駒込は、LIFULL HOME’Sが2017年に調査した「山手線29駅で最もマイナーだと思う駅」の第3位(1位:鶯谷、2位:田端)。JR東日本調査による駒込駅の1日あたりの乗客数は4万8,964人(2017年度)と山手線29駅で25位。山手線の駅の多くは、山手線と他の私鉄・地下鉄との乗換駅となっていますが、26位以下は鶯谷や新大久保など乗り換え連絡が全くない単独駅。駒込駅は地下鉄南北線との乗り換え駅ですが、山手線内の乗り換え可能な駅では最下位の乗客数となっています。

利用する人が少ないことが、マイナーなイメージに結びついたのかもしれません。しかし、利用客が少ない=マイナーということは、まだ知られていない魅力が埋もれているということでもあるのです。今回は、そんな駒込駅にスポットを当てて、まずは歴史と駅周辺の立地をご紹介します。

駒込駅は台地から低地への境目にあるため、駅の脇には急坂の道が。写真右奥の横断歩道が東口改札から出たところ

駒込駅は、山手線の駅としてはどちらかといえば後発の駅で、明治43年(1910)11月15日の開業です。

 

山手線は、明治18年(1885)に日本鉄道(現在のJRの前身)・品川線が品川~赤羽間に開業し、明治29年(1896)に日本鉄道・土浦線が田端~土浦間に開業。その後、品川線と土浦線を短縮ルートで結ぶ構想が生まれ、明治36年(1903)に日本鉄道・豊島線が池袋~田端間に開業。豊島線の開業にともなって、池袋と大塚、巣鴨の各駅が誕生しました。

 

その後、日本鉄道は品川線と豊島線を合わせて「山手線」と改称。そして明治39年(1906)、日本鉄道は国有化されます。山手線の駅の多くは日本鉄道時代に開業していますが、駒込駅は国鉄山手線の駅として誕生した駅なのです。

ホーム中央から古レール再利用の柱が立ち上がる

 

山手線は開業当初は1両の単行で運転され、その後2両編成、昭和初期には6両編成、戦後に7両編成から8両編成、昭和43年(1968)からは10両編成、平成3年(1991)からは11両編成で運転されています。

 

駒込駅はそのたびにホームを建て増し、延伸を繰り返してきました。駒込駅の場合、ホームの西側には本郷通りに架かる駒込橋がホーム上にあるため、西側にホームを延伸することができず、東側に継ぎ足す形でホームを延ばしていきました。

 

注意して見ると、ホームの途中で屋根の形が変わっている、鉄骨材に古いレールを転用しているところとそうでないところがあるなど、ホームが少しずつ先へ先へと建て増しして延伸していった、その痕跡を確認することができます。

 

エスカレーター付近は、ホームの左右から2本の柱が立ち上がる

 

ホームで屋根を支える柱を見ると、本郷通り側の改札から下るエスカレーターの付近では、ホームの左右2ヶ所から立ち上がった柱が上部で曲げられ、桁となって屋根を支えています。

 

この柱と桁を兼ねた架構は、古いレールを再利用したものです。柱は少し田端寄りの場所からはホーム中央に1本が立ち上がり、緩やかな曲線をもつY字形を描いて屋根を支えるようになります。

 

6号車付近で屋根の形状が変わる。6両編成時代の屋根は破風が木製の板張り

 

この架構に支えられる屋根は、6号車停車位置付近まで続きます。ここで屋根の形状が変わり、それまでの山型から緩やかなV字型になるのです。架構は古レールを利用していますが、曲線がないものに変わります。これが、6両編成時代のホームから延伸した部分となります。

 

「こまごめ」の駅名票がある柱は鋼材。その右奥、5号車~6号車付近の柱は古レールの再利用。屋根の形状も異なる

 

5号車停車位置付近で、架構は古レールではなく鋼材となり、屋根はやや高い位置に設けられるようになります。7両編成対応のホームから建て増しした部分で、この屋根は1号車停車位置付近まで続きます。

 

延伸を繰り返した結果、ホームの東端はこんなに狭くなってしまった

 

1号車停車位置付近では、屋根がスレートのものから左右方向に傾斜を持たない波形のものに変わります。屋根材も、この部分だけは金属製です。

 

