東京建築祭を楽しんでもらい、翌日から建築や街の見方が変わり、生活に楽しみが増えるように

東京都心部を中心に「東京建築祭」が2024年5月25〜26日にわたり開催された(一部プログラム除く)。「特別公開」「ガイドツアー」のほか、各種イベントといったプログラムを実施。「特別公開」では、東京の「大手町・丸の内・有楽町」「銀座・築地」「日本橋・京橋」の3エリアをメインとし、普段は非公開のものを中心に一般公開、特別資料の展示などが行われた。「ガイドツアー」は事前申込による有料プログラムで、建築に携わる人や暮らす人などの解説を聞きながら各建築物を巡っていく。なお東京建築祭は2024年2月に開催が発表され、クラウドファンディングも実施された。

東京でこのような大規模な建築公開イベントが開催されるのは初めて。東京建築祭の期間中、来場者はのべ約6万5000人にも上り、国内の建築公開イベントで過去最大の人数となった。主催である東京建築祭実行委員会の委員長を務めたのは、大阪公立大学教授で建築史家の倉方俊輔(くらかた しゅんすけ)氏。倉方委員長は東京建築祭のコンセプトや狙いを次のように話す。

「東京建築祭は単なる施設公開や文化財公開のイベントではありません。東京建築祭では『建築をこう理解してほしい』とか『こういうことを知ってほしい』というよりも、『建築って楽しいですよ』『みなさん、建築を見て楽しんでください』という"楽しさ"を第一に考え、それを前面に出しました。まずは東京建築祭を主体的に楽しんでもらい、建築に対して理解してほしいこと、知ってほしいことにも触れてもらいたいのです」

さらに倉方氏は「建造物だけでなく、理念や社会的背景も含めたものが"建築"。そして開かれたイベント、楽しむイベントなので、ある種『フェス(祭)』です。だから『東京建築祭』という名前にしました」と語る。

大阪公立大学教授で建築史家の倉方俊輔 実行委員長(提供:倉方俊輔)。「イケフェス大阪」「京都モダン建築祭」などの建築公開イベントにも起ち上げから参画している大阪公立大学教授で建築史家の倉方俊輔 実行委員長(提供:倉方俊輔)。「イケフェス大阪」「京都モダン建築祭」などの建築公開イベントにも起ち上げから参画している

倉方氏は東京建築祭というイベントに参加することで、翌日から建築や街の見方が変わり、生活の中で新たな発見や楽しみが生まれることを期待していると話す。

「建築はさまざまなところにたくさんあります。ですが普段街を歩くときには、あまり気にしていないのではないでしょうか。建築祭への参加を通じて『おもしろいデザインがあるな』とか『この街は隣の街とは違った特徴があるな』とか、街や建築に対する気付きを見つけられるようになっていただけたら。そして建築をきっかけにして、暮らしの中の楽しみが増えてほしいと思います」と倉方氏。

東京建築祭は建築物自体が最終目的ではないという。来場者が建築を通じて所有者のことを知ったり、「こんなに建築が好きな人がいるのか」「設計者はこんな考えでこの建物をつくったのか」「職人さんはこんな大変な作業をしたのか」といったことを感じたりすることで、建築を身近に思ってもらえることが目的。倉方氏は「建築はさまざまな人が関わっているもの。だから建築はひとつひとつ個性があります。そしてそこから街がもつ性格も見えてきます」と話す。この場合の"街"とは東京23区などの大きな街や、住居表示のような行政的な街ではなく、文化や暮らしを共有する小範囲の"エリア"を指す。

東京建築祭を開催するにあたり、最初に倉方氏が考える東京建築祭の理念やコンセプトを話し、それを実行委員会のメンバーと共有するところから始まったという。そしてその考えを受けてメンバーの一人が考えたのが「建築から、ひとを感じる、まちを知る」というキャッチフレーズだ。「このキャッチフレーズはわかりやすく、とても気に入っています。私の思いがコンパクトに詰まっています」と倉方氏は話す。

