過去の実績としては開催国&開催都市に与えた経済的影響は決して小さくないが…
故ジャック・ロゲ前会長が「トーキョー!」と開催地の名前を読み上げた2013年以降、アベノミクスによるゼロ金利政策と株価誘導などによる景気下支え策が奏功し、日本経済は90年バブル以降続いてきたデフレ基調に変化が訪れた。
この間、地価も各都市圏の中心部で徐々に上昇する傾向を示し、底入れから反転上昇に向かう状況となった。1987年を100とした住宅地公示地価の水準は、2020年に109.2(東京圏)および109.7(三大都市圏)まで上昇している。それが2021年にはコロナの影響によって公示地価が下落したことは記録に新しいが、それでも無観客開催などの対応によって開催にこぎつけた東京オリパラが終了し、衆目の関心は早くも「その後」に移っている。
もともと、開催国および開催都市には準備期間中にインフラ整備やいわゆる化粧直しなどによる建設需要、また関連雇用が促進されることで経済的な効果が期待でき、また観光需要の高まりによる間接的な効果も期待されるが、東京オリパラに限っては、最も消費需要創出が期待されたインバウンドが消失したことで経済的には目論見が外れたと言わざるを得ない。特に宿泊業、観光業、飲食業は消費支出の大きな受け皿と目されていただけに、コロナの影響は計り知れない。
日銀調査統計局の資料によれば、過去開催国のGDPは開催前後で共に概ね上昇しており、特に開催年の2〜5年前に固定資産投資が活発化することにより一旦大きく押し上げられてその後やや落ち着き、開催された年以降も減少に転じていないことから、開発の継続による国内経済の持続的活性化が示されている。
ただし同じG7で開催された2012年のロンドン大会では、卸売・小売業、広告・宣伝業、警備および観光関連産業、建設業での経済効果は高いものの、不動産業においては目立った効果は報告されていない。ロンドン東部に新設されたオリンピックパークには、周辺にショッピングセンターや約1万戸の住宅、コミュニティ施設などが整備されたが、この地域の商業用不動産の価格や賃料は明確な上昇を示してはいない。
このような状況証拠的な資料を俯瞰すると、国のファンダメンタルズがどのような状況であるかで「その後」の不動産価格にポジティブな影響が発生するか否かが推測される。足元の不動産価格は実勢地価の安定推移と依然として継続する低金利政策によって住宅需要が堅調とされており、実際に都市圏中心部の新築マンション価格は高騰を続け、中古マンションも需給バランスがひっ迫して明確な流通価格の上昇を示している。
コロナ禍の拡大・収束については全く予断を許さず、不動産市況には不確定要素も数多いが、東京オリパラ開催の効果も含めて、不動産市況、特に住宅市場は今後どのように推移する可能性があるのか、専門家の見解を聞く。
都心部の築古オフィスが淘汰の対象に。住宅への転換により都心居住者増加の受け皿となるか~室 剛朗氏
室 剛朗:J-REIT草創期より金融機関系シンクタンクで不動産証券化関連業務に従事。現在、(株)価値総合研究所にて、不動産投資市場・低未利用不動産再生・被災地復興まちづくり事業・駅周辺再開発・既存住宅流通に係る調査・コンサルティング業務に従事。麗澤大学経済社会総合研究センター客員研究員2020年に予定されていた東京五輪・パラリンピック(以下、オリパラ)は2021年に延期となったが、不動産市場への影響として開発の進展による東京中心部の魅力向上のほかには、投資資金流入による不動産価格の一層の上昇、(開催時の混雑回避を目的とした)テレワーク推進による働き方改革の進展、という点に特に注目していた。オリパラの影響で不動産市場の変化が起きるはずであったが、それは新型コロナウイルス(以下、コロナ)という最大級の災厄の影響にかき消される格好となった。
コロナが不動産市場に与える影響は1年半を経て見え始めている。結論を言えば、集中と分散が同時に起きるという動きが進むと考えている。マクロで見れば、東京からの人口流出が観測される「異常事態」は継続しており、郊外への移転が見られる状況にある。水準の違いはあれ、このような「分散」は継続するとみられる。他方で、オフィスにおいては、リモートワークの一部定着により、オフィス床使用量を縮減する流れの中、都心中心部への集約移転が進み特定エリアにおける集積を高めていくことが予想される。住宅においては、都心部のマンション需要に陰りは見られず、むしろ職住近接ニーズを強める動きも一方で観測されるといった「集中」という方向性も継続すると考えられる。
