田端駅は、首都の中心を走るJR山手線にありながら、新宿や品川、上野などに比べ、やや地味な印象が否めない感じがあります。

駒込駅と西日暮里駅の間に位置し、乗客数は山手線29駅の中でも26位。「住みたい街」ランキングでも上位に名が挙がるというわけではありません。

しかし、歴史的に見ると、田端駅は東京北部屈指のターミナルとなるべく計画され、誕生しているのです。そんな知られざる田端駅の歴史をひもといてみましょう。

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田端駅の開業は1896年4月1日。当時、私鉄だった日本鉄道本線(上野~高崎)の駅として開業しました。つまり、山手線ではなく、現在の高崎線の駅としての開業だったわけです。

 

そして、同年の12月25日、田端~土浦間の日本鉄道土浦線が開業します。これによって田端駅は日本鉄道土浦線、すなわち後の常磐線の起点駅となったのです。

 

日本鉄道土浦線は常磐炭田の石炭などを輸送するための鉄道でした(旅客営業もあり)。田端駅は、高崎線方面と常磐線方面との接続駅となったのです。

 

ちなみに、土浦線に先駆けて1883年に開業した日本鉄道本線は、当時の国策事業だった富岡製糸場(群馬県)の製品を鉄道で輸送することを主目的としていました。

 

高崎方面から運ばれてきた物資は、上野からは縦横にめぐる掘割(掘って作られた水路)や、神田川、隅田川の舟運で輸送され、品川で再び列車に乗せ換えて東海道線で運ばれていたようです。

 

こうした輸送ルートのなかで、舟運利用をなくし、すべて鉄道輸送の体制とすべく計画されたのが、現在の山手線の前身となる1885年開業の日本鉄道品川線(品川~目黒~渋谷~新宿~赤羽)です。

 

これによって、富岡製糸場の製品を国際貿易港である横浜へと輸送する、高崎~赤羽~品川~横浜という鉄道のみによる輸送ルートが確保されたのです。

 

前述の通り、日本鉄道土浦線の建設は、常磐炭田から産出される石炭の輸送ルート確保が大きな目的でした。そこで、土浦方面~田端~赤羽~品川を経由して東海道本線に入るように、田端駅が起点とされたのです。

 

これとほぼ同じタイミングで、日本鉄道は貨物専用の隅田川線を田端~千住(後に隅田川駅と改称)間で開業。隅田川駅は、常磐炭田から運ばれた石炭や、建設資材の木材、砂利などを、隅田川の水運と連絡させるための貨物ターミナルでした。

 

田端駅は、鉄道の黎明期ともいえる明治時代に、石炭や建設資材、生糸などを輸送するためのターミナルとして誕生したのです。

 

明治末期となる1903年には、現在の山手線である日本鉄道豊島線が池袋から延びてきて田端駅に通じます。これによって田端駅は、高崎線と東北線、土浦線、山手線の4線の乗換駅で、土浦線の起点駅という、東京北部の一大ターミナル駅になったのです。

 

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田端駅は武蔵野台地と荒川の洪水域の境界に造られました。田端駅の西南側は高台で標高23m前後、東北側は標高5m前後。

 

田端から山手線外回り電車で上野方面へ向かうと、車窓の右手は高台の台地が、左手には低地が広がっているのがわかります。高台は武蔵野台地の東北端であり、低地は荒川の洪水域です。こうした地形上の条件が、田端駅の歴史にも大きく関わってきました。

 

田端駅開業当時、土浦線は、低地から高台への勾配を登るため、スイッチバックで田端駅へ入線していました。スイッチバックとは、ジグザグに敷かれた線路を、列車が前進・後退を繰り返して進み、標高差を越えることです。

 

三河島方面からやってきた土浦線の列車は、田端停車場を通り過ぎるようにして停車、いったん逆方向に進んで坂を上って停車、再び進行方向を逆転させて田端駅に到着、となっていました。

 

1897年(明治30年)の地形図。スイッチバックのために敷設された線路がわかる

現代であれば、スイッチバックはさほど問題ではありません。列車が前進と後退を繰り返すだけだからです。

 

しかし、当時は蒸気機関車に客車や貨車を連結して運転されていたわけで、スイッチバックは進行方向が変わるたびに先頭の蒸気機関車を切り離し、最後尾に蒸気機関車を連結する手間が生じます。

 

機関車の付け替えはあまり評判がよくなかったようです。こうして、スイッチバックによる手間と時間のロスを解消するため、1905年、土浦線は三河島駅から大きくカーブを描いて日暮里駅へ向かう、現在の常磐線のルートに変更されました。

 

このルート変更により、田端駅は土浦線起点駅の地位を失うことになるのです。ただし、旧土浦線の田端~三河島間は貨物専用線として残されました。

 

その後、旧土浦線の田端~三河島の線路を活かし、田端駅の北側に貨物操車場が造られることになりました。1912年から工事が始まり、1916年には操車場が完成。

 

