渋谷は谷底の街です。町の中心である渋谷駅には、東は宮益坂、西は道玄坂から下ってきます。
周辺の地名にはほかにも、渋谷の坂といえばパルコ近くの「スペイン坂」、渋谷警察署裏の「金王坂(こんのうざか)」。井ノ頭通りもセンター街も渋谷駅から緩やかな登り坂ですし、NHKへ続く公園通りも駅から登り坂です。
「渋谷」という谷に対応するように、「南平台(なんぺいだい)」「桜丘(さくらがおか)」「円山(まるやま)」など、丘や台地を示す地名もあります。そして、丘や高台に谷をつくったのは渋谷川や宇田川などの川です。「宇田川町」の地名もあります。
つまり渋谷は、谷と坂と川と丘の街。その街がどのようにして若者の街に変貌していったのか、その前史ともいえる町と鉄道の歴史をたどってみましょう。
※なお、本稿に使用した地図は、国土地理院およびその前身となる地理調査所、大日本帝国陸地測量部による2万分の1および2万5000分の1地形図の、現渋谷駅周辺に該当する部分です。
渋谷駅の物件を探す街の情報を見る

恵比寿駅から渋谷駅へ向かう外回り電車。この写真のあたりは最初に渋谷駅が開業したところで、1980(昭和55)年まで貨物駅は営業していた。写真左側に見えるのは貨物線関連の施設だが、貨物駅跡ではない
駅の開業は集落から離れた地に
渋谷駅は、1885(明治18)年、山手線の前身である日本鉄道品川線(品川~赤羽間)の開通時に設置された駅です。
品川線について、開業前に予定されていた駅は、南から品川、目黒、渋谷、新宿、目白、板橋、赤羽の各駅で、品川は東海道方面の鉄道との接続を、赤羽は高崎・東北方面との接続を目的とした駅。それ以外の各駅は、江戸時代以来の主要街道との交点ということで計画されました。
つまり、目黒(目黒通り)、渋谷(大山街道)、新宿(青梅街道・甲州街道)、目白(目白通り・所沢街道)、板橋(中山道)の各街道です。
江戸時代から往来があった主要街道沿いであれば、鉄道の利用者も期待できますし、何よりこの当時、日本鉄道が考えていた「江戸時代以来の人力による街道の荷物輸送と鉄道による大量高速の荷物輸送の接続」には、まさにぴったりといえるでしょう。
しかし渋谷駅は、大山街道からは幾分離れた場所に開業しました。いったいなぜなのか、まずはそのあたりを探ってみましょう。
1891(明治24)年、品川線開業から6年後の地図によると、「渋谷停車場」(のちの渋谷駅)は大山街道からはかなり南に設けられているように見えます。
現在の渋谷駅前・スクランブル交差点からは約500m南側。大山街道沿いには「宮益町」と「道玄坂町」、二つの集落が存在しますが、二つの集落を避けて集落と集落の間に鉄道を通しているのが分かります。
品川線は、計画段階では道玄坂上のあたりに停車場を設けるつもりだったのではないかと思われます。品川駅付近が標高2m前後。現在の山手線内の標高最高地点は新宿~新大久保間の42m地点。
このような標高差のある土地に線路を通すため、海岸近くで標高の低い品川から、目黒・行人坂下(目黒不動付近・標高10m前後)~渋谷・道玄坂上(標高30m前後)~新宿・新宿三丁目付近(標高35m前後)と、このように少しずつ標高を上げていく、というルートを想定していたのではないでしょうか。
しかし実際には、目黒の行人坂下付近で激しい反対運動に遭い、目黒駅の場所は行人坂下ではなく、行人坂上(標高30m前後)に変更されました。
この場所は、目黒川の氾濫原である上大崎のあたりからだと、1kmあたり15mの高低差(15パーミル)の急勾配となります。当時の機関車で登れない数字ではありませんが、輸送効率の低下は否めません。
そこで、行人坂上の山頂部を10mほど掘り下げて切通状の空堀とし、堀底に線路を敷くことで、目黒駅の標高を下げました。これにより上大崎方面からの高低差は1kmあたり5mに低減されました。目黒駅は現在もこの切通しの堀底に位置しています。
渋谷駅の物件を探す 街の情報を見る
道玄坂でも反対運動、さらに宮益坂も避けて渋谷駅を建設
目黒駅は、反対運動の結果、行人坂上につくられることになりましたが、渋谷駅の予定地である道玄坂周辺でも鉄道建設に激しい反対運動があったようです。確証はありませんが、測量済みのエリアの杭を引き抜く、工事予定地区に大量の人ぷんをまき散らすなど、激しい反対運動があったとする説もあります。
