「荒れたる宿の人目なきに…」

徒然草百四段より…『内のさまは、いたくすさまじからず。心にくゝ、火はあなたにほのかなれど、もののきらなど見えて、俄かにしもあらぬ匂ひいとなつかしう住みなしたり。「門よくさしてよ。雨もぞ降る、御車は門の下に、御供の人はそこそこに」と言へば、「今宵ぞ安き寝は寝べかンめる」とうちさゝめくも、忍びたれど、程なければ、ほの聞ゆ』徒然草百四段より…『内のさまは、いたくすさまじからず。心にくゝ、火はあなたにほのかなれど、もののきらなど見えて、俄かにしもあらぬ匂ひいとなつかしう住みなしたり。「門よくさしてよ。雨もぞ降る、御車は門の下に、御供の人はそこそこに」と言へば、「今宵ぞ安き寝は寝べかンめる」とうちさゝめくも、忍びたれど、程なければ、ほの聞ゆ』

徒然草の第百四段に書かれていることも、住まい文化の目線で眺めると気づかされることがある。
とはいえ、この段の内容は本来、文学者や社会学者に解釈を任せるべきものかもしれない。

文頭にある荒れた人目にもつかない家に住んでいるのは、何らかの理由で幽閉されている女性だ。ある人がこの女性を訪ね、夜が明けるまで語り明かして帰っている。
どのような女性なのか、訪ねたのは誰か、そして、なぜ兼好法師が『徒然草』にそれを綴っているのかは文中にはない。

ただ、その女性は身分が高いらしく、外観は荒れていても、番犬がいて吠えたて、下女が一緒に住みこむ、いかにも立派な家であることがわかる。
それどころか訪ねた人も牛車であろうか車で出かけ、供の者と一緒に門のそばにある雨除けにもなるガレージに停めている。少なくとも敷地は豪邸のようだ。

その荒れ方に心細さを感じ、どんな過ごし方をしているのだろうかと女性の気持ちを慮って心苦しくなっている。とにかく古い家であることは間違いない。

「いとなつかしう住みなしたり」

灯火は薄暗いのだが、室内の調度品はきらびやかで…とある灯火は薄暗いのだが、室内の調度品はきらびやかで…とある

門から入ってからも「あやしき板敷」でしばらく待たされる。やがて本人からか、直接「こなた」へと声をかけられて引戸より中に入ってゆく。すると、様相は一転する。

「内のさまはいたくすさまじからず心にくく…」と、荒れているどころか見事に住みこなしていることに感心している。
つまり、800年前のリノベーションの姿が書かれているのだ。

夜を明かすまで語りあうが、当時は電気もなかった。でも、室内には明かりが灯されている。
その灯火も「かなたにほのか」で、まるで間接照明のようなイメージだ。手元までしっかりと光は届き、調度品にも反射して輝いている。絶妙の照明計画がなされていた。ライティングデザイナーがいたかのようだ。

室内には匂いが漂っているが、にわかにごまかしたような香りでもない。アロマテラピストがいたかのようだ。

少なくとも幽閉された女性は、トータルインテリアコーディネートの感性でリノベーションをしていた。そして訪ねた人も、その感性がわかるからこそ「いとなつかしう」と高い評価をした。

雨風に荒らされたはずの家が、住まい手のリノベーションによって、その人の心模様まで感じさせるほどの家に変身している。インテリアコーディネートは、その人のセンスそのものだ。しかも短い文字の中にも、女性的なセンスを感じさせる。庶民のライフスタイルとは違うのだろうが、現代とまったく変わらない世界に感じる。

その後の一文は、意味深く、解釈が分かれる。「今宵ぞ安き寝は寝べかめる」。語っているのが幽閉されている女性であれば、とても艶っぽい言葉に感じる。その解釈は、建築ではなく文学に任せた方が良さそうだ。

「主人ある家にはすゞろなる人…」

リノベーションの他に空き家問題の記述も『徒然草』にはある。第二百三十五段だ。

主人のいない家、つまり空き家にすると、不審者や獣、さらには物の怪までもが住みついてしまうと書く。現代の空き家がかかえている問題と、物の怪を除けばまったく一緒だ。

確かに家は、人が住まなくなると傷みやすいといわれる。人が住めば火を焚き、家は煙に燻される。また人が発する熱や湿気もあり、屋内に風を通すこともある。なぜ住めば傷みにくくなるのかエビデンスは明確ではないが、古人の目には物の怪が、家を傷めているように感じたのだろう。わからないでもない。

