高田馬場(たかだのばば)駅は、新宿駅と目白駅の間に1910(明治43)年9月15日に開業した駅です。山手線の開業は1885(明治18)年ですから、後発の駅です。

現在の高田馬場は、学生でにぎわう街として知られていますが、開業のきっかけとなったのも学生でした。

1902(明治35)年、「東京専門学校」が「早稲田大学」に改称し、学科が増設されたこともあって早稲田大学の学生が増加。このため、最寄り駅の開設が求められたからといわれています。

今も若者でにぎわう高田馬場駅をめぐる歴史と話題を紹介します。

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1864(元治元)年 江戸切絵図 尾張屋清七版「牛込市谷大久保絵図」(部分)。図の左にある細長い長方形の場所に「高田馬場」の文字が見える。中央上の「井伊掃部頭」の文字がある一帯が早稲田大学。下方の空白部は尾張徳川家の屋敷で、現在の戸山公園

江戸時代、江戸の各地には「馬場(ばば)」と呼ばれる施設がありました。武士のための乗馬練習場です。馬場は大名屋敷の中にもありましたが、旗本など徳川幕府の直参武士(じきさんぶし)のための公共の馬場も十数ヶ所ありました。

 

代表的なところでは、「采女が原馬場」(現在の中央区)、「小日向馬場」(文京区)、「初音馬場」(中央区)、「愛宕下馬場」(港区)など。中でも有名だったのは、「高田馬場」です。

 

高田馬場では、1728(享保13)年、徳川8代将軍の吉宗が流鏑馬(やぶさめ)を行いました。流鏑馬は馬を走らせながら馬上から的を狙って矢を射る武術。鎌倉時代ころから武士のたしなみとされていました。1737(元文2)年には9代将軍家重の長男・竹千代の誕生祝いの流鏑馬が高田馬場で行われ、江戸の人々に高田馬場の存在は広く知れわたったのです。

 

高田馬場は、1700(元禄13)年から翌年にかけて起きた「元禄事件」を題材にした物語『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)の舞台になりました。この作品は歌舞伎や浄瑠璃などで江戸時代から上演される人気の演目で、その後も『忠臣蔵』とアレンジされて講談や映画などの時代劇の題材になっています。

 

『忠臣蔵』をテーマにしたテレビ番組は1990年代まではほぼ毎年のように放映されていました。酒飲みだった中山安兵衛が、叔父の菅野六郎左衛門の助太刀として高田馬場に駆け付け、敵方8人を切って捨て、それがきっかけで赤穂藩堀部家の養子になり、討ち入りをした堀部安兵衛となる、というエピソードは、時代劇ファンにはおなじみでしょう。

 

江戸名所図会「高田馬場」、1836(天保7)年

図は1836(天保7)年の『江戸名所図会』に描かれた高田馬場の図。描かれた絵を見ると、馬場内は2ブロックに分かれ、奥のブロックでは流鏑馬の練習が、手前では弓矢の遠射が行われています。馬場の外に女性の姿も見受けられるのはご主人に同伴した奥方でしょうか。

 

また、馬場の外には食事処もあって、昼餉(ひるげ)の宴が開かれているのも分かります。こうしてみると、高田馬場は行楽の場にもなっていたことが想像できます。

 

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高田馬場駅が開業した明治末期、周辺の地名は「戸塚村」、近隣の地名は「高田」「諏訪」などでした。地名に由来して駅名をつけるのであれば、村名の「戸塚」か、「高田」「諏訪」などが適当です。周辺住民の要望も駅名は「戸塚」でした。

 

しかし、「戸塚」は神奈川県内の東海道線に、「高田」は新潟県内の信越本線に同名の駅がすでにありました。また「諏訪」は、長野県の地方名として広く知られています。ということで、何か別の駅名を選ぶことになったのです。こうした経緯から決定した駅名が「高田馬場」でした。

 

1843(天保14)年 江戸圖(岡田屋嘉七版)より。乗馬練習場としての「高田馬場」は早稲田にあり、「高田馬場駅」は離れています

しかし、乗馬練習場の「高田馬場」があったのは、現在の新宿区西早稲田のあたりで、高田馬場駅からは1km以上離れています。しかも、乗馬練習場の「馬場」は明治初期に廃止されています。高田馬場駅が開業した1910年には、「高田馬場」はすでに歴史上の遺物「高田馬場跡」になっていたのです。

 

それを駅名とするのは、無理やりな感じが否定できません。別の事例でたとえるなら、山手線有楽町駅前にかつて南町奉行所があったことから駅名を「有楽町」ではなく「南町奉行所前」とするようなものです。

 

それでもあえて「高田馬場」の駅名にしたのは、高田馬場の名称が全国的に広く知られていたからでしょう。それはもちろん『忠臣蔵』の1シーンの舞台としてです。時代劇は、娯楽が数少なく、限られていた時代には人気の娯楽コンテンツでしたから、『忠臣蔵』のファンは現在よりもはるかに多かったのです。

 

つまり「高田馬場」は、当時の時代劇ファンにとって「聖地」だったと考えられます。もしかしたら、高田馬場の駅名を決定した関係者は、かなりの時代劇ファンだったのかもしれません。ということで、全国でも珍しい史跡の名称を駅名にした駅が誕生したのです。

 

ただし、史跡となった江戸時代の馬場は「たかたのばば」。周辺の地名も高田(たかた)です。それに対し、駅名は「たかだのばば」。なぜ「たかだ」と発音が濁ったのかは不明です。

