「大崎駅1」記事で紹介した、駅のキャラクター「おうさき」。悲しげな表情をしている理由として「大崎止まりの山手線はいらない」と言われ続けたことがあると、お伝えしました。

確かに山手線には大崎駅を終着、または大崎駅始発とする列車は少なくありません。しかし、それには理由があるのです。そして、その理由こそが、山手線のほかの駅にはみられない大崎駅の特徴…いや大崎駅の存在価値といっても過言ではないでしょう。

今回は大崎駅のあまり知られていない実力と、再開発の街並みに残る歴史スポットを紹介します。
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東京総合車両センター

大崎駅の南側に広がる東京総合車両センター

山手線には、大崎駅を始発・終着とする列車が少なくありません。これらの列車は、大崎駅南側にある東京総合車両センター(以下、車両センター)へ入庫することになります。

 

車両センターは山手線の車庫であり、車両工場も置かれ、車両の保守整備などが行われるところです。1909(明治42)年に誕生して以来、100年以上にわたって山手線の運行を支えてきました。

 

山手線は、早朝や深夜には、それぞれの駅で「〇:〇」という発車時刻にしたがって運転されていますが、朝夕のラッシュ時には発車時刻を定めるのではなく最短2分40秒間隔、正午前後などのオフピーク時には4~5分間隔で駅に到着するように運転されています。

 

時間帯や平日と休日で運転間隔を変え、さらに乗降客の多い大規模ターミナル駅と利用客の少ない駅では停車時間を変えるなど、柔軟な対応をベースに運転が行われているのです。こうした柔軟な運行を支えているのが車両センターです。

 

山手線の電車が、最短2分40秒間隔で駅に到着するには、山手線一周の線路上に計算上ではおおむね22~23編成の電車が存在することに。これが4~5分間隔の場合、13~15編成となります。

 

つまり、オフピーク時はラッシュ時よりも約8編成を減らして運行することになり、減らした車両を留め置く場所が車両センターなのです。

 

環状運転のはずの山手線に「大崎行き」が存在するのはこのためです。大崎を終点とした電車は車両センターに入庫し、山手線内で運転する電車の数を減らして、運転間隔の調整を行っているのです。

 

たとえば、朝夕などラッシュ時に「急病人」や「線路への人の立ち入り」などの理由で、駅での停車時間が長くなった場合、2分40秒間隔運転の状態では運転再開が難しくなります。

 

このようなときには一時的に、一部の電車を大崎駅終着に変更して車両センターに入庫させ、運転間隔を広げることでスムーズな運転再開を行っています。

 

山手線発車標

山手線ホームの発車標は「約〇分後」の表示

山手線では、現在、各駅での発車標の案内表示は、「〇:〇」という時刻表示ではなく「約〇分後」という表示になっています。

 

このような柔軟な表示が可能になっているのも、車両センターと大崎駅の存在が大きいといえるでしょう。

大崎駅での運転士交代

運転士が交代する風景も大崎駅だからこそ

大崎駅では、山手線運転士の交代も行われます。山手線1周の所要時間は約65分。長時間の連続運転は集中力の低下を招く可能性もあり、運転士は1周運転すると休憩を取ることになっています。

 

朝夕のラッシュ時などは例外的に、1人の運転士が2周連続で運転することもありますが、原則的には1時間で運転士が交代します。

 

このため、大崎駅ではしばしば、運転士が交代する様子を目にします。大崎駅では、こうした乗務員交代に要する時間を見越し、停車時間が他の駅よりも長くなっていることがあります。

 

ちなみに、車庫は池袋にもあり、池袋でも運転士の交代が行われます。例外もありますが、おおむね外回りでは大崎、内回りでは池袋で運転士交代が行われています。

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地理院地図

国土地理院地図をベースに筆者作成。大崎駅付近の鉄道線

大崎駅の南側は、山手線の沿線とは思えないほど、いくつもの線路が入り組んだ状態になっています。

 

