駒込駅の前編では、駅と鉄道の歴史について見てきましたが、今回は駅の周辺、“駒込”という土地そのものについての歴史を探ってみましょう。

マイナーな駅というイメージもあるようですが、歴史を背景にした駅の風景は「関東の駅百選」にも選ばれています。

駒込の地名が文献に登場するのは「北条氏所領役帳」が最古と思われます。小田原の北条氏が永正年間(1504~1521)から永禄年間(1558~1570)にかけて検地した土地台帳のようなもので、葛西城(現在の葛飾区)在城の遠山氏の知行地(領地)に「駒込三十九貫文」の記述がみられます。

 

このように、駒込の地名は戦国時代にはすでに定着していたことは確認できますが、その発祥はもっと古いものと予想されます。ただ、地名の由来はいくつかの説があります。その多くは、駒込の「駒」は“馬のことである”とする説ですが、「駒」は馬のことではなく、「転間(こま)」、すなわち“川に囲まれた谷や低湿地のことを指す”と地形に由来する説もあります。

 

よくいわれるのが、“原野に馬が群がっていたことが地名の由来”とする説。馬は大陸から渡来した動物で、古代は人の管理下で飼育されていたという歴史的背景からすると、野生の馬が群がっていたとは考えにくいところ。しかし、朝廷に馬を献上する「牧(まき)」に馬が群がっていた、ということであれば可能性があります。

 

古代武蔵国は良質の馬の産地であり、勅旨牧(ちょくしまき:国営牧場)のほか、私牧も点在したということなので、そうした私牧のひとつがあったのかもしれません。駒込エリアのすぐ北に隣接する西ヶ原(北区)には、古代の豊島郡衙(としまぐんが:奈良時代~平安時代の豊島郡役所)がありました。郡衙は朝廷への献上品が集約される場所だったので、献上される馬が集められていたということも考えられます。

 

駒込の地名について、日本武尊(やまとたけるのみこと)に由来するとの説もあります。日本武尊は古代史に登場する英雄的武人で、東征の折、このあたりに陣を張り、味方の軍勢や騎馬武者が集まっているのを見て「駒ごみたり」と言った、ということが由来とする説です。しかし、大陸から日本列島への馬の伝来時期は、4~5世紀頃とされています。日本武尊はそれ以前の時代の人物とされ、その時代にはまだ日本に馬はいなかったと思われるのです。

妙義神社は豊島区最古の神社

 

地名の由来ではなかったとしても、駒込には日本武尊の伝承が伝わっています。駒込駅近くの妙義神社がその舞台。縁起では、日本武尊が東征の折に、陣を張ったといわれるのがこの地で、後に社が建てられました。そして、日本武尊が白鳥に生まれ変わり飛び立ったという伝説から、白雉2年(651)5月12日、白鳥社と号したとのこと。

 

このことから、妙義神社は豊島区内では最古の神社とされています。いつ妙義神社と改称したのかは不詳ですが、永享年間(1429~1441)には、関東管領・上杉憲実の家臣だった今井茂義がこの付近を所領として賜わっており、この今井氏の出身地が上野国(こうずけのくに:現在の群馬県にあたる)であることから、故郷の妙義神社を勧請した可能性があります。

 

 ちなみに、この妙義神社は、開業時の駒込駅と関わりがあるようです。それは、駒込駅が開業に先んじて“妙義駅”として仮開業していた、との説があること。この妙義駅(停車場)については資料が乏しく詳細は不明ですが、駒込駅の正式開業と同時に廃止された、または妙義駅から駒込駅へと改称されたと思われます。

江戸時代、駒込と呼ばれた地域は、現在の豊島区駒込のほか、文京区の本駒込や千駄木、谷中、向丘、西片の一部などを含む広いエリアでした。駒込エリアは「駒込村」だったところになります。

 

一般的にいって、江戸近郊の「村」は農村で、幕府直轄地や旗本領・寺社領などがあり、代官(だいかん)や名主(なぬし)が行政を管轄し、農民は代官や名主を通じて年貢をそれぞれの領主に納めます。一方、「町」は町奉行所が行政を管轄します。町では農作物を生産していないので、町民が年貢を払うことはありません。

 