道玄坂は江戸時代から町場として成立しており、1713(正徳3)年に「道玄坂町」として江戸町奉行支配地となっています。江戸時代、江戸と周辺では、集落の主たる産業が農業や漁業など第一次産業だと「村」、人口密集地で主産業が商工業など第二次・三次産業だと「町」と呼び、「村」は代官支配地、「町」は町奉行支配地となっていました。
ということで、道玄坂町は町奉行支配地ですので、江戸時代から街道沿いに家が立ち並ぶ場所だったことが分かります。こうした状況は東側の宮益坂沿いの宮益町も同様で、大山詣での人々が相手の茶店などもあって、にぎわいました。
宮益町も道玄坂町も往来を仕切ってきた町として歴史があったということです。鉄道がなくとも町として栄えていた歴史が180年あまりあったわけで、それだけに住民側も鉄道という新しい現象を受け入れられなかったのでしょう。
こうしたことから、鉄道の敷設は道玄坂町でも宮益町でもなく、両町の間、宮益坂下付近に決まりました。しかし宮益町の住民が宮益町近くへの停車場(駅)の建設を嫌がり、停車場は街道からも市街地からも離れた場所に追いやられる結果になったようです。
反対運動のなかでの鉄道敷設だったため、開業当初に優先されたのは、工事のやりやすさや、駅の建設にあたって障害が少なくなることであり、立地や利便性などは二の次だったということでしょう。
こうして開業にこぎつけた日本鉄道品川線は、高架ではなく地上を走る鉄道でした。したがって、大山街道との交差は地上で(踏切で)交差していました。とはいえ、街道筋から遠い場所に駅があることは大きなハンデだったようです。
開業した年には1日の乗車客数0という日があったようですし、街道筋から離れた貨物取扱所は馬子や人足など街道輸送の関係者からは、かなり不評だったと思われます。
ターミナル駅へと歩みはじめる
1911(明治44)年の地図には、1907(明治40)年に開業した玉川電気鉄道(玉川電鉄、通称玉電。現在の東急田園都市線の前身)の路面電車が掲載されています。
道玄坂上の方から現在の国道246号に沿って坂を下ってきて、現在の渋谷マークシティのあたりでほぼ直角に右カーブし、山手線に沿って300mあまり南進して終着しています。
日本鉄道品川線は1906(明治39)年に国有化され、1909(明治42)年には山手線と名称が変更されます。また、山手線に並行して貨物の引き込み線があるのが分かります。

天保年間(1830~1844)、歌川広重「東都名所 高輪之夕景」(部分)。画面右側に複数の大八車がとめられている。手前中央には大八車を牛につないで荷を運ぶ人物がいる。左には荷を運ぶ馬に人が乗っている様子が描かれている。いずれも江戸時代には一般的な荷物輸送の方法で、大八車は明治以降も、かなり長い間利用された
宮益坂下からは渋谷川に沿って道ができています。渋谷駅の利用者、とりわけ荷物輸送の人々からは、大八車(だいはちぐるま:江戸時代から広く普及していた荷車)や荷物を運ぶ馬が、余裕をもってすれ違える幅の広い道路が求められるようになったということです。
道路ができたことによって、こうした輸送に従事する労働者を相手に食事や酒を出す店も増え、「宮益町と道玄坂町だけの街」だった渋谷の街が、さらに広がりを見せたのです。
渋谷駅の物件を探す 街の情報を見る
線路の高架化とホームの拡張
1931(昭和6)年の地図では、渋谷駅が少しだけ大きく表示されています。
この時代にいたるまでの出来事を見ると、大正の末期(1925年)ごろに、山手線は、それまでの貨物線と旅客輸送の電車線の線路の共用をやめ、貨物専用線と旅客専用線に分ける複々線化を行っています。
また、これと前後して山手線電車が6両編成となっています。これにともなって、ホームが6両の電車に対応できるように拡張されました。
この複々線化に先立って1920(大正9)年、渋谷駅北側は高架化され、宮益坂下の踏切が廃止、立体交差化されました。高架化に伴って、駅の場所は少し北側に移転しています。
渋谷駅が当初の予定通りの道玄坂上に新設できていれば、行人坂上の目黒駅(標高20m前後)~道玄坂上(標高30m前後)~原宿周辺(標高35m前後)のルートは、なだらかな登り勾配になったはずでした。しかし、渋谷駅は標高15m前後の渋谷川沿いにつくられました。