次の章からは、実際に東京建築祭で無料公開された多数の施設の中から、一部を紹介したい。

大阪公立大学教授で建築史家の倉方俊輔 実行委員長(提供:倉方俊輔)。「イケフェス大阪」「京都モダン建築祭」などの建築公開イベントにも起ち上げから参画している東京駅の丸の内駅舎。左右にとても長く、赤レンガ造りのレトロな外観が印象的だ
大阪公立大学教授で建築史家の倉方俊輔 実行委員長(提供:倉方俊輔)。「イケフェス大阪」「京都モダン建築祭」などの建築公開イベントにも起ち上げから参画している丸の内駅舎の南北に2つあるドームの内部は、それぞれ改札になっており、多くの人々が行き交う。上記写真は東京ステーションホテル2階ロビーから、ドーム内部の改札を見下ろしたところ

日本を代表する赤レンガ造りの建造物「東京駅 丸の内駅舎・東京ステーションホテル」

東京駅は日本を代表する巨大ターミナル駅だ。1908年(明治41年)に工事が始まり、1914年(大正3年)に開業した。東京駅は大規模で近代的である一方で、西側(皇居側)の丸の内口にある駅舎は赤レンガ造りのモダンな建物となっている。2003年には国の重要文化財に指定された。太平洋戦争では、東京空襲により駅舎が甚大な被害を受けた。戦後に復旧工事が施されたが、2007年より2012年にかけて本格的な復原工事を実施。被災前の姿を取り戻した。

東京駅丸の内駅舎は、明治・大正時代に活動した建築家・辰野 金吾(たつの きんご)が設計。駅舎は南北に延び、総延長は約335m。地上3階建ての構造だ。中央には高さ約28mの「中央部」をもち、南北(左右)に高さ約35mの「ドーム部」がある。東京駅の丸の内駅舎は日本を代表する赤レンガ造りの建造物として、堂々としたたたずまいを見せる。

東京ステーションホテルは、東京駅丸の内駅舎の中にあるホテルだ。開業したのは東京駅開業の翌年となる1915年(大正4年)。駅の中にホテルがあるのは、当時としては非常にめずらしかった。

丸の内駅舎は1914年(大正3年)に開業したが、東京空襲で被災。3階部分と屋根、内装の大部分が破壊された。戦後に復旧したが、被災前とは少しデザインが異なるものに。2007〜2012年の復元工事で元の姿を取り戻した丸の内駅舎は1914年(大正3年)に開業したが、東京空襲で被災。3階部分と屋根、内装の大部分が破壊された。戦後に復旧したが、被災前とは少しデザインが異なるものに。2007〜2012年の復元工事で元の姿を取り戻した
丸の内駅舎は1914年(大正3年)に開業したが、東京空襲で被災。3階部分と屋根、内装の大部分が破壊された。戦後に復旧したが、被災前とは少しデザインが異なるものに。2007〜2012年の復元工事で元の姿を取り戻した駅舎の南北に2つあるドーム部分(写真は北側のもの)

丸の内駅舎の南北2つのドーム部には、それぞれ改札(丸の内南口・丸の内北口)がある。改札から上を見上げると、ドーム内側の迫力ある姿が飛び込んできた。ドーム中央の茶色い丸い形は、車輪をイメージしたもの。その周囲に白い花の模様があるが、これはクレマチスという花だ。クレチマスの花言葉は「旅人の喜び」であり、駅舎の装飾としてふさわしい花ではないだろうか。交通機関として旅客の旅立ちや出迎えをする駅員の思いが込められているのかもしれない。

中央の車輪部の周囲には茶色い八角形部がある。その各頂点には、翼を広げた白いワシの姿が見える。このワシは石膏彫刻だという。さらに茶色い八角形を囲むように白い八角形が配置され、その各頂点にも特徴的な装飾がある。方角を示す干支が描かれており、十二支のうち八支を配置している。丸い青緑地に白い干支が描かれており、ガラス繊維強化石膏(GRG)でつくられているそうだ。ワシも干支も優雅さを感じさせる。

