山手線の五反田駅は1911(明治44)年10月15日開業。すでに開業していた目黒駅と大崎駅の中間駅として誕生しました。
山手線の駅としては、どちらかといえば後発の駅です。この駅から北側が、文字どおり「山の手」エリアとなります。
ビル街や台地、川沿いなど沿線風景が目まぐるしく変化するのは山手線の特徴といえますが、五反田駅はそんな山手線らしさが現れている駅といえます。
五反田駅の物件を探す街の情報を見るおすすめ特集から住宅を探す
中原街道と鉄道の交差点に設けられた
この場所に駅が新設された理由は史料に乏しく、不詳です。
ただ、この時点までに山手線の西側エリアに誕生した駅は、鉄道運営上の理由で誕生した大崎駅、池袋駅を除けば、江戸時代からの主要街道が、鉄道と交差する場所が選ばれています。
たとえば、目黒通り(目黒駅)、大山街道(渋谷駅)、甲州街道(新宿駅)、目白通り(目白駅)、王子道(大塚駅)、中山道(巣鴨駅)という具合です。
このことから類推すると、江戸時代からの主要街道である中原街道が鉄道と交差する場所に新駅が設けられたと考えることができます。

品川線(山手線の前身)開通以前に測量された迅速測図(1886年、大日本帝国陸地測量部)に加筆。図右の品川駅から、目黒川沿いの低地に沿って図の左上方向へと品川線は計画された。途中、中原街道、目黒通りとの交点にそれぞれ五反田駅、目黒駅が開業することになる
このように古くからの主要街道と交差する場所に駅が設けられたのは、荷車や人の手によって運送されてきた荷を、駅から鉄道によって各地に輸送することが期待されたからです。
当時は、まだ東京郊外の大半が農村地帯でした。たとえば、目黒駅の場合は、江戸時代から高級品とされていた「目黒のタケノコ」を鉄道で各地に輸送するという事情がありました。
目白駅は、目白通りの西郊外の一帯で栽培されていた狭山茶を鉄道輸送するということが開業の背景になりました。茶葉を目白から品川へ、品川から横浜へと鉄道で輸送し、横浜から海外へと輸出するのです。
茶葉は発酵させる技術などによって、日本茶にもウーロン茶にも紅茶にも加工できます。日本産の紅茶は海外でも人気があって、茶葉は明治から昭和の半ばころまで、日本の輸出品目の上位となっていたのです。
さらに、郊外から農産物などの荷を運んできた労働者が、荷を鉄道に載せ替えた後は仕事が終わった解放感で駅周辺の飲食店を利用する、ということがあったのは想像に難くありません。
つまり、駅の周辺に新たな「街」が誕生することが期待できるのです。こうしたことが、街道と鉄道が交差する場所に駅を設けた大きな理由でしょう。
ただ、五反田駅の場合、中原街道で運ばれていた物資は平塚方面から東京への酢と、住宅密集地である東京方面から郊外へ運ばれる肥料(下肥)だったので、鉄路で各地へ輸送する必要性は高くはありませんでした。このことが、駅の開設が他の場所よりも遅れた一因かもしれません。
五反田駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す
開業当初から「山手線の駅」
山手線をめぐる首都圏の鉄道の歴史は、次のようになっています。
1872(明治5)年:日本最初の鉄道として新橋~横浜の東海道線が開業
1883(明治16)年:上野~熊谷間が開業
1885(明治18)年:品川~赤羽を結ぶ日本鉄道品川線が開業
1903(明治36)年:池袋~田端間の豊島線(としません)が開業
1906(明治39)年:私鉄だった日本鉄道が国有化される
1909(明治42)年:品川~池袋~田端の区間を「山手線」へと名称変更
1911(明治44)年:五反田駅開業
山手線の駅のうち、1909年の名称変更以前に開業した駅は、当初は「東海道線の駅」「品川線の駅」「豊島線の駅」であったことになります。
しかし、五反田駅は「山手線」という路線名に変更されてから誕生したため、駅開業時から山手線の駅だったということになります。
そもそも「山の手」とは?
山手線は実際には東京の「山の手」だけを走っているわけではありません。神田、御徒町などは典型的な下町エリアです。ではなぜ、下町も走るのに「山手線」なのでしょうか。
そもそも、「山の手」とは具体的にどのあたりを指すのか、ということですが、歴史的には江戸城の近辺と西にあたる高台の地域を指していました。
江戸は武蔵野台地上の高台と、荒川、石神井川、平川、目黒川などの河川によって浸食された低地とが複雑に入り組んだ地形の土地に開かれた都市です。
そのため、標高差が10~20mほどある坂道が随所にありました。そうして坂道を登った高台は「山の手」、坂道を下った低地は「下町」と呼ばれるようになったのです。
「山の手」は、地形的に武蔵野台地の東端にあたる高台の地域で、主に大名屋敷や旗本屋敷などの武家屋敷地帯として開発が進められました。具体的には、麴町や芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、本郷、小石川、駒込、上野といったエリアになります。
これに対し、地形的に低地となっていた下谷、浅草、神田、日本橋などは町民が暮らす地域であり、高台の「山の手」に対する低地という意味で「下町」と呼ばれました。
