「食いだおれの街」大阪が称された「天下の台所」とは
かつて大阪は「天下の台所」と称され、現代では「食いだおれの街」と呼ばれる。
両者はたまに同義に考えられるようだが、厳密には微妙に違う。
「台所」は本来「おいしいものが食べられる場所」ではなく、「食材や家財道具などが集まる場所」を意味していた。江戸時代以降、幕府の置かれた江戸が日本の中心となったが、大坂は海運や交通の要衝であり、さまざまな商品が集まってきたからだ。
「大阪が日本における台所のような場所」と表現された最も古い公的な記録は、天保十三(1842)年の、大坂西町奉行・阿部正蔵によるものだ。天保の改革で施行された株仲間解散令により大坂に集まる物資が減り、物価が上昇して経済が悪化したことを憂いた阿部正蔵は、「諸色取締方之儀ニ付奉伺候書付」を書いて株仲間(問屋商人)による流通の強化を提言した。その中に「大坂表之義は諸国取引第一之場所」「世俗諸国之台所と相唱」という文言があるのだ。
しかし近年の研究では、「天下の台所」というフレーズが生まれたのは大正時代で、歴史学者の幸田成友が生み出したとされる。たとえば『江戸と大阪』という書物の中で、幸田は「(前略)諸国から積み廻す品物は、大阪表その筋の商人の手で手広に引き受け、また江戸そのほか諸国入用の品々は多分〔大部分〕大阪から積み送ってその用を弁じ、大阪が諸色平均相場の元方であったことは疑うべからざる事実で、それがため大阪は『天下の台所』といわれたのである。したがって重要な商品はもちろん聊か(いささか)の品にても大阪での取引高は決して小さくはない(後略)」と述べている。
なぜ大阪には豊富な品物が集まってきたのか
関西には古くから都があったため、道路が整備され、水路や海路を利用した交易も盛んに行われてきた。
大阪が最も栄えたのは、豊臣秀吉が大坂城を築城し、城下町を整備した時代だ。
数多くの大名屋敷が建てられると、商人たちもぞくぞくと集まってきた。秀吉自身も平野や堺といった商業都市から、先進的な商人を誘致している。大坂商人が商売上手なのは、そもそも創意工夫のある商人が集められたからなのだ。
港町として栄えた堺には南蛮渡来の珍しい品が集まり、スペインやポルトガル人、イエズス会の宣教師など、外国人も多数往来した。
その後の大坂夏の陣で、大坂や堺は一時期、街は灰となった。
しかし江戸幕府が開かれると、関西の大名を統治するための拠点として大坂城が再建され、城下町も再び整備された。堺の賑わいも同様で、いわゆる鎖国令により、寛永十六(1639)年にポルトガル船の来航が禁じられても、中国船やオンランダ船による貿易が行われた。オランダ人宣教師のアルノルドゥス・モンタヌスが16世紀末から17世紀の日本事情をまとめた『日本誌』には、堀に囲まれた徳川時代の大坂城が詳細にスケッチされている。
藩ごとに集まった年貢米は、すべて藩内で消費されるわけではないから、余剰分は売り払って換金せねばならない。そこで海運に恵まれ、航路もきめ細かく整備されていた大坂の港に日本中から米が集められた。天保年間(1830~1844)には、米を置く蔵屋敷が130以上立ち並んだという。蔵屋敷までの輸送に便利なように堀川の水運も整備され、蔵屋敷の敷地内まで船が引き入れられ、米倉に米が蓄えられる。こうして、ますます物資が集まるようになったのだ。
集まった年貢米は、堂島で開かれた米市場で仲買人に入札制で売却された。1730年に公許された堂島米会所では、蔵屋敷が発行する「米切手」を取引したが、「帳合米取引」は帳面上で米を売買するもので、将来収穫される予定の米も含まれる。いわば組織的な先物取引の先駆けなのだ。日本以外ではアメリカのシカゴで1848年に始まった先物取引市場が最も古いとされるが、大坂の米先物取引はそれより100年以上遡る。
こうして大阪は、年貢米を換金するのに有利な土地となり、さらに多くの物資が集まるようになった。
大坂商人が生み出した街と「始末する」文化
大阪には150以上の橋があったが、江戸幕府が公費で整備した公儀橋は、天満橋、天神橋、難波橋、野田橋、備前島橋、京橋、鴫野橋、高麗橋、本町橋、農人橋、長堀橋、日本橋の12橋のみ。後は私設の橋で、その多くは豪商たちが私財をはたいて架設している。