東京建築祭ではドーム下の2階の回廊に、東京駅の建築にまつわる資料が特別展示され、大勢の見学客が列をなしていた。

丸の内駅舎は1914年(大正3年)に開業したが、東京空襲で被災。3階部分と屋根、内装の大部分が破壊された。戦後に復旧したが、被災前とは少しデザインが異なるものに。2007〜2012年の復元工事で元の姿を取り戻した南側のドーム部分の内側(天井)は、細部までこだわったデザインになっている。改札から上を見上げると、この天井が目に飛び込んでくる
丸の内駅舎は1914年(大正3年)に開業したが、東京空襲で被災。3階部分と屋根、内装の大部分が破壊された。戦後に復旧したが、被災前とは少しデザインが異なるものに。2007〜2012年の復元工事で元の姿を取り戻したドーム内側・天井の装飾。左上:羽ばたくワシの装飾、右上:干支の装飾、右下:中央にある車輪型の装飾。左下:クレマチスの花の装飾

都市の真ん中に奇跡的に残された大正期の町家「井筒屋」

井筒屋(いづつや)はビルとビルとのあいだに挟まれ、ヒッソリとたたずんでいる古い木造3階建ての町家である。所在するのは東京メトロ・新富町駅すぐのところ。約100年前の大正時代に建てられたという井筒屋は、関東大震災や空襲などの被害を免れ、さらに再開発による建て替えなどからも逃れた。まさに奇跡ともいえる建物だろう。

もともと井筒屋は甘味処として建てられ営業していた。井筒屋の目の前にはかつて劇場「新富座」があり、新富座を訪れた客たちに井筒屋は愛されていたのだ。やがて劇場や甘味処は閉まり、家主が井筒屋から離れ、老朽化が目立つようになる。

この状況に危機感を覚えたのが、近くに事務所を構える建築家・板坂 諭(いたさか さとし)氏だった。板坂氏は井筒屋の建物を借り受け、自らリノベーション。そして2024年1月、新たに「the design gallery(ザ・デザイン・ギャラリー)」として生まれ変わったのである。

※ 参考記事
戦争や震災を逃れた歴史的建造物が全国各地で存亡の危機 新富町で築100年の井筒屋を再生、オープニングイベント開催

井筒屋の外観。災害や戦災を逃れ、さらに大都市の再開発からも残ったのは奇跡といえる井筒屋の外観。災害や戦災を逃れ、さらに大都市の再開発からも残ったのは奇跡といえる
井筒屋の外観。災害や戦災を逃れ、さらに大都市の再開発からも残ったのは奇跡といえる井筒屋の外観はレトロ感満載でノスタルジック。将棋の駒のような形の屋根や、緑色の外壁が特徴だ

レトロなビジュアルが印象的な井筒屋の外観。角張ったユニークな屋根は「ギャンブレル屋根」というものだ。その見た目はまるで将棋の駒の上部を彷彿とさせる。また窓の左右の深緑色の外壁部分は「亀甲貼り銅板」という建築意匠だ。レトロさを際立たせている特徴的な部分といえる。

内部も昔のたたずまいを残している。現在1階はイベントスペースおよびバースペース。2階はスタッフルームとミーティングルームに、3階は資材置き場と展示スペースになっている。各階を行き来する階段は木でできた非常に急傾斜なもので、昔ながらの形状だ。ノスタルジーあふれる雰囲気が濃密で、懐かしくも新しい印象がある。なお東京建築祭では1階が無料公開された。

井筒屋の外観。災害や戦災を逃れ、さらに大都市の再開発からも残ったのは奇跡といえる井筒屋の内部の様子。左上:1階 イベント&バースペース、右上:2階 スタッフルーム、右下:2階:ミーティングルーム、左下:3階 資材置き場兼展示スペース

各国の建築要素を組み合わせた独創的な本堂「築地本願寺」

築地本願寺は江戸時代初期の1617年に浅草近くに創建され、1657年に火災により焼失し、現在地で再建された。海だった場所を埋め立てて再建したことから「築地」の地名が生まれたという。その後、1923年(大正12年)に関東大震災で本堂が被災。1934年(昭和9年)に再建されたものが、現在の本堂である。

再建された現在の本堂を設計したのは、東京帝国大学(現 東京大学)の名誉教授・建築史家の伊東忠太(いとう ちゅうた)。彼の建築設計の中でも、最高傑作として名高い。伊東氏は古代インドの仏教寺院や西洋建築、さらにアジア各国の建築や日本建築といった各建築の特徴を組み合わせて本堂を設計した。そのため築地本願寺の本堂は唯一無二のユニークな建造物だといえよう。本堂を見ると、まるで海外にいるかのように錯覚してしまう。

