーム幅の狭くなる上野駅寄りなどでは急カーブになっているのが印象的です。
このことを踏まえてホームが延伸工事をされた部分を見ると、柱や屋根の形状が異なっていて、延伸工事の名残が見てとれます。

内回りホーム北側では柱間が狭くなってアーチの半径が急カーブになる

1991年の山手線11両編成化に対応するためホームを延伸した部分は屋根の形状が異なっているのが分かる
御徒町駅は当初から高架駅として建設されました。それも、すでに市街地化した地域での建設ということで、高架上の敷地にはさほど余裕はありません。
これも一因となって、山手線の10両化、11両化に伴うホームの延伸には苦心させられたようです。
内回りホームの南端は幅が1mほどしかありません。この区間は山手線と並行して京浜東北線の線路が設けられていますが、御徒町駅の直近で2つの線路が左右に広がるようになっています。

ホーム南端はかなり細くなっている

駅直近で離れる山手線と京浜東北線
架道橋を見る

南口は第3御徒町高架橋の下
御徒町駅は、春日通りに架かる「切通橋架道橋」のところに北口、「第3御徒町高架橋」のところに南口が設けられています。
改札口の周辺は、うらぶれたような雰囲気ありましたが、ここ数年で駅の改修工事が行われ、明るい雰囲気へと一新されました。

切通橋架道橋の下に駅がある。北口
北口の切通橋架道橋を見上げると、構築された年代によって鉄骨のスパンや高さが異なっていて、不ぞろいになっているのが分かります。
架道橋、架道橋を支える柱、ホーム、ホームの柱、ホーム上屋などが開業時のまま残っているのです。架道橋には「大正13年」の年号が刻まれたプレートが張り込まれています。

切通橋のプレート。塗装されて読みにくいが、1行目は「年三十正大」、4行目は「省道鉄」と読める。右から左へ読む
駅名は江戸時代の武家屋敷から
駅名の由来は、この辺り一帯が徳川幕府の御徒衆(おかちしゅう)の組屋敷となっていたためです。「御徒」は「徒士(かち)」とも呼ばれ、馬への騎乗が許可されない、すなわち戦時には歩兵となる武士のこと。平時には主君の護衛を行うことが業務とされました。
徒士は下級武士のトップとして諸藩に置かれたので、「御徒町」「徒士町」「徒町」などと表記して「おかちまち」と読ませる地名は、城下町であれば全国各地で散見します。
徳川幕府の場合は、主として、将軍の行動に伴って徒歩で護衛を行う、現代で言うSPのような存在になります。身分は「御目見以下(おめみえいか)」の下級武士ですが、将軍の身辺警護という重要な役職を担っているため、町奉行所の同心(江戸幕府の下級職名)よりもはるかに格上であり、プライドは高かったと思われます。
ただし、俸禄(ほうろく・給与)は安かったため、家計を賄い切れず内職をして生活していたようです。将軍が江戸城から外出しない限り仕事がなかったので、内職する時間には困らなかったことでしょう。
厳密に言えば、歴史的な地名としては「中御徒町」ないしは「仲御徒町」が正しいのですが、「なか」を取って「御徒町」としてしまった理由は不明です。
ただ、後から誕生した地下鉄日比谷線は駅名に「仲御徒町」を採用し、これによって歴史的地名が駅名として残ることになりました。
参考までに、東京の地名・駅名で「町」の字を用いる場合、この御徒町のほか「大手町」などが「まち」の読みで、「有楽町」「人形町」「小伝馬町」などは「ちょう」の読み。
「まち」と読む地域は江戸時代には武家地だったところで、「ちょう」と読む地域は町人(ちょうにん)支配地だったことに由来します。
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外国人観光客にも人気の観光地となった「アメ横」

駅北口を出ると目の前がアメ横入り口
御徒町駅を利用する人の多くが足を運ぶスポットが「アメ横」です。駅北口を出ると横断歩道の先に入り口があります。アメ横は、御徒町駅前から線路に沿って上野駅前まで、山手線の高架橋西側と高架下に400軒あまりの店が軒を連ねる商店街です。
アメ横のルーツは戦後のヤミ市で、食糧難の時代に、人工甘味料を使用したあめ菓子や芋あめが人気を呼び、やがて300軒ほどのあめ菓子店が並ぶようになったといいます。
横丁の北側が上野ということもあって、商店街は北関東方面まで評判となり、「飴屋横丁」と呼ばれたのが「アメ横」の呼称の始まりといいます。

観光客の姿が絶えないアメ横
1950(昭和25)年ころからは、駐留米軍の放出物資が売られるようになり、「飴屋横丁」がいつの間にか「アメリカ横丁」となりました。
といっても、「飴屋横丁」でも「アメリカ横丁」でも、略称は「アメ横」ということで同じです。高度成長期には、米軍放出物資の店が輸入品の店へと変わっていきました。
現在は魚介類や乾物、菓子などの食品、衣類、雑貨、宝飾品など、さまざまな業種の店が並んでいます。また、かつては山手線の西側中心だった商店街が東側にも広がり、屋台に近い形態の飲食店も数多くあります。
こうした、いかにもダウンタウンといった雰囲気が、外国人旅行客に人気となっているようです。
ホームから見える線路際の寺院

アメ横を見守る徳大寺
御徒町駅ホームの上野寄りに立つと、線路際に銅板ぶき屋根の寺院が見えます。これが徳大寺。目立つのぼり旗には「摩利支天(まりしてん)」の文字。徳大寺は摩利支天を本尊とする日蓮宗の寺院です。今からおよそ600年前に創建されたという古刹です。
摩利支天は古代インドの神。かげろうを神格化した神で、「存在はすれど、姿は見えにくく、捉えどころがない」とされます。また「日天(にってん・太陽)に先んじて進む」ともされます。
太陽を背にして進むということは、相手からは常に逆光となって姿は見られにくいことになり、これは武家の戦術の基本でもあります。こうしたことから、「敵の攻撃を受けることなく、戦いを勝利に導く」とされ、中世から武士の間での信仰が深まりました。
そして江戸時代、徳川家康も江戸城下のこの摩利支天に参拝しました。すると「将軍さまが信仰する」ということで、それにあやかろうと庶民もこの摩利支天を信仰するようになったのです。特に、財宝を盗まれることがないということから、盗賊よけとして商人たちから信仰され、いつからかご利益に商売繁盛や厄よけが加わりました。
徳大寺があるのは御徒町駅からアメ横商店街に入ってすぐ、アメ横の店舗を見下ろすようにして、石段を上ったところに立っています。アメ横といえば一年を通じて買い物客でにぎわうところ。アメ横商店街のにぎわいも、徳大寺摩利支天さまのご利益かもしれません。

ホームの出口案内に、「アメ横」の表示が追加されている。アメ横の最寄り駅として多くの人が訪れる証しだ
御徒町駅は山手線のなかでも外国人観光客が多い駅です。それもここ数年で急激に増加したようです。その理由はアメ横の存在。
御徒町駅はインバウンドによって、「トーキョーのダウンタウンマーケットの玄関口」という、これまでとはまた違った表情を持つようになったのです。
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更新日: / 公開日:2023.12.21