ホーム最東部。屋根の形状の違い、床にも延伸工事の跡が見られる

 

平成3年(1991)、10両編成から11両編成となった電車に対応するために延伸した部分で、ホーム床面にも延伸工事の跡が見られます。

 

ちなみに、昭和22年(1947)の地形図を見ると、ホームの長さは現在の3分の1程度の長さしかなく、東口の改札はその後の工事に伴って開設されたものと推測できます。

 

駒込駅東口。この通路は豊島区と北区の境界にあたる

 

駒込駅の東口改札を出た先は、山手線の内側と外側を結ぶ中里道ガードで、このガードは東口改札より先に作られており、後に東口改札が設けられ、このガードに連絡する通路が設けられたようです。

駒込駅を東側から見る。ホーム東端はかなり狭く、またカーブもしていて、東側の延伸は現状が限界のようだ

 

駒込駅周辺の山手線、巣鴨~駒込~田端の区間は、巣鴨から田端へずっと下り坂になっています。これは、田端駅が京浜東北線の路盤に合わせて、飛鳥山から続く台地の東端の縁、標高5.9mのところにあるのに対し、台地上の巣鴨駅は標高20mの高さにあるという標高差のためです。

 

このため、巣鴨駅から駒込駅は台地を削った掘割のなかを電車が走ります。駒込駅の東側で旧谷田川(やたがわ)が台地を削ってできた谷間を走るようになり、飛鳥山から続く台地を切通しで抜けて台地の縁の田端駅へ向かうのです。

 

標高差の大きなこの区間の車窓風景の変化は、山手線のなかでも際立つダイナミックな風景、といってもいいでしょう。

 

国土地理院の地形図を標高10mごとに色分けしてみた。駒込駅が本郷台と谷田川沿いの低地のはざまに位置するのがわかる

 

この台地と谷のはざまにあるのが駒込駅です。駒込駅は本郷台と呼ばれる台地の東縁が、谷田川に沿った低地へ向かって下る場所に位置しています。このため、駅の周辺は、坂が多く複雑な地形となっています。

 

ホームの西側(巣鴨駅寄り)ではホームに比べて周囲の標高が高く、切通しの谷底にいるかのような印象で、ホームから階段やエスカレーターを上ると改札口となっています。一方、ホームの東側(田端駅寄り)はホームに比べて周囲の標高が低く、眼下に町並みを見下ろすことになって、階段を下ると改札口となっています。

 

駒込駅が開業した当初は、本郷通り側の改札口しかなかったことを考えると、ホームの延伸工事によって、駒込はこうしたはざまの駅へと生まれ変わった、と言えそうです。

 

駅の東側にあるガードをくぐる道路は、暗渠化されたかつての谷田川

本郷台の台地は、江戸時代に大名屋敷や旗本屋敷だったエリア。道路は直線的で、敷地が広い住宅が目立ちます。学校が多いのも特徴。特に、加賀前田家(加州侯)屋敷跡の一帯は高級住宅地として知られています。

 

嘉永7年(1854)の駒込駅付近。尾張屋清七板「嘉永七歳 染井王子巣鴨邊絵図」より

 

ここは明治になって隣接する松平時之助(柳沢保申)屋敷跡とともに、三菱財閥の祖として知られる岩崎弥太郎の所有となりました。松平時之助屋敷跡の庭園は、六義園として知られています。

 

その後、三菱財閥3代総帥の岩崎久彌氏が、旧前田家屋敷跡周辺の土地を大和郷(やまとむら)として分譲。一区画150~300坪の広い分譲地でしたが、第25・28代内閣総理大臣の若槻礼次郎をはじめ、加藤高明、幣原喜重郎と内閣総理大臣経験者3人が邸宅を構えるなど、高級住宅地としてのステイタスを確立しています。

 

一方、旧谷田川沿いの低地は道が細く入り組み、低層住宅が密集した地域が多く見られます。下町らしい商店街も「さつき通り」「アザレア通り」「霜降銀座」など複数あって、親しみやすい雰囲気を感じさせます。

 