築地本願寺の本堂は、複数の国の建築要素を組み合わせているので、異国情緒を感じさせる独特の雰囲気をもつ築地本願寺の本堂は、複数の国の建築要素を組み合わせているので、異国情緒を感じさせる独特の雰囲気をもつ
築地本願寺の本堂は、複数の国の建築要素を組み合わせているので、異国情緒を感じさせる独特の雰囲気をもつ本堂内にある講堂。元はすり鉢状に席が並んでいた。現在は平面の床となっている

また伊東は妖怪好きとして知られていた。そのため本堂内には数多くの妖怪や動物が配置されている。どれもユーモラスな風貌をしており、今にも動き出しそう。本堂内を回りながら妖怪・動物探しをするのも楽しい。宗教施設であるが、訪れた人に楽しんでもらおうという伊東の心意気が伝わってくる。

東京建築祭では、普段は公開されていない講堂と貴賓室、本堂裏の廊下が見学できた。講堂は本堂2階中央にある礼拝堂の向かって左側、貴賓室は向かって右側にある。講堂はもともと議場として使用されており、国会議事堂のようなすり鉢状の席が並んでいた。その後講堂に生まれ変わり、すり鉢状から平坦な床に改装されている。

築地本願寺の本堂は、複数の国の建築要素を組み合わせているので、異国情緒を感じさせる独特の雰囲気をもつ本堂内にある貴賓室。位の高い僧侶など、要人の接客のために用いられる
築地本願寺の本堂は、複数の国の建築要素を組み合わせているので、異国情緒を感じさせる独特の雰囲気をもつ本堂内にはさまざまな場所に妖怪・動物の装飾があり、探すのが楽しい。妖怪・動物好きだった設計者・伊東忠太の遊び心が感じられる

東京で最古のカトリック教会「カトリック築地教会」

カトリック築地教会は、東京最古のカトリック教会だ。かつて築地が外国人居留地だったことから、1874年(明治7年)にこの地へ教会が建てられた。築地教会の聖堂は東京都景観条例の歴史的建造物に選定されており、中央区の区民文化財に指定されている。聖堂の外観は、まるでギリシャのパルテノン神殿のような壮大な雰囲気。正面に建ち並ぶ柱は迫力があり、印象的だ。

まるでギリシャ・パルテノン神殿のような外観のカトリック築地教会。屋根の妻壁にはユリやバラのレリーフが施されているまるでギリシャ・パルテノン神殿のような外観のカトリック築地教会。屋根の妻壁にはユリやバラのレリーフが施されている
まるでギリシャ・パルテノン神殿のような外観のカトリック築地教会。屋根の妻壁にはユリやバラのレリーフが施されている内部は教会らしい厳かで静かなたたずまい

聖堂の内部は天井が高く開放感のある広々とした空間で、教会らしい厳かで神聖な雰囲気。左右の壁に並んだステンドグラスから差し込む光が美しく、神秘的な印象を感じる。また入口の門の横には「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と呼ばれる鐘が展示されている。1876年(明治9年)にフランスで鋳造された銅製洋鐘である。

東京建築祭の開催中に築地教会では、資料の展示が行われたり、改修工事を手がけた後藤喜男氏、建築史家の山﨑鯛介氏の特別レクチャーが開催されたりした。

まるでギリシャ・パルテノン神殿のような外観のカトリック築地教会。屋根の妻壁にはユリやバラのレリーフが施されている入口横にある聖ペテロ像。もともと3人の聖人像と共に聖堂内にあったが、関東大震災で聖堂が焼失し2体が壊れ、聖ペテロ像のみが残ったという
まるでギリシャ・パルテノン神殿のような外観のカトリック築地教会。屋根の妻壁にはユリやバラのレリーフが施されている1876年(明治9年)にフランスで鋳造されたという銅製洋鐘。当時の司祭が「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と命名した