高田馬場駅の島式1面2線ホーム。乗客数に比べるとこぢんまりした印象です。ラッシュ時はホームが人であふれることが想像できます

高田馬場駅は内回り線と外回り線に挟まれてプラットホームが1面あって、1つのホームの片側を内回り線、もう一方を外回り線が発着するという「島式ホーム1面2線」の駅です。この形式のホームは高田馬場のほかに、山手線では五反田、新大久保、目白、大塚、巣鴨、駒込といった駅に見られます。

 

ベースになっているのは、現在のような乗客数の増加を想定していなかった時代に建設されたホーム。そのためラッシュ時にはかなり混雑します。

 

2020年3月、新しい駅舎を開業した原宿駅の場合も、「島式1面2線」の状態から「2面2線」とし、専用の外回り線ホームを増設することで混雑を解消するということが目的の1つにあったのです。

 

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ホームの屋根を支える梁(はり)に刻印があります

建築年代が古いホームなので、ホームの屋根を支える柱や梁に、古いレールを再利用したものがあります。興味深いのは、その古レールに文字が刻印されていること。

 

上の写真からは「0・TENNESSEE・7540・ASCE・10・1922」と読み取ることができます。TENNESSEE(テネシー)はアメリカのテネシー州。1922は年号と思わわれます。

 

古レールを建築材として再利用している例は少なくありませんが、このような刻印が見られるのは珍しいものです。100年近く前にテネシー州から輸入されたレールは、どこの線路として使われ、どのような経緯で高田馬場駅にやってきたのでしょうか。

 

高田馬場駅は、この島式ホームを1日あたり平均21万1,687人(2018年 JR東日本調べ)の乗客が利用します。この乗客数は山手線内の駅では8位、JR東日本管内の駅としては12位、全国のJR線でも14位となります。

 

JR東日本以外のJR駅で高田馬場駅より乗客数が多いのは、大阪駅(43万3,637人)と名古屋駅(21万9,917人)だけ。ちなみに高田馬場駅に次ぐ全国15位の駅は京都駅(20万426人)です。

 

この3駅は乗客数20万人~21万人で推移しており、乗客数だけでいえば、高田馬場駅は名古屋駅や京都駅と肩を並べる大規模駅といえるのです。

 

ちなみに高田馬場駅よりも上位の駅はすべて、複数のホームがあります。したがって島式ホーム1面の駅に限っての乗客数は、高田馬場が日本一となります。

 

また高田馬場駅より乗客数の多い駅は日本国外の駅には存在しないので、日本一ということはすなわち世界一ということにもなります。つまり高田馬場駅は、「島式ホーム1面の駅として」という条件付きではありますが、1日あたり乗客数世界一の駅、といえるのです。

 

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閑散とした雰囲気の戸山口。京都駅や名古屋駅に匹敵する乗客数の駅とは思えません

高田馬場駅を利用したことがある人でも知らないことがある、という出入り口が戸山口です。高田馬場駅には戸山口と早稲田口があり、乗客の大半が利用する出入り口は早稲田口です。

 

早稲田口は西武新宿線や東京メトロ東西線との乗り換え口でもあり、また早稲田大学をはじめ専門学校や予備校へ通う若者が数多く利用します。朝夕のラッシュ時に限らず、常時人々でごった返している印象です。

 

駅の外へ出ると、駅前にはロータリー。周辺には複合商業施設や飲食店、大型書店、ファストフードの店などが雑然と立ち並び、にぎわっています。

 

一方、戸山口は、ホームの最南端、新大久保寄りから階段を下りたところにあります。改札口の外はこれといった特徴のない住宅地。時間帯によっては、改札口周辺に人の気配が全くないこともあるほどです。

 

ローカル駅のような雰囲気すら漂い、ここが京都駅や名古屋駅と肩を並べる利用客がいる駅とは思えないほどです。早稲田口のにぎわいと比べると、まさしく「裏口」「勝手口」といった印象です。

神田川に架かる鉄橋(神田川上水橋梁)。川を渡る橋としては山手線内で最も標高差があり、「渓谷」という表現があてはまりそう

高田馬場駅の北側には神田川が流れており、渓谷のような景観を見せています。この渓谷の標高は谷底がおよそ8m、川の両岸が12.3m。渓谷には山手線の鉄橋が架かっています。鉄橋は谷底から10m以上の高さがあり、電車はかなりの高所を走っている印象があります。

 

もともとこの付近は妙正寺川と神田川の合流点で水量も多く、水の流れは数万年の時をかけて周辺の台地を削ってきました。川の北側には河岸段丘の台地である目白台(標高約32.2m)があり、高田馬場から少しずつ標高を上げていき、南側は新宿付近がピーク(標高約38.5m)になります。

 

地形なりに線路を敷設していくと、最大で26m程度の標高差を越えなければならず、特に高田馬場~目白間はおよそ1kmの距離で20mの高低差という急坂になります。

 

この急坂を避けるため、新宿駅の北側から築堤をつくり、神田川に向かって築堤を少しずつ高くし、築堤上に線路を敷いていくことで神田川を越える際の標高を高くしました。つまり築堤のほうが駅より先につくられていたわけで、高田馬場駅はこの築堤上に建設されたのです。駅の標高は21.9mと、神田川の谷底より13.9mも高くなりました。

 

一方、目白台は台地を掘割状に削って切り通しとし、目白台を通過する際の線路の標高を台地よりも低くしました。この掘割の中につくられたのが目白駅で、目白駅の標高は25.2mと、台地の標高より7m低くなりました。これにより高田馬場~目白間の標高差が3.3mほどと、かなり緩やかな坂になったのです。

 

神田川に架かる山手線の鉄橋(神田川上水橋梁)は、鉄橋の上流にある清水川橋から眺めると、渓谷の深さ、築堤上の山手線の高さが実感できます。次回はそうした駅周辺の話題を紹介しましょう。

 

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更新日: / 公開日:2020.07.09