有楽町駅は、日本有数の繁華街である銀座の入り口として、歴史を刻んできました。銀座は、まちという側面からも興味深いエリアです。有楽町駅から歴史を探訪していきましょう。
有楽町駅の物件を探す街の情報を見る
駅前は時代劇でおなじみの南町奉行所跡

有楽町駅前に残る南町奉行所跡
有楽町駅中央口の辺りから南側、有楽町イトシアから有楽町マルイにかけての一帯には、江戸時代に南町奉行所がありました。中央口を出ると地下広場への階段があり、階段口の背後に案内表示と奉行所跡から出土した石垣が並べられています。
といっても厳密にいえば奉行所はマルイのルミネ側にあって、有楽町駅前はいわば奉行所の裏手にあたる場所なのです。

江戸時代末期の図。左下に「南町 御奉行所」の文字が見える。図中の「松平阿波守」「松平土佐守」とある辺りが現在の有楽町駅
江戸の町奉行所は、武士や町民など身分制度があった江戸時代、武士や寺院神社関係者を除く、江戸の町民に対する司法・立法・行政すべてを担当していました。
つまり、江戸町奉行所は警察や裁判所の役割だけでなく、消防や防災、伝染病対策、道路工事、金融政策、江戸に集まる書状や荷物の管理など、民生に関するありとあらゆることを管轄したのです。現在で言えば、警視庁と東京地裁、東京消防庁、東京中央郵便局の長官、東京駅長、そして東京都知事を兼務するような超多忙な職務だったのです。
南町奉行職を拝命した歴代奉行のなかで、もっとも知られているのは大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)でしょう。時代劇の主人公として取り上げられることの多い人物で、史実では町火消(まちびけし・現代の消防署員)を発足させるなどの業績があります。大岡忠相が南町奉行となったのは1717(享保2)年。発掘調査の結果、大岡越前と記された木片が発見されています。
歴史的建造物の小学校

昭和初期の表現主義建築である泰明小学校校舎
有楽町駅から南に300メートルほどのところには、中央区立の泰明(たいめい)小学校があります。1878(明治11)年開校と都内でも有数の歴史を誇る小学校。レトロな雰囲気の校舎は、1923(大正12)年の関東大震災の後に建てられた復興建造物のひとつです。
関東大震災では、東京市内の公立小学校195校のうち、193校が倒壊・焼失という惨状でした。この事態に東京市は、小学校の復興を鉄筋コンクリート製で行うことを決定。1924(大正13)年から4年間で117校が鉄筋コンクリート造で再建されました。
泰明小学校はそのひとつで、1929(昭和4)年の竣工。半円形のアーチを描く窓、校倉造(あぜくらづくり)をイメージした外壁などに、昭和モダンとでも呼ぶべき表現主義のデザインが見られます。

泰明小学校の門扉はもともと、南フランスの貴族の館で使用されていたもの
門扉や外灯も校舎の意匠に合った見事なデザインですが、こちらは後年移設されたもので、もとはフランス貴族の館の門だったといいます。

飲み屋の看板の向こうに小学校がある、銀座ならではの光景
東京都歴史的建造物に指定されているこの校舎が、スナックやバーなどの看板越しに見える風景は、銀座に近いこの場所ならではといえるでしょう。
有楽町駅の物件を探す 街の情報を見る銀座は歴史建築の宝庫

電通銀座ビル
泰明小学校から程近い西銀座通りへ出て少し行くと、銀座西6丁目の交差点。この交差点の銀座7丁目側にあるビルが旧電通本社ビル(電通銀座ビル)です。
1934(昭和9)年建築の震災復興建造物のひとつで、昭和初期の表現主義建築。1階部分の外壁は、角地部分には石貼りをベースにガラスブロックが曲線をつけて配置されています。

旧電通ビルの壁面に施された広目天と吉祥天
全体のイメージはモダニズム建築なのですが、ファサード(正面外観)2階にはバルコニーのような部分があり、その装飾に用いられているのは仏像。広目天と吉祥天です。
広目天には単独で信仰された例は国内ではほとんどなく、またその役割やご利益はさほど明確になっていません。が、巻物を手にした姿から知的象徴とされたのでしょうか。また吉祥天は富や繁栄をもたらすとされますが基本的には美の象徴。知の象徴と美の象徴を本社ビルの玄関上に彫刻するというのはいかにも電通らしい、といえるかもしれません。が、そのあたりのいきさつは不明です。
ちなみに、この2つの彫像は、広目天は奈良・東大寺戒壇院(とうだいじかいだんいん)の仏像に、吉祥天は京都・浄瑠璃寺(じょうるりじ)の仏像にそっくり。実際にこれらをモデルとしたかはともかく、寺院でこの二天が一緒にまつられることはまれ。かなりユニークな組み合わせであることは間違いありません。
この旧電通ビルだけではなく、銀座には空襲の被害をまぬがれた戦前のビルがいくつも残っています。