ちなみに、堂島米会所の前身ともいえる米市場を創設したのが「淀屋橋」で知られる淀屋だ。淀屋の創始者である与右衛門は山城国八幡の出身で、淀の堤防修築で財をなし、大坂城築城でも力を発揮した。その功により現在の淀屋橋南側の土地を得て商売を始め、莫大な財産を成した。米市場を開いたのは与右衛門の子、源右衛門だ。
大坂商人の特徴は、始末・才覚・算用を重視したこととされる。始末は質素倹約に通じ、魚の骨も捨てずにだしをとるなど、物を無駄にしない精神が尊ばれた。才覚は創意工夫で常に新しい仕掛けを施して、積極的に商売をすること。算用は利益の計算を意味し、商売にならないことはしない。「宵越しの金をもたない」ことを粋とする江戸っ子にとって、これらの精神はむしろ野暮と捉えられたようだが、こうして蓄えた財産は、芸術文化支援にも使われ、茶の湯や文楽、落語などの発展にも深く関与した。
当時の大坂人の気概を感じさせるのは、橋だけではない。「グリコの看板」で有名な道頓堀は、安井道頓と道卜が私財をはたいて開削した堀川だ。安井道頓が大坂夏の陣で戦死したあと、その従弟の道卜が工事を引き継いだのだが、徳川家の援助を断って、大坂の農夫を集めて完成させた。
道卜が芝居小屋を誘致したため、道頓堀界隈は芝居の町となる。そしてこの道頓堀に竹本座を開いた竹本義太夫は、近松門左衛門の脚本を演じて人気を博し、人形浄瑠璃を洗練された芸術へと高めたのだ。
諸国から集まる豊富な食材で大阪に花開いた食文化の数々
かつて日本海沿岸の各地から物資を輸送するときは、琵琶湖や河川を利用していたが、17世紀なかばには日本海沿岸から大坂にいたる「西廻り」ルートが開発された。関西でだし文化が発展したのも、北海道の利尻昆布や真昆布が西廻りの航路で大坂に届けられたからだ。さらに大阪の水がだしをとりやすい軟水であったことが、だし文化普及の理由だとされる。
大坂商人の「始末」の精神は食文化にも表れていた。福沢諭吉は『福翁自伝』の中で、適塾時代の食事について「お菜は一六が葱と薩摩芋の難波煮、五十が豆腐汁、三八が蜆汁と言うようになっていて、今日は何が出るということは極まっている」と書いている。ただし、普段の食事が質素な分、お正月や節句はご馳走を存分に楽しむのが大坂流だった。
また、天保六(1835)年に刊行された滑稽本『巷能噂』の中に、江戸の人が大坂の料理屋で食事をして、その美味と新鮮さを堪能したのちに、勘定書きを見て「馬鹿馬鹿しく安い」と驚くシーンが登場する。「天下の台所」では、諸国から集まってくる新鮮で豊富な食材を使い、格安に食事ができたのだろう。
佃煮は大阪の佃村から江戸へ
佃煮の起源は大阪の佃村にある。魚は日持ちがしないため、長期保存するために作られたのが始まりだが、徳川家康が佃村の漁師を江戸に呼び寄せたので、江戸にも佃煮が広がった。
大阪といえば粉もん文化だが、そのルーツには諸説ある。水で溶いた小麦粉を薄く焼き、味噌や砂糖を塗って巻いた「麩の焼き」は、千利休も茶菓子に用いたという。関西には小麦粉をだしで溶き、きざみネギなどをのせて焼いたものにソースを塗って食べる「一銭洋食」もあった。
第二次世界大戦の後に米不足が続いた際、GHQがアメリカ食を広めようとして小麦粉を使った料理を広めた。大阪の人たちはそれを独自にアレンジし、お好み焼きやたこ焼きなどの粉もん文化を発展させたのだ。
大阪の街なかを流れる堂島川、土佐堀川、東横堀川、道頓堀川などは、まさに天下の台所・大坂の名残といえるだろう。その昔、この川を運行していた船の姿はもうないが、さまざまなクルーズ船が運行されている。江戸時代の賑わいを想像しながら景色を眺めれば、一味違う大阪を楽しめるに違いない。
■参考
清文堂出版『大阪史蹟辞典』三善貞司編 1986年7月発行
富山房『江戸と大阪ー富山房百科文庫ー』幸田幸友著 1995年7月発行
学習研究社『図説大坂 天下の台所・大坂』市川俊男編 2003年8月発行
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