安政4年(1857)の本駒込付近。「駒込片町」「駒込肴町」などの文字が読める。「嘉永七歳 安政四歳改 尾張屋清七板 東都駒込邊絵図」より

 

駒込村は江戸からも近く、人々の行き来も少なくなかったことから人口が増えていき、江戸に近いエリアの「下駒込村」、江戸から遠いエリアの「上駒込村」に分かれるようになりました。そして、江戸に近いエリアでは、主要街道沿いを中心に、商人や職人など農民以外が居住する「町」となり、町奉行支配地が増えていきました。

 

この地域の町奉行支配地は「駒込片町」(現在の地下鉄、都営三田線・白山駅付近)がそもそもの始まりのようで、その後周辺に「駒込追分町」「駒込肴町」「駒込浅嘉町」といった「駒込○○町」が誕生していったようです。

 

こうして、江戸時代には町奉行支配地の「駒込○○町」と代官や寺社・旗本など領主支配地の「駒込村」が入り混じって「駒込」と呼ばれていたのです。

駒込駅周辺の行政区域。境界線が複雑

 

駒込駅の特徴として、駅周辺の行政区域が非常に入り組んだものになっていることがあげられます。駒込駅の所在地は豊島区駒込2丁目ですが、ホームの一部は北区中里1・2丁目。駅の南口から信号を渡れば文京区本駒込6丁目。同じ駅の周辺でこのように行政地区が入り組んでいるのは珍しいといえます。

 

東口からすぐのさつき通り商店街。道路が区界で、写真右側は北区、左側は豊島区

 

駒込駅東口を降りると駅前から北側に「さつき通り商店街」が延びていますが、この商店街の店舗は、道路を挟んで東側が北区中里2丁目、西側は豊島区駒込2丁目。同じ商店街なのに、向かい合っている店舗は異なる区に立地しているのです。

 

駒込駅前の本郷通り

 

もっと複雑なのが、駅前を南北に走る本郷通り。駒込駅南口から300mほどの区間で、豊島区と文京区が目まぐるしく入れ替わります。駒込駅南口では通りの東西両側が豊島区。そこから南へ進むと、通りの東西両側が文京区となり、次に通りの東が豊島区・西側が文京区。次は通りの東西両側が文京区。次は通りの東が豊島区・西が文京区、その先は東西両側が文京区となります。

 

行政区域が入り組んでいるため、たとえば「駒込駅徒歩5分」という条件でも、場所によって自治体のサービスが違っていたり、賃貸住宅であれば家賃相場に差が生じることがあります。こうした状態になっているのも、駒込の歴史や地形と関わりがあるのです。

 

駅の南側にあるアザレア通り。この通りも北区(写真左側)と豊島区(右側)の区界になっている

 

江戸時代、幕府は江戸の周辺に「朱引(しゅびき)」と呼ばれる境界線を引きました。これは江戸町奉行所の管轄地域とそれ以外の地域の境界を示すものです。このとき、本郷台の駒込村は、町奉行所管轄地が点在していること、武家屋敷が多いことなどから、朱引内(町奉行管轄地)とされました。しかし、谷田川流域の低地となる中里村、田端村などは朱引外とされたのです。

 

先に挙げた「さつき通り」の場合、道路東側は江戸時代の朱引外、道路西側は朱引内に位置していました。なんと、江戸時代の行政区域の違いが現代まで引き継がれ、同じ商店街で向かい合っている店が北区と豊島区に分かれるという現象をひき起こしているのです。

明治11年(1878)、郡区町村編成法・第4条が施行され、東京府は15区6郡に分けられました。このとき、朱引内だった旧駒込村のうち下駒込村は「小石川区」に、上駒込村は「北豊島郡」に編入されたのです。その後、東京府の15区は「東京市」となります。

 

そして昭和7年(1932)、東京市周辺の5郡82町村が東京市に編入され、新たに20区が新設されました。このとき、北豊島郡の旧上駒込村のエリアを含む一帯は「豊島区」となり、江戸時代に朱引外だった旧中里村、旧田端村は「滝野川区」となりました。

 

昭和22年(1947)、東京35区は再編され、現在の23区になります。このとき、小石川区は「文京区」に、滝野川区は「北区」に再編され、これが今日の行政区域となりました。