しかし、駅の北側に大きな操車場ができたことによって、田端駅は北側からのアクセスが困難になってしまったのです。

左)1919年の地図。田端駅は田端大橋の西北にある。 右)1930年、田端駅は田端大橋の南東に移動した。

左)1919年の地図。田端駅は田端大橋の西北にある。 右)1930年、田端駅は田端大橋の南東に移動した

 

1928年、田端駅には大きな変化が起こります。まず、鉄道を中長距離線と短距離線に分けて運行する構想によって、東北線と高崎線の路線は、操車場の北側を走るルートに変更されたのです。

 

操車場の北側には、新たに中長距離の駅として尾久駅が新設されました。操車場の南側にある田端駅は、短距離の山手線の駅へと変更されたのです。こうして田端駅は、東北線と高崎線の駅からも外れることになってしまったのです。

さらに、桜木町~東京を運転していた京浜電車(後の京浜東北線)が、東京~赤羽間を延伸開業、田端駅にも停車するようになりました。これに伴って、田端駅は改良工事が実施されるのです。

 

この改良工事は、それまでの駅舎とホームを200mほど日暮里寄りに移動させ、京浜電車との共用のため島式2面4線に変更することでした。京浜電車南行と山手線外回り、山手線内回りと京浜電車北行が1つのホームを共用する「方向別配線」を意識して改良工事が実施されたわけです。

 

現在の田端駅のホームの原型は、このときに造られていたのです。

 

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古レールを利用した柱列が独特の美しさを見せている。

古レールを利用した柱列が独特の美しさを見せている

 

そうしたことを意識して現在のホームを見ると、古レールを使用した柱や梁が昭和初期らしいモダンな美しさを見せているのがわかります。

 

ホーム上では、谷型の屋根の中央部から立ち上がって柱となり、左右に分かれてカーブを描いて屋根の桁(けた)を支えています。

 

ホーム間の屋根と屋根を結んで、桁の延長となる独特のアーチが連続して美しい幾何学模様を見せる。

ホーム間の屋根と屋根を結んで、桁の延長となる独特のアーチが連続して美しい幾何学模様を見せる

 

そのまま屋根の軒のラインに沿って2番ホームと3番ホームの間に延び、2つのホームを結ぶようにしてアーチを描くのです。アーチの中央部には、円を連ねた意匠が加えられています。

ローカル線の小規模駅と言っても違和感のない田端駅南口駅舎。

ローカル線の小規模駅と言っても違和感のない田端駅南口駅舎

 

田端駅には他にも、この1928年の工事による建造物が残されています。それが、ホームの西日暮里駅寄りにある跨線橋(こせんきょう)と、それにつながる南口駅舎です。

 

ホームが2面となったため、2つのホームを結ぶ連絡通路として設けられたのが跨線橋で、現在は山手線内回りと京浜東北線南行、山手線外回りと京浜東北線北行というパターンでの乗り換えのために通行する人が大半で、南口改札へ向かう人は多くはありません。

 

南口駅舎は跨線橋からさらに階段を上ったところにあって、線路に沿って延びる台地の斜面に建てられています。この駅舎も1928年の工事によって誕生したもの。

 

駅西南側の高台へ立ち上がる急斜面の中腹に棚を造り、棚の上に駅舎を設置し、駅から高台の市街地へはさらに急な階段を上っていく、という立地であり、駅舎の周囲は面積的に非常に限られたものとなっています。

 

このため、駅前には広場はおろか自動車を止める余地もほとんどありません。赤い宝形屋根のこぢんまりしたあずまやのような駅舎の正面は、ピンコロ石(一辺が10cmくらいの方形の石)を敷き詰めた石畳になっているだけ。

 

駅名表示がなければ、山手線の駅とは思えないほどです。周囲に商店は全く見当たらず、駅舎の脇に飲料の自動販売機がポツンと設置されています。

 

このたたずまいは、まさにローカル線の小規模駅を思わせます。田端駅南口駅舎は、昭和初期から雰囲気を変えていない(というより土地に余裕がなく変わることができなかった)山手線の“秘境駅”なのです。

 

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田端駅

田端駅北口。駅ビル「アトレヴィ」と一体化している

 

こうした南口の様相とは一変し、メインの出入り口となる駒込寄りの北口は、駅舎が駅ビルのアトレヴィと一体化した現代的な建物になっています。

 

また北口改札へ向けて、1・2番線と3・4番線それぞれのホームからエスカレーターが通じています。エスカレーターの上には採光のいい大屋根とスポットライト型の照明があって、エスカレーターを上ったコンコースはしゃれたテラスのような印象すらあります。

 

良くも悪くも、現代の山手線の駅の体裁を整えた北口と、昭和初期から変わらない南口。田端駅にはそんな二面性を持ち続けています。

 

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更新日: / 公開日:2019.01.08