渋沢栄一の宅地跡に建つ「日証館」、銀座昭和通りで唯一残る近代建築「旧宮脇ビル」

金融の街として知られる日本橋兜町。ここにある日証館は1928年(昭和3年)に証券会社が入居する建物として建てられた。設計をしたのは、横河民輔が代表を務めた横河工務所。ちなみにもともとこの場所は、新一万円札の肖像で日本の資本主義の父と呼ばれている渋沢栄一の居宅があったところだ。そこに関東大震災の復興建築として建てられたのが日証館であった。

現在では1階におしゃれなチョコレート・アイスクリーム店が営業しており、歴史ある建物に新たな魅力が加わっている。東京建築祭では、業務日しか立ち入れないエントランスホールが特別公開された。

日本橋兜町にある日証館。ここにはかつて渋沢栄一の邸宅があった日本橋兜町にある日証館。ここにはかつて渋沢栄一の邸宅があった
日本橋兜町にある日証館。ここにはかつて渋沢栄一の邸宅があった東京建築祭では、日証館に非常に多くの人が見学に訪れた

日本を代表する商業地域のひとつ・銀座。その銀座を貫く「昭和通り」沿いで現存する唯一の近代建築が旧宮脇ビル(川崎ブランドデザインビルヂング)だ。ベージュ色をした独特のタイルが並んだ外観がレトロな雰囲気を感じさせる。

旧宮脇ビルは1932年(昭和7年)に関東大震災の復興建築として建てられ、油商店の事務所となっていた。しかし2013年に老朽化が著しかったため解体が決定していたが、現オーナーが自ら改修し保存することを決意。そんな旧宮脇ビルは、リノベーションの好例として注目されている。旧宮脇ビルでは東京建築祭期間中、銀座の都市空間・建築史を絵葉書の資料で紹介する企画展示が開催された。

日本橋兜町にある日証館。ここにはかつて渋沢栄一の邸宅があった旧宮脇ビルの外観。陶板のような加飾タイルの外観は、全国的にも非常にめずらしい
日本橋兜町にある日証館。ここにはかつて渋沢栄一の邸宅があった旧宮脇ビルは2013年に保存改修作業が行われ、ギャラリーとして生まれ変わった

「来場者が建築を自発的に楽しむ」というスタンスが成功に繋がる

初めて開催された東京建築祭。想定を大きく上回る約6万5,000人が来場し、大盛況となった。有料のガイドツアーにも多くの申込があり、かなりの抽選倍率だったという。しかし来場者が多いにもかかわらずトラブルやクレームは少なく、成功のうちに幕を閉じた。SNSの投稿でも好評の声が多い。

実行委員長の倉方氏は、「来場者が建築を自発的に楽しむ」というスタンスが、大盛況に繋がったと感じているという。また建築に関心がある人の多さが可視化されたのは大きいとのこと。「東京建築祭は建築業界の啓蒙活動ではありません。今回、行政や公的団体・業界団体のバックアップを受けず、市民による市民のためのイベントが生まれた意味は大きいと思います」

「事前の告知も、主催者である私のSNSによる発信が中心でした。第1回の開催から、東京建築祭というキャラクターをしっかりとつくりたかったのです。このイベントのコンセプトに共感してくれる人へ情報が届き、良好な催しになったと考えています」と倉方氏は振り返る。

また倉方氏は「東京建築祭を通して、建物の所有者や来場者である一般の方々などが、通常とは異なるフラットな関係でふれあいます。来場者からは『すてきな建物ですね』『見せてくれてありがとう』、所有者・施設側からは『こんなに喜ばれるとは思わなかった』『感謝されてうれしい』という声があったと聞いています。建物の所有者や来場者などとのあいだに"善意の関係性"が生まれる。建築祭を開催する大きな意義です」と語る。

参加者から「楽しかった」という声がたくさん届き、狙い通り「来場者が主体的に楽しむ」イベントになったという倉方氏。「今後も継続的に開催することを念頭に置いています。今回は予想を上回る来場者だったので、次回の開催に向けた準備をしていきたいです」

「東京建築祭は、みんなでつくる建築のフェスティバル。今回見学して建築祭を楽しんだ方、今度はつくる側で楽しみながら祭に参加してみませんか?!」と、倉方氏は2回目の東京建築祭の開催へ向けての熱い思いを語った。


取材協力:
東京建築祭 実行委員会
https://tokyo.kenchikusai.jp/

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