このように地形の変化がそのまま駅周辺の街に、高い場所には山手らしい高級住宅街、低い場所には下町の密集住宅街という違いを生んでいます。山の手であり、下町でもあるというのが駒込なのです。

駒込駅近くには、山手線で唯一の踏切があります。初期の山手線にはいくつもの踏切がありました。しかし、高度成長期以降、車社会が急激に発展していき、交通渋滞の原因となる踏切は廃止される、あるいは立体交差に変更されるなどしてきました。

 

山手線は日中4~5分間隔、ラッシュ時には2~3分間隔で運転されています。都心の鉄道なので、周辺の交通量も非常に多く、踏切があれば渋滞を招くのは必至となります。そんな中、山手線内で唯一残っているのが、駒込駅から東に400mほどのところにある第二中里踏切です。

 

第二中里踏切

 

第二中里踏切は、大正14年(1925)、山手線の電車専用線複線化工事の際に設置されました。この工事は山手線電車と山手貨物線を分離させて、電車線と貨物線を合わせて複々線化させるもので、このときの山手貨物線の線路には、現在は湘南新宿ラインの電車が走っています。

 

ここでは山手線電車と道路は平面交差の踏切となっていますが、湘南新宿ラインとは立体交差する跨線橋(こせんきょう)になっています。なぜこのような形態になったのかというと、この踏切の東側で湘南新宿ラインと山手線が立体交差をするため。湘南新宿ラインは大きく北へカーブして山手線をくぐり、赤羽へ向かいます。山手線は湘南新宿ラインを越えて東の田端へ向かいます。このために、立体交差に近いこの踏切では、山手線と湘南新宿ラインの高さに差が生じているのです。

 

そして、この高低差が、踏切を解消するためのネックとなりました。踏切を廃止して地下道化するためには、道路の下を走る湘南新宿ラインとの交差に踏切を新たに設けることになります。湘南新宿ラインの下をくぐるように地下道を深くする、あるいは道路を陸橋化して山手線の上を渡るようにする、というのは周囲の土地状況などからほぼ不可能。陸橋化するのは歩道橋がせいぜいと思われます。

 

踏切は1時間あたりの遮断時間が40分以上に及び、この数字だけ見れば“開かずの踏切”です。しかし、実際には遮断機はしばしば下りるのですが、車の渋滞が起こることはほとんどありません。踏切の道幅は、普通車がすれ違うのも難しいほどで(自動車の通行はお互いに譲り合っているのが実情)、幹線道路の抜け道にもなりにくい場所であり、ここを通る車の量は多くはありません。歩行者にとっては、線路を越えることができる場所として貴重であり、しかも車の交通量が少ない、ということで、都心部の踏切が奇跡に残ったといえるでしょう。

 

 

しかし、この踏切も将来的には廃止されそうです。JR東日本と地元自治体の北区はこのほど「第二中里踏切改良検討会」を設置。第二中里踏切について「立体交差化」「歩道拡幅など構造改良」「歩行者などの立体横断施設の設置」「保安設備の整備」などを検討中で、2019年度中に調査設計協定を結び、2020年度に改良計画をまとめる予定となっています。

 

まだ結論は出ていませんが、筆者の個人的見解では、踏切は廃止して歩行者専用のスロープ付きの歩道橋を設けるというプランが現実的ではないかと思われます。というのも、この踏切から200mほど田端駅寄りに、整備中の「都市計画道路補助92号線」があり、山手線の内側と外側で工事が進められているのです。この道路が山手線と立体交差すると、踏切を利用していた車はこの道路をう回路として利用できます。

 

山手線唯一の踏切というのは、話題としては面白いところかもしれません。しかし、それだけでは済ませられないこともあります。この踏切では、2016年に人身事故が起きています。ひとたび事故が起きると、2~3分間隔で運転されている山手線全体がストップしてしまい、影響は甚大なものになります。

 

JR東日本は将来的に山手線の無人自動化運転を視野に入れているといわれます。踏切は事故のリスクがあるだけでなく、ここから人が線路上に入り込む可能性があるなど、自動運転化には解決すべき課題となっています。第二中里踏切が「山手線唯一の踏切」として話題に上るのもあと数年、といったところでしょうか。

 

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