つまり「山の手」「下町」は、もともとは地形に由来する名称だったのですが、やがて「武家屋敷が多い山の手」と、「庶民が暮らす下町」というように文化的な概念へと変わっていったのです。
五反田駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す
文字どおり「山の手」を走るエリア
山手線の前身となった品川線が、山手線と名称を変更することになったのは1909年。池袋~田端の豊島線と合わせての名称変更でした。つまり、本来の山手線は品川~目黒~渋谷~新宿~池袋~巣鴨~田端を運転する路線なのです。
現在も、厳密にいうと「山手線」は品川を起点とし、渋谷~新宿~池袋を経て田端を終点とする区間であり、田端~上野~東京間は「東北本線」、東京~品川間は「東海道本線」とされています。田端~東京~品川の区間を走る山手線の車両は、東北本線や東海道本線に「乗り入れ運転」をしていることになるのです。
このエリアの大半は、武蔵野台地上の高台となります。品川駅は山手線でもっとも標高が低く2.9mですが、五反田駅は8.8mで、隣接する目黒駅は22.9m。
そして、その先は渋谷~新宿~目白~巣鴨と、標高20~30m前後の高台に各駅が存在しています。山手線は、地形的にも「山の手」エリアを走る路線だったのです。
駅名も地名も、「五反田」の由来は謎
五反田の地名は、歴史的にみると、どちらかといえばマイナーなものです。「村」のレベルではなく、村の中の一地域を示す「字(あざ)」。文献としての初出は1671(寛文11)年の検地帳で、上大崎村の字名のひとつに「五たんだ」が見られます。
それから26年後の1697(元禄10)年には、下大崎村の字名で「五反田耕地」があります。このように古くからある地名ですが、非常に狭い特定のエリアを指し、地域を代表する地名ではありません。
また、地名の由来ははっきりしていません。民俗学者柳田国男の『地名の研究』(1936年)に、「目黒川に沿った耕地の水田が、一区画を五反(約4,960平米)としたから」とあり、文字の表記からすると、この説が正しいように思えます。
しかし、筆者が調べた限り、この説以外に史料はなく、確証はありません。つまるところ、「五反田の地名の由来は、あくまでも謎である」と、ここでは述べておきます。
日本鉄道品川線の開業直後、1891(明治24)年の地形図をみると、現在の五反田駅周辺の地名として読み取れるのは「谷山村」「下大崎村」「桐ケ谷村」などです。江戸時代の地誌書である『御府内備考』にも、五反田の地名は見当たりません。ただ、同書には、この地域の地名として「品川台町」が表記されています。
現在の五反田駅周辺で江戸時代から知られた地名は「品川台町」「下大崎村」「谷山村」。大まかにいって、現在の五反田駅の西側が「谷山村」、駅の東側が「下大崎村」、駅東側の坂を上った雉子神社(雉の宮)あたりが「品川台町」です。
そして、「五反田」の地名が「下大崎村」の中の、ごく限られた集落を指す小字名にすぎなかったことは、ほぼ確実です。
こうして見てくると、通常であればこの場所に駅が新設される場合、地域を代表する「谷山」「下大崎」「品川台」といった名称が駅名に採用されるのが順当だったと思われます。ただ、当時すでに「大崎駅」と「品川駅」が開業していました。
この当時は鉄道に不慣れな人も少なくなかった可能性もあり、「下大崎」「品川台」は紛らわしいとされて採用されなかった可能性も否定できません。しかし、そうであれば最も可能性があった駅名は「谷山」であり、「谷山」が駅名とならなかった理由は不明です。
つまり、「五反田」という名称は、地名の由来も、なぜこの駅名となったのかも、よく分からないのです。
五反田駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す
五反田駅が高架になっている理由とは

五反田駅ホームから中原街道(国道1号線)を見下ろす
五反田駅は高架上に設けられた駅で、中原街道(国道1号線)をまたいで1面2線のホームがあり、ホームからは中原街道が見下ろせます。印象としてはそれなりに高い場所にホームがあると感じます。
もともと現在の五反田駅の場所には、駅が設けられる予定はなかったと思われます。
山手線の前身である日本鉄道品川線が開業する際、品川~目黒の区間では、設置する駅は品川と目黒で、五反田駅や大崎駅は設置の予定はありませんでした。
当初の計画では、品川から丘陵地である御殿山を避けていったん南下し、目黒川に沿って北上する予定だったと考えられます。
目黒川の沿川一帯は、当時は水田が広がり平たんな地形のため、鉄道の敷設工事が順調に進むと予測され、また住宅密集地に比べると地権者が少なく、用地の買収もやりやすいといった思惑もあったと思います。
しかし、さまざまな事情から、目黒川沿いのルートは実現しませんでした。一因は反対運動だったともいわれます。こうしたことから、目黒駅は、計画されていた目黒川沿いの平坦地ではなく、予定地から離れた東の台地上へ場所を移すことになりました。
そして、品川~目黒間の線路は、いったん南下して目黒川沿いの低地に出た後、やや東に進路を変更し、台地上の目黒駅を目指すルートに変更されました。

