家族経営の銭湯が廃業、許可取り直しから再生をスタート
香林坊といえば金沢市を代表する繁華街のひとつだが、そこから歩いて5分ほどの場所に銭湯「松の湯」がある。昭和23(1948)年に開業、70年以上にわたって地域で親しまれてきた銭湯だったが、2020年、突然に当時の経営者が亡くなり、それを機に廃業、建物が売りに出た。
「家族で経営されていた銭湯で、ご家族は銭湯の2階に居住。上階は賃貸住宅となっていましたが、残された家族だけでは銭湯も、賃貸住宅も経営はできないと判断。建物をまるまる売却することになり、2020年の年末に私が勤めていた不動産会社に相談が来ました」と語るのは当時、その不動産会社に勤めていた神並大輝さん。
各方面に物件を紹介、売却先を探しているところに、以前から付き合いのあった株式会社エイジェーインターブリッジから、銭湯の再生を条件として購入を検討しているところがあると連絡が入った。同社は日本の文化を知ってもらおうとインバウンドを意識した町家宿などを展開しており、銭湯を残したいというのもその流れからである。
だが、松の湯は売却を決意した時点で一度廃業しており、銭湯を再生するためにはその許可を取り直すことから始める必要があった。
神並さんは大学を卒業後、証券会社勤務を経て独立を目指そうと不動産業に転じており、銭湯経営については全く知識はなかった。だが、もともと銭湯が好きだったこともあり、まずは営業許可を取るところから始めることになった。
だが、これは想像以上に難事業だった。このところ、多少は持ち直している感があるものの、銭湯は長らく減少傾向にあり、それは金沢市内も同様。かつては100軒以上もあったそうだが、現在は15軒が残るばかり。
そのため、銭湯営業の許可申請は長らく行われていなかった。役所に相談に行った神並さんは許可は難しいという、なんとも絶望的な答えを聞くことになった。
売買成立と同時に銭湯運営に携わることに
何か、手はないか。いろいろ考えて考えて神並さんは浴場組合の理事を務める友人の父に相談に行った。そこから浴場経営に知見のある人を紹介してもらうなどしてエイジェーインターブリッジの担当者も含め、複数人でどうすれば許可を得られるかを検討、再度協議のために役所を訪問。熱心なプレゼンテーションの結果、いくつかの条件を満たせば許可がおりることになった。
その要件のひとつが地元の町会からの要望書。地域に必要されている存在であることを証するという意味だろう。他地域の事業者による地元銭湯再生という珍しい事態に町会長さんも戸惑ったそうだが、ここでも日本の良いものを残したい、伝えたいという熱意が通じて協力してもらえることになった。
最終的には市長へのプレゼンまで行い、ようやく許可がおりることになり、2021年10月末近くに売買は成立した。1年近くの悪戦苦闘が実を結んだわけだが、そこでエイジェーインターブリッジの担当者から銭湯の営業をしてみないかという話が出た。
「起業したいとは思っていましたが、それは不動産業で。銭湯とは思ってもいませんでした。でも、やってみないかと言われ、驚きはしたものの、『やります』と即答。その後で妻にどう説明しようかと悩みましたが、最終的には不動産会社を辞めて銭湯運営と不動産業を2本の柱に会社を設立しました」
その後、松の湯の入る長町せせらぎビルは2022年5月から改修工事に入り、22年11月にオープンした。11月26日、いいふろの日である。
神並さん自身は改装には関わっていないそうだが、一棟まるごとの改修で替えていないところはほぼないのではないかというほど手が入れられている。外観、銭湯だけでなく、上部の賃貸住宅もすべてリノベーションされており、知らない人から見たら新築されたように思えるかもしれないほどである。
九谷焼タイルを使ったモダンな銭湯絵が印象的
1階の銭湯部分は昔は番台方式だったものをカウンターにし、サウナを広げた。取材時はすでに営業が始まっていたため、銭湯内は見られなかったが、九谷焼のタイルを使ったモダンな銭湯絵はなんとも新鮮。コンクリート打ちっぱなしの店内、小上がりも印象的で、今時の銭湯ならでは。
2階と3階には6室のテナントスペースが設けられている。面白いのはここにオフィス、サロンなどを構えると階下の松の湯の回数券などが付いた特別賃貸プランがあること。銭湯付きオフィスなんてなかなかないはずだ。