駒込駅のホームに流れる発車メロディは「さくらさくら」。内回りと外回りで微妙にアレンジが異なっています。この発車メロディは平成17年(2005)に春の時期だけ採用したところ好評で、平成19年(2007年)からは年間を通じた発車メロディになったものです。

 

「さくらさくら」が選ばれた理由は、駒込駅の西側の旧染井村がソメイヨシノの発祥の地ということからです。

 

嘉永7年(1854)の駒込駅付近。「此辺染井村植木屋多シ」とある。 尾張屋清七板「嘉永七 染井王子巣鴨邊絵図」より

 

現在の駒込駅の北西部、豊島区駒込3丁目・6丁目のあたりは、江戸時代は上駒込村染井と呼ばれたエリアで、1600年代後半から1800年代末にかけて、十数軒の植木屋が集住していました。

 

染井の植木屋はその技術の高さで知られ、それぞれが植物園のような規模の大きな庭を構えていました。その染井の植木職人が手掛けたといわれる桜の品種が「ソメイヨシノ」で、染井はソメイヨシノ誕生の地とされています。

 

北口を出てすぐの広場は「染井吉野桜記念公園」

 

染井の植木職人は、はじめは大名屋敷や寺院の広大な庭園の手入れなどが主な仕事で、これに関連して庭木を中心に栽培・販売していましたが、やがて鉢植えも手掛けるようになりました。一般の庶民たちが、庭のない長屋暮らしでも花を楽しむようになって、鉢植えを愛でる文化が形成されていったのです。

 

江戸時代の染井村にあたる駒込6丁目でマンションの建設工事の際、大量の植木鉢が出土しており、鉢植え園芸が人気を博していたことが想像できます。そんな鉢植え園芸の代表格がツツジでした。ツツジの時期の染井村は大勢の行楽客が行楽に訪れ、案内マップも発売されるほどでした。

 

染井の植木職人だった伊藤伊兵衛は、江戸城吹上御殿の庭の手入れを請け負った名人で、徳川8代将軍吉宗は、伊兵衛の庭園を何度か訪れて花を楽しみ、ツツジ見物に訪れた際にはキリシマツツジなど29種を購入した記録が残っています。

 

4月末ころから線路脇を彩るツツジ。この景観が「関東の駅百選」にふさわしいと評価された

 

そういった理由から、駒込はツツジにゆかりの深い駅でもあります。外回りホーム脇の土手の斜面に植えられたツツジは駒込駅開業当時に植栽されたといわれ、樹齢100年を超える株もあるとか。駒込駅は「関東の駅百選」に選定されていますが、その理由は、このツツジの植栽によるものだそうです。

変化に富んだ景観が魅力の六義園

 

江戸では日本各地の大名が江戸に上・下屋敷を構えていたほか、旗本・御家人らも江戸に屋敷を所持していました。現在の本郷通りは、江戸時代は将軍が日光参拝に利用する「日光御成道」という主要街道で、駒込はこの街道沿いに広がった地域です。

 

その駒込や、江戸五街道のひとつ中山道沿いの巣鴨には多くの武家屋敷がありました。上駒込村染井地域には、藤堂家と柳沢家の下屋敷があり、屋敷内には広大な庭園が広がっていました。そのうち、18世紀初頭に柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が作ったのが回遊式築山泉水庭園の「六義園」です。

 

 

六義園は、徳川5代将軍綱吉(つなよし)の重臣だった柳沢吉保が、幕府から拝領した4万7000坪の駒込の地を、別荘庭園として造園し、7年の歳月をかけて元禄15年(1702)に完成させた回遊式築山泉水庭園。

 

玉川上水から分水した千川上水の水を庭内に引き込み、中央に大きな池を配して、池の東西と北に小山を築き、池には中之島を置いて変化に富む景観を作っています。この庭園は園内を移動することによって見る者の視点が変化し、それによって刻々変わる庭園の風景を楽しむことができるような演出をこめて作庭されており、回遊式庭園ならではの魅力にあふれています。

 

また平安時代の和歌にちなんだ八十八景を園内に設けるなど、江戸の庭園文化のひとつの完成形といえる姿を現代に伝えています。

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