五反田駅周辺は「城南五山(じょうなんござん)」と呼ばれた高台と、その山すその低地が複雑に入り組むようにして取り囲まれています。また、目黒川によってつくられた平たんな一帯は早くから開発が進みました。
高台に閑静な高級住宅地が広がる一方で、平地にはオフィス街や歓楽街が広がり、ここ数年はタワーマンションの建設も進んでいます。さまざまな顔を持つ五反田の街をめぐってみましょう。
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城南五山

1886(明治19)年の迅速測図(大日本帝国陸地測量部)に加筆。品川から目黒までは4つの台地が連なっていることが分かる。このため、当初計画では品川線は御殿山を迂回してこれらの山の西南側、目黒川沿いに進められるはずだった。五反田駅近くには島津山と池田山がある
城南五山は、花房山と池田山、島津山、御殿山、八ツ山のこと。東京湾から見ると独立した山のように見えることからこう呼ばれたといわれます。
五山とあるように、この5つのエリアは高台にあって、江戸時代には大名が武家屋敷を構えていました。地盤が強固で水害や地盤沈下が少なく、地震が発生しても比較的安全性が高い特性を備えていることから、現代では高級住宅地として知られています。
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島津山と池田山

島津山へ登る石段
五山のなかでも五反田駅に近いのは「島津山」と「池田山」です。
島津山は五反田駅の東。江戸時代は仙台藩伊達家の屋敷だったところで、明治になって島津公爵の屋敷、現在は住宅地と清泉(せいせん)女子大学となっています。

島津山にある清泉女子大学本館は旧島津公爵邸(2012年筆者撮影)
清泉女子大学構内には、重要文化財に指定された旧島津公爵邸があり、例年、春と秋に特別公開が行われます。

五反田駅近くから池田山へ登る坂道
池田山は五反田駅の北。江戸時代、岡山藩池田家の屋敷だったところで、明治以降も池田侯爵の屋敷地でした。現在は高級住宅地となっています。
明治時代の華族や財閥の広大な屋敷地は、大正から昭和初期にかけて、大正デモクラシーの影響もあって、一般の住宅地として分譲されるようになりました。
目白の近衛公爵邸(江戸時代は旗本酒井家屋敷)、駒込の岩﨑邸(江戸時代は加賀藩・前田家屋敷)、城南五山では島津山や池田山のほか、花房山の花房子爵邸(江戸時代は播磨三日月藩・森家屋敷)などの屋敷地が民間に分譲されました。

池田山の住宅街
この当時の分譲地は、1区画が100~300坪が標準でした。池田山の池田家はおよそ3万6,000坪の敷地でしたし、江戸時代の下級旗本の屋敷がおおむね数100~1,000坪前後でしたから、当時の感覚としては、広いとはいえない分譲地のはずでした。
しかし、昭和から平成を経て令和の時代になった今では、都内で敷地200坪はかなり広い高級住宅となっているのです。
ねむの木の庭

美智子上皇后陛下のご実家跡に設けられた「ねむの木の庭」
池田山の閑静な住宅地の一角にある小振りな花壇公園「ねむの木の庭」。美智子上皇后陛下のご実家である正田家の邸宅跡です。
ここに建っていた旧正田英三郎邸は、1933(昭和8)年に建てられた和洋折衷の趣ある建物でしたが、1999(平成11)年、正田氏が亡くなり、相続税の一部として土地と建物が国に物納され、建物は2年後に取り壊されました。
その後、品川区が跡地を買い取り、公園として整備し、2004(平成16)年8月に開園。面積は175坪。公園としては広いものではありませんが、個人住宅としてはかなり広い敷地です。
公園の名称は、美智子上皇后陛下が高校時代にご自身でおつくりになった詩「ねむの木の子守唄」にちなむもの。
園内は中央にネムノキを植栽し、ネムノキの周囲に旧正田邸にあった庭石を配置。バラの品種「プリンセスミチコ」をはじめ、上皇后陛下が歌に詠まれた花などが植えられています。
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池田山公園