住宅市場に関係する論点は多いが、リモートワークの普及によって都心部の築古中小規模オフィスの競争力が低下し、淘汰が進むことで、職住近接の住宅の種地が増加するのではないか、という点に特に注目している。
東京中心部の賃貸住宅は2000年代半ばに多く供給され、それまでとは異なる品質のストックが増加した。この時期、ビルの大規模化により築古中小ビルの競争力が低下したことや、職住近接の需要が拡大したことなどを背景に、中央区など古くから存在するオフィス街の中小ビルの建て替えが急速に進んだ。これらの物件はJ-REITや私募ファンド等が取得し、運用しているケースが多いが、既に築15年以上が経過していることになる。こうした物件のシェアが多いファンド等は今後、キャッシュフローの下方圧力が強まる可能性が考えられる。ニューノーマル時代を迎え、「自宅に業務を取り込む」「環境負荷の低減」など新たな需要に対応したストックの増加が望まれる中で、供給種地の増加は絶好の投資機会の創出となる。
また、現在オフィスの未来については不透明感が強く、今後数年かけて企業のオフィス戦略が整備されていくと予想される。ホテルについては、インバウンドの戻りは早晩始まっていくとみられるものの、不要不急の出張の減少は恒常的なものとなりそうである。こうした背景から、競争力を失ったオフィスの建て替え用途としてオフィス・ホテルは選択しづらく、この側面からも住宅への建て替えが進む公算が大きい。このように都心中心部に住宅供給が進めば、職住近接需要の受け皿として機能し、一層の都心居住者の増加を促す一因となる。
オリパラの開催に伴いテレワークの実証実験が行われ、緩やかに働き方改革が進み、不動産市場に構造的な変化が生じていくことが予想されていたが、コロナによってそれが加速した。比較的短期間に「集中と分散」に関わる動きが同時並行的に顕在化してくるとみられる。一部で居住地の分散議論(移住・2地域居住・デジタル田園都市構想)が旺盛であるが、「住宅市場」という観点からは、中心部における動向をつぶさに見る必要がある。
五輪無観客で集客に影響なし、今後の市況は価格上昇を抑えられるかが鍵~田村 修氏
田村 修:株式会社不動産経済研究所 取締役編集事業本部長。1960年生まれ。青森県出身。出版社勤務などを経て、1985年4月に㈱不動産経済研究所入社。日刊不動産経済通信の記者として不動産関連業界や行政を取材。総合不動産会社やマンションデベロッパー、不動産仲介会社、マンション管理会社、ハウスメーカー、大手ゼネコン、Jリート、アセットマネジメント会社、国土交通省、内閣府などを担当。2008年2月日刊不動産経済通信編集長、2015年5月取締役編集・事業企画部門統轄。2017年2月取締役編集事業本部長。2019年2月日刊不動産経済通信編集長兼任マンション、一戸建てを問わず、分譲住宅市場は好調に推移している。
分譲マンションの販売については当初、東京オリパラの開催期間中に競技会場周辺で大掛かりな交通規制が敷かれることによる集客への影響が懸念されていた。そのため、オリパラの開催中は各社ともマンションの販売センターを閉めて集客活動を休止し、その間供給が滞ることがマーケットにマイナスの影響を及ぼすのではないかとみられていた。だが、オリパラが無観客での開催となったため、各社の販売スケジュールは予定通り進んだ。
都心の高額物件は金余りと旺盛な投資意欲によって、パワーカップルや富裕層、投資家の潤沢な資金が好調な販売を後押ししている。郊外は広い面積と部屋数の多さを求める一定の需要層に支えられ、販売状況は概ね良好であり、最寄り駅からバス便でも堅調に売れている物件もある。長引くコロナ禍が人々の意識と生活様式を変え、定着してきた感がある。外出を制限され、家にいる時間が長くなったことで住環境へのこだわりが出てきた結果が現れてきたと思われる。
好調な住宅市場を背景に、用地取得を巡る競合が激しさを増しており、用地価格は上昇し続けている。一方で、五輪が終わっても建築費は高止まりしたままだ。コロナ禍によるサプライチェーンへの打撃で木材だけではなく、他の部資材の価格も上昇傾向にあり、建物のコストはむしろ高くなっている。用地代と建築費の上昇で分譲マンション価格は強含みだ。今のところ、価格の上昇を需要が吸収している。新規供給がそれほど増えていないのと、中古マンションの売り物件が減少しているため、市場全体の供給量が抑えられていることが大きな要因と考えられる。
