田町は江戸時代初期からの町場であり、駅西側の三田エリアは奈良時代にまでさかのぼる歴史の古いエリアです。慶應義塾大学の最寄り駅でもあり、また芝浦エリアの玄関口でもあります。そんな田町駅周辺の歴史スポットを探ります。

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エスカレーター脇のモザイク壁画

田町駅の三田口、エスカレーターの横には、タイル壁画が飾られています。壁画は、幕末の西郷隆盛と勝海舟の会見がモチーフ。

 

江戸時代、現在の田町駅近くに薩摩藩江戸蔵屋敷があり、1868(慶応4)年3月14日、西郷隆盛と勝海舟が会談を行ったことで知られています。

 

二人の会談はこの日で3度目。前日、品川の薩摩藩下屋敷で行われた第2回の会談では、14代将軍徳川家茂(いえもち)に嫁いだ皇女和宮(こうじょかずのみや)の安全を保証することが合意されましたが、そのほかの条件は何一つ進展のないままで、会談はほぼ決裂という切羽詰まった状況になっていました。

 

勝海舟の希望は、15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)を処刑しないこと、江戸庶民の命と財産を守ること。これに対し薩長(さっちょう)軍は、慶喜は処刑、また江戸を軍事的に占領したということをアピールするため、武力攻撃と城下町の焼き払い必定、と主張。翌15日には放火による江戸への攻撃決行が決定的という状況だったのです。

 

結果的に、この事態は、江戸を焦土にしたくないという思惑の英国など外国の介入によって回避されることになりました。駅近くの「msb Tamachi 田町ステーションタワー」の1階エントランス付近に記念碑があります。

本芝公園は線路際に遊具などが点在する児童公園

「msb Tamachi 田町ステーションタワー」の脇の道を進むと、本芝公園。

 

線路に沿って細長く広がる、遊具や噴水があるごく普通の児童公園ですが、ここはかつて「雑魚場(ざこば)」と呼ばれていた魚市場があった場所です。この辺りの漁民が、東海道沿いの道筋で小魚などを中心に商いをしたことから、この名で呼ばれるようになったものです。

 

雑魚場は、古典落語「芝浜」の舞台にもなった漁港であり、芝のこの地に水揚げされる小型のエビは「芝エビ」と呼ばれるようになったのです。

 

1967(昭和42)年、埋め立てが始まったころの雑魚場(出典:東京都オープンデータカタログサイト)

1872(明治5)年に新橋~横浜間に鉄道が開業したとき、線路は海岸線に近い海上に堤防を築いてその堤防上に敷かれました。

 

このため、海岸にあった雑魚場は鉄道より内陸になってしまいました。しかし、堤防下に海に通じる水路が設けられたため、この水路を通じて舟の行き来が可能な入り江となり、舟も係留されていたのです。

 

この入り江は昭和40年代まで残っていましたが、周辺の埋め立てが進んだこともあって、次第に漁業は行われなくなりました。そして1970(昭和45)年、この入り江も埋め立てられ、入り江の跡地は港区立本芝公園となったのです。

 

現在、船溜まりには屋形船や釣り船が係留されている。この船溜まりのすぐ先が雑魚場跡だ

本芝公園にはかつての水路跡と思われる、線路をくぐる歩行者専用通路があります。通路を進むと、その先には屋形船などが係留されている船溜まり。

 

現在公園となっている場所まで水路が続いていたことが想像できます。

 

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雑魚場跡の公園から線路をくぐって少し行った辺りは、かつて海に面した風光明媚な地として知られ、明治時代の初期から「芝浜」の新鮮な魚介類と海辺の風景、さらには温泉(鉱泉)も発掘され、料亭や旅館が立って、にぎわうようになりました。

 

その後、芸者置屋(げいしゃおきや)も置かれ、三業地(さんぎょうち:料亭、待合茶屋、芸者置屋の三種の店がある花街)として発展しました。

 

1923(大正12)年、関東大震災が発生すると、被災したほかの花街から移転してきた業者などで芝浦花街は拡大。またこの時期に、東京港の築港工事が進められたため各地から労働者が流入、より多くの人でにぎわうようになりました。

 

花街の中心となったのは「芝浦雅叙園」という料亭で、創業者の細川力蔵は目黒に支店「目黒雅叙園」を開業しています。

 

その細川力蔵は、当時の芝浦三業組合長となって、1936(昭和11)年に見番(けんばん:芸者の手配を行い、稽古場でもある花街の中心的施設)を建てました。その建物が現在も残っています。

 