銀座のシンボル的存在、和光本館
代表的なところでは、銀座のシンボル的存在でもある、銀座4丁目交差点の和光本館でしょう。時計台が印象的な和光本館は、1932 (昭和7) 年に服部時計店(現セイコー)の本社ビルとして竣工されたものです。

現存する日本最古のビヤホール、銀座ライオンビル。登録有形文化財(建造物)に指定されている
ほかにも、日本初のビヤホールとして歴史を重ねてきた銀座ライオンビルは1929年の建築。

柳通り沿いのヨネイビル
柳通り沿いのヨネイビルは1930(昭和5)年竣工で東京都選定歴史的建造物。

交詢社通りの丸嘉ビル
交詢社(こうじゅんしゃ)通りの丸嘉(まるか)ビルは、現在は店舗となって外装が新しくなっていますが、1929年の建築。
ちなみに、この丸嘉ビルは清水組(現・清水建設)の施工ですが、後のゼネコンとなる清水組としてはもっとも小規模な3階建てのビル。道路を挟んで向かいの交詢ビルと同時期の工事ということで施工できたという、まれなケースのようです。

ファサードのみ旧態を保存した交詢ビル
その交詢ビルは、現代のインテリジェンスなビルに生まれ変わっていますが、ファサードだけは往時の状態が保存されています。
「銀座」の地名発祥の地

有楽町駅銀座口
有楽町駅は日本を代表する繁華街「銀座」の玄関口です。有楽町駅銀座口から少し歩くと銀座4丁目の交差点。
この「銀座」、現在は繁華街の代名詞ですが、本来は江戸時代、銀貨製造を独占的に行っていた事業所のこと。いわば現代の造幣局にあたります。銀座には、通用銀(銀貨)の製造および検査を行う「常是(じょうぜ)役所」と、銀座の業務を管掌する「銀座役所」がありました。
江戸時代の通貨は、大まかにいって小判などの金貨、豆板銀や丁銀、一朱銀、一分銀などの銀貨、一文銭や四文銭などの銅貨があります。金貨を鋳造していたのは「金座」、銅貨は「銭座」で、銀座は銀貨を鋳造していました。

銀座発祥の地碑
銀座2丁目、伊東屋ビルの近くの歩道に「銀座発祥の地」碑があります。「銀座」の地名は、この場所が発祥の地なのです。この場所に銀貨を鋳造する銀座役所が設けられたのは、江戸時代初期の1612(慶長17)年。現在の京橋から新橋付近に至る広い一帯が新両替町と呼ばれ、銀貨鋳造のほか、銀の取引や両替が活発に行われていました。
ちなみに、当時の「銀座」は民間会社でした。鋳造した銀貨を幕府に納めて、幕府から手数料をもらっていたのです。原料の銀は、幕府の管理する銀山で採掘され、幕府に納められた銀の地金を原料とするのが原則ですが、市中に流通している銀地金を独自に購入して銀貨を鋳造することもあったといいます。この銀座は、1801(享和元)年に業務の縮小に伴って日本橋蛎殻町に移転しました。
有楽町駅の物件を探す 街の情報を見る日本最初の電気灯柱

日本初の電灯碑。写真左のビルの壁面に石碑が埋め込まれ、奥の歩道に街灯の形で当時の街灯が復元されている
「銀座発祥の地」碑の向かい、カルティエの店舗付近にひとつだけデザインが異なり、ひときわ高くて目立つ街灯があります。これが、日本で最初の電気によって周囲を照らした街灯であることを示す記念碑。街灯そのものが記念碑になっているのです。
日本初の電気街灯は1882(明治15)年、創業準備中の東京電灯会社(東京電力の前身)によって点灯されました。宣伝のために、高さ約15mの電柱上に2000ルクスのアーク灯を点灯したといいます。それまで銀座の道にともされていたガス灯に比べて、桁違いに明るい電灯は、人々を驚きの渦に巻き込み、評判の電気街灯を見るためだけに多くの見物客がやって来たといい、新聞記事にもなったほどでした。
豊岩稲荷神社

路地の裏にある豊岩稲荷神社
銀座路地裏、というよりもビルとビルの間の隙間と呼びたくなる狭い通路の奥にまつられた豊岩稲荷(とよいわいなり)神社。震災と空襲で古い記録を失っており、創建はつまびらかではありません。伝承では明智光秀ゆかりの者が、主家の再興を願って建立したといわれています。元禄の頃(1688~1704年)には社殿が整備されていたようです。
歌手で俳優の美輪明宏さんは、某テレビ番組で「銀座最強のパワースポットで白龍がいる」といった紹介をされたとか。銀座で働く女性たちの信仰があつかったことから、商売繁盛と縁結びのお稲荷さんとして隠れた人気を博しています。
銀座には、こうした目立たない場所の神社が30社ほどあります。皆さんも銀座に出かけた際には、路地裏などにたたずむ神社を訪ね歩いてみてはいかがでしょう。
有楽町駅の物件を探す 街の情報を見る更新日: / 公開日:2022.04.25