このため目黒駅~渋谷駅で下り勾配となり、渋谷~原宿が急勾配を登るというルートになっていましたが、渋谷駅の高架化によって、原宿方面への急勾配をいくぶんか緩和することになりました。
地図を見ると、踏切がなくなったことで宮益坂下の道幅が広げられてロータリーのような状態となり、ここに、宮益坂上から東京市電(路面電車)が接続してきています。
なお、この年、東京横浜電鉄東横線(現在の東急東横線)の渋谷駅が開業していますが、ここに掲載した地図にはまだ反映されていません。
現在地に駅が移転、さらにターミナル化が進む
1947(昭和22)年の地図では、渋谷駅周辺は大きな変貌を見せています。駅は現在の渋谷駅南口のあたりに移転しました。この移転は、旧駅の川べりにあって拡張工事の余地が少ない状況を改善する、ということのようですが、国鉄(現在のJR)としても大山街道の近くに駅を設けたかったという意図があったと思われます。
私鉄では帝都電鉄(現在の京王井の頭線)と、東京横浜電鉄から改称した東京急行電鉄東横線(現在の東急東横線)が開業して渋谷へやってきています。
こうして渋谷駅のターミナル化が進んだ背景には、東急グループの躍進があります。池上電気鉄道(のちの池上線)、目黒蒲田電鉄(のちの目黒線)、東京横浜電鉄(のちの東横線)など、複数の鉄道会社が合併して誕生した東急電鉄は、多角的に事業を興すことで沿線と鉄道会社の発展を進めてきました。
まず、買い物客の誘致。ターミナルである渋谷駅に東横デパートを建設し、沿線から渋谷への利用客を誘致しました。
次に沿線の住宅開発。たとえば、渋沢栄一の「田園都市構想」にもとづいた「田園調布駅」に代表されるような各沿線の住宅開発を行い、1923(大正12)年の関東大震災で被災した人々の住宅を郊外に誘致、そして通勤のための利用客を増加させました。
沿線への大学誘致も実行しました。東横線日吉の慶應義塾大学、大岡山の東京工業大学などは、東急グループによる土地の無償提供や等価交換といった条件があって、関東大震災で被災した大学が移転して誕生したキャンパスです。
これにより、通勤客による「朝は上りが混雑、夕方は下りが混雑」という私鉄沿線特有の客の流れとは逆の、「朝は大学に向かう通学客で下り電車が、夕方は都心に戻る通学客で上り電車が混雑」といった状況を生み出そうと考えたのです。
デパートによる繁華街としての魅力、プラス大学の誘致で学生が増加。渋谷が若者の街となる、その芽生えは昭和初期にはすでにあったのです。
渋谷駅の物件を探す 街の情報を見る
昭和の後半に現在の渋谷の原型が完成
1967(昭和42)年の地図を見ると、駅の東西両側に駅前ロータリーができており、現在の渋谷駅の原型が完成しているのが分かります。地下鉄銀座線が宮益坂方面からやってきており、東急東横線、玉川電鉄、京王井の頭線、東京市電(路面電車)が連なるターミナルになっています。
また、国道246号が山手線を越える立体交差も完成しており、モータリゼーション(日常生活において自動車の利用が普及すること)も進んでいることが分かります。玉川電鉄や東京市電といった路面電車は、こうしたモータリゼーションに追われる形で、やがて姿を消していくのです。
渋谷駅周辺では、川が地図上から姿を消しました。渋谷駅より上流部の渋谷川と宇田川が暗渠化されたことによるものです。川は暗渠化され見えなくなりましたが、それでも渋谷の街には影響を与えていました。
たとえば、駅に接続する駅ビルのような東急百貨店東横店(現在は解体されて存在しない)には、東館だけ地下フロアがありませんでしたが、これは東館地下に暗渠化された渋谷川が流れていたためです。
また、西武百貨店のA館とB館の間に地下連絡通路がなく、地上部分でのみ連絡通路があるのも、地下に宇田川があって連絡通路を設けることができなかったからです。
ということで、ここまでは渋谷の変遷を、駅を中心に述べてきました。渋谷は2024年現在も変化を続けています。その中心となる渋谷駅は、まさに再開発工事のまっただなかにあり、少し見ないうちに全く異なる姿を見せてくれます。
次回もこの「谷と坂と川と丘の街」の変遷をテーマに、令和の時代を迎えた現在も変わり続ける渋谷の駅と街について紹介したいと思います。

工事中の渋谷駅を発車する山手線外回り電車
更新日: / 公開日:2024.09.27