しかし、今後も価格の上昇が続けば、特に郊外部では需要がついてこられなくなる可能性がある。郊外に目を向けている需要がしぼめば好調なマンション市場にも陰りが出てきそうだ。求めやすい価格にするために面積を狭くすると顧客は離れてしまう。遠隔地に行けば土地代は安くなるが、利便性が悪くなって需要が減る。今後はリモートワークがある程度定着する社会になってくるとはいえ、会社に出勤できる距離でなければ需要は限られる。また、土地代が低くなるほど販売価格に占める建築費の割合が高くなり、現状の建築費では割安感を出すのが難しく、事業の採算性は悪くなる。
当面は好調な市場が続くとみているが、今後は販売価格の上昇を抑えるための間取りや商品企画などの工夫がより重要になってくる。
メガイベントは不動産市場に対して影響を与えない~清水 千弘氏
清水千弘: 東京大学空間情報科学研究センター特任教授、日本大学スポーツ科学部教授(統計学担当)、マサチューセッツ工科大学不動産研究センター研究員。1967年岐阜県大垣市生まれ。東京工業大学大学院理工学研究科博士後期課程中退、東京大学大学院新領域創成科学研究科博士(環境学)。財団法人日本不動産研究所研究員、株式会社リクルート住宅総合研究所主任研究員、麗澤大学経済学部教授、ブリティッシュコロンビア大学経済学部客員教授、シンガポール国立大学不動産研究センター教授等を経て、現職。専門は、ビッグデータ解析、不動産経済学、スポーツデータサイエンス。主な著者に『市場分析のための統計学入門』『不動産市場の計量経済分析』『不動産市場分析』など。国際的な学術誌には50本以上の論文が公刊され、日本語での論文を入れると100本を超える。社会資本整備審議会専門委員、内閣府統計委員会専門委員、金融庁金融研究センター特別研究員を務める2013年に東京での56年ぶりとなる五輪開催が決定されてから、アベノミクスによる金融緩和とも重なり、不動産市場は1980年代の不動産バブルを彷彿させるような活況に沸いた。当時の議論を振り返れば、リーマンショックや東日本大震災の傷痕から完全に立ち直ることができていなかった日本の不動産市場は、五輪の開催によって回復させることができるのではないか、という期待があった。しかし、2020年にコロナ問題によって不動産市場の熱が少し冷まされるまでの間、建設ラッシュと合わせて不動産市場は予想以上の過熱化が進んでいたといってもよい。今、オリパラといったメガイベントが終わった後に、今後の不動産市場がどのようになっていくのかということに関心が集まる。この問題を考えるにあたり、そもそもメガイベントが不動産市場に影響をもたらすのかということを理解しておかなければならない。
メガイベントと不動産市場の関係を分析したレポートや論文は、過去の五輪を事例として複数存在する。それらのレポートや論文が共通に報告しているのは、アトランタ五輪、シドニー五輪、北京五輪、ロンドン五輪のいずれのケースをも事後的に検証してみると、メガイベントは不動産市場に対して影響を与えないということであった。それらの研究が正しいと考えれば、東京五輪だけが特別な影響を持つとは考えづらい。むしろ、オリパラといったメガイベントが終わった今、コロナショックによって企業・家計ともに本来の生産活動のあり方や働き方のあり方、家族とのあり方を考える機会を得るなかで、それぞれが不動産とどのように向き合っていけばいいのかといったことを考えたときに、どのような決断をし、行動が変容し、それぞれの選択が変わるのかといったことに注目すべきである。
企業にとってオフィスとは何であるのか、またはどうして私たちはオフィスで働かないといけないのか、私たちはどうして通勤をするのか、家族とどのように過ごすべきか、子どもをどのような環境で育てるべきか、などなど本質的な問いに対して私たちはどのような解を出すのであろうか。
不動産市場が長期的に均衡していく先は、企業にとっては生産性を最大化すること、そのために従業員の幸福を最大化すること、家計にとってみれば自分自身の家族全員の幸福を最大化することができる選択をしていくはずである。
オリパラは、コロナショックと重なることで私たちに大きな問いを残していったと考える。
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