これは大崎駅が山手線と東海道線の短絡線のために誕生したという事情と、駅の南側に車両センターがあるという2点が大きな理由です。

 

ペデストリアンデッキから眺める入り組んだ線路の風景

ペデストリアンデッキから眺める入り組んだ線路の風景。車両は成田エクスプレス

大崎駅南改札口を出るとペデストリアンデッキ。ここから複雑な線路の状況を見ることができます。

 

線路は高架になった2線を挟んで東西に地上線が4線ずつ。地上線は最も東寄りの2線が左へカーブするのが山手線、その右で前方へ延びていく2線は車両センターに進んでいくものです。

 

この地上の4線をまたいで、視界の右側から左側へ高架の2線が立体交差でカーブを描いています。この線は、山手貨物線と横須賀線との接続線。山手貨物線は、大崎以北で山手線に沿って延びており、湘南新宿ライン、成田エクスプレスなどが利用しています。

 

その山手貨物線から横須賀線へ乗り入れるのは、現在は成田エクスプレスだけ。つまりこの高架線は、現状ではほぼ成田エクスプレス専用線、といった状況。

 

高架線の右側には、前方へ延びる線路が4線見えます。こちらはりんかい線と湘南新宿ラインです。このほか、さらに前方には視界を左右に横切るように高架線が眺められます。横須賀線と東海道新幹線です。

 

列車の動きが前後方向や左右への立体交差など変化に富み、実物大の鉄道模型ジオラマを眺めているよう。鉄道ファンでなくとも見ていて引き込まれてしまいます。

大崎駅西口

駅名の表示と階段があるだけの西口

大崎駅の周辺は、この30年ほどで大きく変わりました。そうしたなかで、再開発のはざまに落ちたように昭和の雰囲気を残す町並みが残るのが、大崎駅西口の一角です。

 

象徴的なのは、西口の駅入り口の階段。大崎駅で駅の西側に出る通路は南改札口から続く新西口と、北改札口から通じる古くからの西口があります。

 

この、古くからの西口は、駅への入り口が階段だけ。人通りもさほど多くはなく、とても山手線の駅とは思えないシンプルな姿です。

 

ニュー大崎店舗街

レトロな雰囲気のニュー大崎店舗街

この西口を出てすぐのところにあるのが「ニュー大崎店舗街」。

 

ニュー大崎店舗街内部

ニュー大崎店舗街はビル内の通路が商店街になっている

レンガの外壁が印象的なビルの1階が、通り抜けられる通路になっており、この通路がそのまま商店街として利用され、レトロな雰囲気を醸し出しています。

 

かつては大崎駅周辺で、唯一といっていい商店街だったようです。

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居木神社

品川区大崎駅からすぐの大崎鎮守居木神社

大崎駅西口のニュー大崎店舗街周辺は、鉄道開通以前から集落があったところ。

 

前回記事にも記しましたが、1886(明治19)年の「迅速測図」を見ると、大崎駅の付近は蛇行して流れる目黒川の河口に近く、低地は水田や原野で、高台のこの地が周辺で唯一といっていい集落となっていたのです。

 

集落の中心には居木(いるぎ)神社があり、集落は「居木橋村」と呼ばれていました。

 

居木神社は、かつて“雉子宮(きじのみや)”と呼ばれ、目黒川のほとりあったといいます。しかし、水害に遭い、高台である現在の場所に移転。このとき、周辺にあった貴船神社と春日神社、稲荷明神、子ノ権現(ねのごんげん)を合拝して五社明神と称したといいます。

 

1828(文政11)年の記録では、さかのぼること170年前に移転したとされています。つまり移転は1658(万治元)年ごろ。神社だけでなく、周辺の集落も同時に移転したようです。居木神社の名称になったのは1872(明治5)年のことです。

 