この段は、家のはなしから始まってはいるが、本当のテーマは心の問題だ。さまざまな欲望や葛藤が心に浮かぶのは、確たる信念を持っていないからだという。心に主があれば、そのような邪心が入り込む余地はない。その通りだ。

これを今一度、空き家の問題として差し戻してみよう。

「虚空よくものを容る」

日本は山河をコンクリートで固めて、日本の様式と伝統を捨て去ってしまった。日本人の方がむしろ、本来の東洋的な考え方を捨て去り、快適さや安全性を数値で測って、どの地域も変わらない情景を作り出している日本は山河をコンクリートで固めて、日本の様式と伝統を捨て去ってしまった。日本人の方がむしろ、本来の東洋的な考え方を捨て去り、快適さや安全性を数値で測って、どの地域も変わらない情景を作り出している

どうして空き家になるのか。
器は中が空だからこそ役に立つ。鏡には色・形がないから、ものを写すことができる。時として、家も器として同等のものと扱われることが多い。
しかしこの段では、信念を持った心とは同等に、家を扱っている。つまり兼好法師にいわせれば、空き家になるのは、そこに心の主がいないということだ。

日本全体の人口が減って行く中で、家が減らなければ、空き家が増えるのは当たり前のことだ。この問題を解決するには、人口を増やすか、いらない家を壊すしかない。壊すのがもったいなければ、他の使い方を考えるしかない。
しかし、むしろ住む人がいないことよりも、住む気持ちが起きないことの方が、解決すべき空き家の問題だと教えてくれている。

そして、その家に住むことはそのまま、その地域に住むことでもある。都市への集中が止まらず、地方の創生が問題になるのも、その地域に住むという心が失われているのだ。

人口が減る問題は、多かれ少なかれどこの国でも抱えている問題だ。同時に地方の衰退も、どこの国にもある。しかし日本とは違う結果に達している西欧の国々がある。地域の良さが残されているのだ。

西欧では、何よりも地域の自然を壊さない。地域の様式を壊さない。伝統を重んじる。

それに対して、日本は山河をコンクリートで固めて、日本の様式と伝統を捨て去ってしまった。日本人の方がむしろ、本来の東洋的な考え方を捨て去り、快適さや安全性を数値で測って、どの地域も変わらない情景を作り出している。
家もまったく同じ状況になろうとしている。

「家居にこそことざまはおしはからるれ」

結局、『徒然草』第十段につながる。家の姿を見れば、住まい手のことざまがわかるように、コンクリートで固めた地域は、今の日本のことざまを表しているのだ。

高断熱・高気密でどの地域に行っても似たような住宅を建て、一度家に入れば、どこに住んでいるのかも忘れるような家が、今の日本の家のことざまだ。その最たるものは、マンションだ。窓からの風景だけの違いだけが価値であり、建物そのものにはことざまがあるようには思えない。

では、住む気持ちになる、主の心が残された家とはどんなものだろうか。

昨今の流行の収納法を借りれば、「ときめき」が残されている家なのかもしれない。
親が亡くなり住まなくなった空き家でも、自分の思い出など「ときめき」が残っているうちは、たとえ空き家でも問題が生じているとは思えない。「ときめき」がなくなれば、無用のものとなり空き家問題となる。
同様に、住みたくなる家には「ときめき」がある。その「ときめき」を考えることが、空き家問題の起点になるのだ。

京都には「ときめき」があるから、古民家が残される。
「ときめき」には、日本の住まい文化を欠かすことはできない。

日本に来始めている海外の訪問者たちが、日本の住まい文化に触れて感動をする、そんな家が広まることが大切だ。
2020年に向けて、兼好法師の『徒然草』を、このように読んでみた。

海外の訪問者たちが、日本の住まい文化に触れて感動をする、そんな家が広まることが大切だ海外の訪問者たちが、日本の住まい文化に触れて感動をする、そんな家が広まることが大切だ

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