4階以上は住宅となっている。シンプルなモルタル仕上げの3階とは異なり、白のタイルや木を使った温かみのある空間で1ケ月単位で利用できる家具・家電付きのマンスリーマンションとして利用されている。ここも銭湯の入浴&サウナを無料で利用できる特別特典付き。出張、研修、単身赴任時その他で長期滞在をする時などの利用を想定しているが、そこに銭湯があるのはうれしい。しかも、周辺には他にあまり高い建物がないため、眺望も楽しめそうである。
また、マンスリーマンションというと都心部では単身向けのコンパクトなものが多いが、ここではワンルームながら約30m2、約60m2などといった部屋もあり、夫婦、家族での利用もできる。金沢に長期滞在するなら候補にしたいところだ。
順調な松の湯に続き、能美市でも新たな銭湯を取得
さて、再開から2年弱経った松の湯だが、営業は順調で認知度も大きくアップした。取材中、取材後、見ていると地元の常連さんと思しき年配の人からファッショナブルな若い女性たち、荷物を抱えた観光客と実にさまざまな人が訪れている。神並さんを見かけると大きな声で挨拶、ちょっとした会話を楽しむ人が多かったのも驚きだった。
「お客さんがいないから廃業したわけではないので、以前からのお客さんも多く、最近ではそれに加えて観光で来た人、地元の若い人達も入るようになっています。一般的には銭湯は6月から8月、9月くらいの暑い時期には客数が減ると言われていますが、新しいお客さんたちは暑さを気にせず、通い続けてくださっており、ありがたい限りです」
そして全く素人から銭湯に携わることになった神並さんは2024年9月からもう1軒、銭湯を経営している。
「今年の6月に一度閉店した能美市の寺井湯を居抜きで購入、復活させました。金沢からは車で40分ほど。金沢とは違い、観光客が訪れるような場所ではないので、地元の人で勝負しなくてはいけませんが、家族経営の銭湯を他人が買って存続させられる、郊外でのモデルになるようにしていければと思っています」
ただ、入浴料だけで収益を上げていくのは難しいとも考えており、銭湯+物販などいろいろな方法を模索していきたいとも。
「京都にあるサウナの梅湯では建物は古いままですが、ファッション性の高い多様な商品で収益を上げているそうで、面白そうだからと来る人も増えています。PRも含めて見習いたいと考えています」
今後、日本のあちこちの地方にそうやって再生された行ってみたい銭湯が点在するようになったら楽しそうである。
そして、「次は農業をやろうと思っています」と神並さん。銭湯同様、農業もやったことはない。それでも始めようとしているのにはもちろん、理由がある。
銭湯の次は農業をやりたいという真意
「子どもが2人いるのですが、上の子が自閉症。そうした子ども達は大人になっても働く場所を選ぶことができないのが一般的ですが、それを変えたい。私がいろんな事業をやれば彼らが働く場所が増える。そう考えています。
銭湯のようなコミュニティを育める場であれば、彼らも働きやすいのではと思いますし、生活の基礎は食にあることを考えると農業は大事。米は自分らでつくるべきではないかと思っています」
寺井湯は子どもの選択肢のひとつになればと思っている。神並さんの両親、妹など家族に手伝ってもらいながら営業している。銭湯の仕事には掃除をしたり、薪で風呂を焚いたりとあまり他人と関わらない、地味な繰り返しが多いが、逆にその点が向いているのではないかというのだ。
「不動産業に転身した時にも宅建を取れば起業して仕事になるらしいと聞き、子どものことを考えて選択しました。銭湯をやってみたことで他にも自分にできることがあることに気づきました。今後も自分でできることで子どものために未来を作っていければと思っています」
起業が子どもの可能性を広げる。聞いて思わず、なるほどと思った。そして確かに銭湯であればお客さんたちとのコミュニティが働く人にとってもプラスになるだろう。銭湯での無言の、でも誰かと一緒にそこにいるという関係が精神的に疲れた人を癒すという言い方を聞いたことがあるが、それが銭湯で働く人にも作用すると考えると銭湯の社会的な役割はさらに広いものと言えるかもしれないと思った。
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