雉子神社

品川区東五反田のビルの中にある雉子神社

ちなみに、かつて雉子宮と呼ばれた神社はもう一つ、品川区東五反田の雉子(きじ)神社があります。

 

両社の位置関係を地図で見ると、目黒川をはさんで居木神社は右岸、雉子神社は左岸。どちらも川から500mほど離れています。

 

雉子神社の別当寺(べっとうじ:神社を管理する寺)だった、現在も雉子神社に隣接する宝塔寺の記録では、目黒川の洪水を避けるため万治年間(1658~1660)に現在地に移転したことが分かっています。

 

もしかすると、居木神社と雉子神社、この2つの神社はかつて同じものだったのが、目黒川の氾濫によって右岸と左岸に分かれた、ということかもしれません。

 

居木神社

静かなたたずまいの居木神社

居木神社の現在の社殿は戦後に再建されたものですが、石造りの鳥居と手水(ちょうず)鉢は1792(寛政4)年のものが残っています。

 

境内末社の厳島神社社殿は江戸時代後期のもので、品川区指定有形文化財となっています。

東海寺

東海寺は、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:明治維新政府の神道国教化政策にともなって起きた仏教の廃止運動)の影響を受け規模が縮小され、かつての塔頭(たっちゅう)の一つが跡を継いでいる

大崎駅東口駅前の通りは山手通り。この道を東南方向へ20分ほど歩くと、臨済(りんざい)宗の古刹、東海寺があります。

 

この寺は、江戸幕府3代将軍である徳川家光が、臨済宗の高僧である沢庵(たくあん)和尚を江戸に呼んで開創させた寺。沢庵は、たくあん漬けの考案者といわれる禅僧で、京都・大徳寺の僧侶でしたが、紫衣(しえ)事件に巻き込まれた人物。

 

紫衣とは、高位の僧侶にのみ許される法衣。江戸時代初期までは朝廷から賜ることになっていましたが、江戸幕府は宗教界の統率のためこの権限を幕府のものとするとしたのです。

 

その変更時期に朝廷から紫衣を許されたのが沢庵和尚だったのです。沢庵和尚は、幕府の宗教政策に反抗したとみなされ、出羽国(山形県)に追放となりました。

 

しかし、後に柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の仲立ちで家光と親しくなり、1637(寛永14)年、家光から江戸に呼ばれ、与えられた屋敷が東海寺の前身となるのです。屋敷が東海寺へと変わっていくのは、沢庵和尚が亡くなった後のことのようです。

 

沢庵和尚は、品川を訪れた家光へのもてなしに、大根の漬物である「貯(たくわ)え漬け」を出しました。家光はこの素朴な味わいが気に入り、「貯え漬けではなく、沢庵漬けと呼ぼう」と言ったとか。

 

豪華な食事に慣れた将軍に対し、質実の大切さを示した沢庵和尚の高潔な人柄を伝えるエピソードとして知られています。

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東海寺墓地にある沢庵和尚の墓

東海寺墓地にある沢庵和尚の墓

大崎駅から東海寺へ向かう途中、横須賀線のガードの手前で左の脇道へ入って線路沿いに進んだところに東海寺の墓地があります。

 

ここには沢庵和尚の墓があります。高さ50cm、直径1mほどの自然石を置いただけの簡素なもの。沢庵和尚とたくあん漬けのエピソードを知ってしまうと、この墓石がまるで漬物石(漬物をつくるときに重しとして使う石)に見えてしまいます。

 

墓地にはほかに、江戸時代の国学者で、「国学の四大人(しうし)」の一人とされる賀茂真淵(かものまぶち)の墓や、東海道本線の開設に力を注いだ明治時代の官僚、井上勝の墓などがあります。

 

また、2013(平成25)年にこの世を去った歌手・島倉千代子さんの墓もこの墓地にあり、ファンがささげた花が目を引きます。

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更新日: / 公開日:2021.03.12