台地を掘り下げて掘割の谷底に駅をつくったため目黒駅ホームは地上から見下ろす位置にある
目黒駅の建設予定地となった台地は、標高おおむね31mの高台です。これに対し、品川駅の標高は2.9m。品川~目黒間の距離は4,090mで、この距離で約28mの標高差を登らなければなりません。明治初期の蒸気機関車にはそれなりに高いハードルといえるでしょう。
そのため、台地の頂上付近を切通し状に掘り下げ、切通しの谷底に線路を敷設することで、ホームの標高を22.9mまで下げたのです。こうして品川駅との標高差を約8m少なくすることができました。

五反田駅ホームのガード下。国道1号線の標高は約3.1m。線路は約9mの高さ
後に五反田駅が開業する一帯は、近くに目黒川があるため低地で、土地の標高はおよそ3m前後。現在、駅の下を通過している国道1号線のガード下のあたりで標高3.1mです。
しかし、線路は品川から少しずつ標高を上げていく必要があり、五反田付近では高架線になっているのです。したがって駅も高い位置になりました。駅の標高は8.8m。利用客は地上から高架上のホームに上っていくことになります。
高架の山手線よりさらに高い場所にある東急池上線の五反田駅
前述のように、五反田駅のホームは国道1号線を見下ろすようにしてつくられています。ホーム上から国道1号線を眺めると、それだけで高台にいるような気分になります。そして、そんな山手線ホームよりさらに高い場所にあるのが東急池上線五反田駅です。

高架のJRよりも高い場所にある池上線五反田駅
東急池上線は、1922(大正11)年に開業した池上電気鉄道が前身。日蓮(にちれん)宗大本山の池上本門寺への参詣客を輸送する路線として、蒲田~池上が開業、その後池上~五反田へと延伸しました。
実のところ、池上電気鉄道は当初「目黒不動の目黒からお祖師さんの池上へ」ということで目黒~池上~蒲田を結ぶ計画でした。しかし、目黒~蒲田間に別会社の目黒蒲田電鉄が開業してしまったのです。このため、仕方なく目黒ではなく五反田に延伸したという経緯があります。
しかし、目黒から五反田に計画を変更した際、五反田を終着にするのではなく、さらに都心方面への延伸を計画しました。この、「五反田駅を越えてさらに都心方面への延伸」は、当時としてはかなりハードルが高い計画でした。
この時代、東京ではすでに都心部には東京市電(のちの都電、路面電車)の整備が進んでおり、「東京市中心部の交通網は東京市が運営する市電が担うので、民間鉄道会社の市内乗り入れには反対する」という交通市営主義の立場をとっていました。
つまり、「郊外の輸送は民間会社が担当し、東京中心部は東京市が担当する」という鉄道輸送のすみ分けです。これによって、郊外からの私鉄は山手線の駅を終着とすることを余儀なくされました。東京中心部へ延伸したい私鉄各線には、山手線の内側に進めない「山手線の壁」が存在していたのです。
たとえば、西武池袋線、西武新宿線、東武東上線など山手線駅の直前で急カーブを描く私鉄路線は、山手線の内側に延伸を計画したものの建設が認可されず、当初の目的地から終着駅を変更して工事を進めた結果、急カーブで終着となる山手線駅に接続することになった歴史を物語っているのです。
東急五反田駅も、この「山手線の壁」を越えることができませんでした。五反田の東側、品川台町から高輪台にかけては五反田駅よりも標高が高い場所になります。一方、五反田駅は目黒川に近い谷底のような場所で、そこに高架駅が設けられています。
こうしたことから、池上電気鉄道の五反田駅は、すでに高架になっている山手線五反田駅をまたぐようにして、五反田駅よりさらに高い場所に設けられたのです。そのまま東へ延伸すれば、品川台町から高輪台のあたりで地面と接地できるはずだったのです。
しかし、交通市営主義による山手線の壁は非常に高く、しかも五反田駅をかなりの高さで超えるための工事費用がかさんだこともあって、五反田以東への延伸計画は中止となりました。結果的には、やたらと高い場所に駅が設けられただけに終わってしまったのです。

地上から見上げると池上線の駅はとても高い場所にある
高い場所にある東急五反田駅は、そんな交通史のひとコマを物語っているのです。このように五反田は高台と低地が織りなす複雑な地形によって、独特の街がつくられてきました。
次回はそうした五反田駅の周辺スポットについて紹介していきます。

五反田駅の物件を探す 街の情報を見る おすすめ特集から住宅を探す
更新日: / 公開日:2023.07.14