高台から低地の池を見下ろす「のぞき池形式」の庭園。(2017年11月 筆者撮影)
池田山におよそ3万6,000坪の屋敷を構えていた池田氏は、明治維新後に侯爵となり、屋敷は規模が縮小されながらもこの場所に残っていました。その池田家屋敷の奥庭をベースにした池田山公園は、大名庭園だった面影を伝えています。
池田山公園として残された庭園は、低地に池を配し、高台からその眺めを楽しむという、「のぞき池形式」の庭園。自然の斜面を利用した美しい日本庭園です。
庭園の中が外界と遮断されて、ひとつの箱庭的世界を形成するという江戸風庭園の技法と、自然の高低差による変化をみごとに融和させた庭園です。
低地の池に臨む南東方向の斜面は明るいツツジの植え込みで、反対側の斜面はうっそうと茂る自然林となっており、池を挟んで自然林とツツジの植え込みが好対照を成し、池という題材をめぐって遠近感が誇張された構造になっています。

カエデの紅葉が見事(2017年11月 筆者撮影)
岡山の池田家といえば、日本三名園のひとつ、岡山後楽園を築いた大名。この庭園にも、そうした池田家らしい自然との調和美が見られ、都心であることを忘れさせてくれます。
品川台町の雉子(きじ)神社

上層部は高層ビルになっており、都会の神社と実感させる
桜田通りのこのあたりは、江戸時代は芝の二本榎から中延を経て多摩川を渡り、東海道の平塚へ通じる中原往還という主要街道の一部でした。
この雉子神社の門前は、作家池波正太郎の『仕掛人・藤枝梅安』で、主人公の梅安の住まいとされている「品川台町」。梅安の住まいへ仕掛人仲間の彦さんが何度も足を運ぶ描写があります。
五反田駅からこの神社までは徒歩5分ほどですが、それなりの坂が続き、高台であることを実感します。

屋根の上にはキジの像が
雉子神社は、その昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の化身という白いキジが飛来したという伝説から、日本武尊を祭神として、文明年間(1470年頃)に建てられました。
かつては大鳥明神と呼ばれていましたが、徳川3代将軍家光がこの付近にタカ狩りに訪れたとき、1羽の白いキジが神社の森へ飛び込んだということで「雉子の宮」と呼ぶように命じた、という逸話があります。
かつては社殿北側に戸隠山という山がそびえ、松の巨木が境内に生い茂っていたといいます。現在は中原街道の拡幅とビル工事によって、頭上をビルにふさがれ、ビルの谷あいにひっそりとたたずむような状態になっています。
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増上寺下屋敷寺院群
白金の高級住宅地の一角に、戒法寺、常光寺、本願寺、最上寺、光取寺、月窓院、清岸寺など九カ寺がまとまって閑静な寺町をつくっています。これが増上寺下屋敷寺院群です。
これらの寺は江戸時代、徳川家の菩提(ぼだい)寺として栄えた芝・増上寺の子院。寺は増上寺のすぐ近く、崇源院(お江の方、2代将軍秀忠の正室)の荼毘所(現在の麻布狸穴町付近)にありました。
しかし、1662(寛文2)年に崇源院の土地が甲府宰相・徳川綱重の屋敷になることが決定。このため増上寺の近くから現在の場所に移転したのです。

増上寺下屋敷の清岸寺。江戸時代の門と本堂が残る
寺院の大半は、戦災などで被害を受けたため、江戸時代の建物は、1841(天保12)年に建てられた清岸寺だけに残っています。
寺町でありながらこの一帯を下屋敷と呼ぶのは、これらの寺が、年老いた僧侶の隠居の場として建立されたためです。
高級住宅地に隣接する歓楽街
このように高級住宅地に囲まれた五反田ですが、駅の周辺には歓楽街もあります。五反田の歓楽街は山手線沿線でも上位の規模で、駅からほんの少し歩くだけで風俗関連の店舗が並ぶエリアに足を踏み入れることになります。
ここからすぐの場所に都内でも屈指の高級住宅地が広がっているとは思えません。つまり、駅周辺に歓楽街が広がっているのに、高台へ登れば高級住宅地が広がるという位置関係にあるのです。
かつては温泉芸者がいた遊興街
五反田歓楽街の歴史は大正時代までさかのぼります。温泉が発見され、旅館が建つようになり、やがて花街として発展を遂げたのです。
さらに1923(大正12)年、東京の中心部が関東大震災で壊滅的な被害を受けた際、五反田の周辺は大きな被害はなく、花街の規模は大きくなります。
1925(大正14)年には料亭、芸者置き屋、待合を備えた三業地として認定され、芸者屋58軒、芸者220人、料理店25軒、待合45軒を有する、東京屈指の花街となっていったのです。
とはいえ、終戦を迎え、時代の流れともに花街としての機能は低下。一方で、飲食店やホテルなどが集積する歓楽街的要素はそのまま残り、現在に至るのです。
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ガード下の飲み屋街から高架下の飲食店街へ
そんな花街のはずれには、ガード下飲食店街がありました。山手線も東急池上線も高架になっているため、ガード下には安価で飲み食いができる居酒屋や大衆酒場などが軒を連ねたのです。
このガード下飲食店街は、戦後の闇市に端を発し、昭和の半ばまでは「大崎橋市場」を形成していました。
しかし、この一帯は1985(昭和60)年頃からの再開発で店舗は立ち退きを余儀なくされます。このとき、地権などの関係から一部の店舗は再開発後に建てられたビジネスホテルにテナントとして入店します。