芝浦見番の建物だった港区立伝統文化交流館

太平洋戦争下では芝浦花柳界は空襲を避けて疎開、三業組合は解散となり、「芝浦見番」の建物は東京都の所有となりました。建物は戦後、港湾労働者の宿舎「協働会館」として利用されてきましたが、2000(平成12)年に老朽化のため閉鎖。

 

そして港区の有形文化財として建物の保存整備がなされ、現在は港区立伝統文化交流館として一般公開されています。

 

花街の中心だけあって、壮大な唐破風(からはふ)玄関が印象的で、2階建てにもかかわらず、3階建てに匹敵するような威容を放つ建物です。都内に唯一残る昭和初期花柳界の見番建築として貴重な存在といえるでしょう。

 

田町駅は、東口を「芝浦口」、西口を「三田口」と呼んでいます。「三田」といえば、慶應義塾大学を連想する人も少なくないでしょう。六大学野球の神宮球場で「光あふるる三田の山…」の歌を耳にした人もいるかもしれません。

 

その田町駅三田口から、駅前の横断歩道を渡った先にある細い道に沿った商店街が慶応仲通り商店街(慶応通り振興会)。ここを抜けると桜田通りで、通り沿いに慶應義塾大学三田キャンパスが広がっています。

 

重厚な雰囲気の慶應義塾大学東館と東門

桜田通りを右折して北上すると程なく慶應義塾大学の東門。

 

レンガ造り風の壮大な建物で、3階まで吹き抜けのアーチの門と、その上部の東館からなる建物で、2000(平成12)年の建築です。

 

ゴシック様式の重厚な重要文化財建築・図書館旧館

この門の奥に見えるレンガ造りの建物が、重要文化財に指定されている図書館旧館。

 

1923(大正12)年の関東大震災、1945(昭和20)年の東京大空襲と、2度にわたって被災しましたが、そのたびに修復を繰り返し、1912(明治45)年の竣工当時の姿を今日に伝えています。

 

曾禰達蔵(そねたつぞう)と中條精一郎(ちゅうじょうせいいちろう)の設計で、レンガおよび花こう岩のゴシック様式。その華麗な外観から、慶應義塾大学のシンボル的存在として愛されています。

 

図書館旧館の階段踊り場を飾るステンドグラス

図書館旧館を入ってすぐのところには、高さ約6.5m、幅約3mのステンドグラス。日本のステンドグラスの開祖とされる小川三知(おがわさんち)の作品でしたが空襲で失われ、1974(昭和49)年に復元されたものです。

 

図書館旧館は1階がカフェ、2階が慶應義塾史展示館となっており、大学関係者でなくとも入館・見学できます。

 

塾監局(事務所)の建物はロマネスクを思わせる様式

図書館旧館の向かいには、同じく曾禰達蔵と中條精一郎の設計で1926(大正15)年竣工の塾監局(事務所)。

 

褐色のタイル貼りに2階部分の半円アーチ窓。玄関ポーチの構えや最上部のとがったパラペット(建物屋上の外周部を立ちあげる形で作られた低い手すり壁)など、様式主義的な外観が、図書館旧館とは対照的です。

 

和風のなまこ壁が印象的な三田演説館

三田キャンパスには、もうひとつ重要文化財建築があります。それが1875(明治8)年建築の「三田演説館」。福澤諭吉の存命中から存在する唯一の建造物です。

 

なまこ壁が印象的な和風の建物で、こちらは一般公開されておらず外観のみ見学できます。

 

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ジョサイア・コンドル建築の綱町三井倶楽部

慶應義塾大学を正門から出て少し行くと、平安時代の武将・渡辺綱(わたなべのつな)の伝説を伝える綱坂(つなさか)があり、この坂を上った頂上には、綱町三井倶楽部(つなまちみついくらぶ)があります。

 

1913(大正2)年に三井財閥の迎賓館として完成した建物で、ニコライ堂などの設計を手がけたイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの手によるものです。

 

三井倶楽部は会員専用の施設で一般人の立ち入りはできませんが、門前からその建物を眺めることができます。

御田八幡神社

御田八幡(みたはちまん)神社は、709(和銅2)年創建と伝えられる、都内でも有数の古社です。「御田」は「三田」の古称で、平安時代中期の『和名抄』に「御田郷」と記されている、都内でも最古級の地名のひとつです。

 

御田の地名の由来には諸説がありますが、朝廷に(あるいは神社仏閣に)奉納する米を産する田んぼがあった、という説が一般的。こうした歴史から、三田の総鎮守として厚く信仰されてきた神社ですが、こぢんまりとした境内からは、そうした面影はあまり感じられません。

 

石段左手の石垣にある、竜の形の注ぎ口から流れ落ちる水は、三田丘陵から湧き出るもので、都心では貴重な自然の湧き水です。

 

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