ビジネスホテルの飲食店案内表示。1軒のホテルに入店している数としては異様に多い
そして誕生したのが、全国でも珍しい、飲み屋街が館内にあるビジネスホテル。池上線五反田駅高架下の土地に建つホテルは、飲食店街入り口に約40軒もの店舗表示が。

ホテルの1階から3階はまさに飲み屋街
ホテルは3階までが吹き抜けで、その吹き抜けを囲むように、すし店、居酒屋、小料理屋、スナックなどがびっしり並んでいます。
さほど規模は大きくないビジネスホテルなのに、40軒もの飲食店がテナントとして入っている例は日本全国でもおそらくここだけでしょう。

池上線五反田高架下
そして現在、昭和の雰囲気をとどめるホテル内の飲食店街とは対照的に、平成から令和の再開発でおしゃれな雰囲気の高架下商店街が完成しています。
飲食店のほかに青果店などもあり、五反田の新たな魅力となっています。
再開発が進む目黒川流域とTOC
五反田駅の西側は、目黒川に沿った平たんな地形になっています。江戸時代は水田が広がる農村地帯であり、明治時代後期以降は、目黒川の水運と水利を生かして中小の工場が林立するようになりました。
しかし、戦後の復興期、工場が集中する地域ではトラックの往来が激しくなり、渋滞や事故などが問題となってきました。
そこで工場の東京集中を分散させる政策から、1959(昭和34)年に「工場等制限法」が制定され、目黒川沿いの町工場は続々と郊外に移転することになります。工場の跡地には小規模なオフィスビルが建つようになりました。
その後、高度成長期となって物価が上昇すると、政府は、都内に分散していた中小や零細の卸問屋を集約して物流拠点を設け、流通コストを削減する政策を打ち出します。この政策を受けて1970(昭和45)年に誕生したのがTOC(東京卸売りセンター)でした。

間もなく解体が始まるTOCビル
TOCを開業させたのは大谷米太郎。1964(昭和39)年の東京五輪の際の宿泊施設不足対策としてホテルニューオータニを開業させた人物です。
TOCは開業当時、延べ床面積17万4,000平米、容積率では日本一を誇り、750台の駐車場と大型機械も運べる大型エレベーターも設備し、日本最大規模の流通拠点として期待されました。
しかし、予想に反して卸問屋の入居が少なかったため、卸問屋も小売店も、さらには一般の企業も入居。結果的には日本で最初の複合商業ビルとなりました。
TOCの誕生は、従業員、取引先や商談先、そして買い物客などで、平日でも1日当たり1万人以上の動員をもたらしました。これは当時としては画期的なことで、五反田は、新宿や渋谷のような百貨店は存在しないけれど、独自の方向性を持つ繁華街として発展してきたのです。
初期のTOCのテナントであった山梨シルクセンターは、その後、ハローキティを大ヒットさせたサンリオとなり、衣料品の仕入れなどでしばしばTOCに足を運んだ山口県の小郡商事は、現在はユニクロのファーストリテイリングです。
そんな五反田のランドマークでもあったTOCですが、建物の老朽化などもあって再開発が決定。2023年度中には解体開始、4年後の竣工予定で、地上30階、地下3階の新TOCビルの完成を目指しています。
五反田駅西口では、ほかにもタワーマンションの工事などが進行中です。閑静な高級住宅街、猥雑な歓楽街、庶民的な飲食街、オフィス街。多彩な表情をもつ五反田にまた新たな顔が誕生するのも間近です。

目黒川沿いに建設工事が進むタワーマンション。ちなみにこの場所には、大正時代から続く「海喜館」という老舗旅館があり、芸者遊びで華やいだ往時の五反田の面影を伝えていた。その土地所有者をかたった詐欺グループにより大手住宅メーカーが詐欺被害にあった事件(2017年)は記憶に新しい
更新日: / 公開日:2023.07.14











