東日本旅客鉄道(JR東日本)公表のデータ「各駅の乗車人員」によると、2022年度、全国の駅のなかで乗降客数ナンバーワンの駅が新宿駅です。1日の平均乗客数は60万2,558人。
この数字はJR東日本の利用者数のみをカウントした調査。新宿駅は小田急線、京王線といった私鉄や地下鉄の駅もあり、これらの利用者数を合わせれば利用者数はもっと増えます。
コロナ禍で多くの人が外出を控え、その後はリモートワークなどの普及で駅の利用者は減少しました。そんななかでも日本最大の乗客数を誇っているのですから、新宿駅はまさしく大都会東京を象徴する駅といっていいでしょう。
一方で新宿の街の歴史をたどると、江戸時代には宿場町として栄えましたが、駅がつくられた場所は宿場から離れていたため、駅開業当初は閑散とした状況でした。が、駅の誕生とともに街が発展していきました。まさに駅が街をつくったのです。
そんな新宿駅と街の歴史を解説していきましょう。
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新宿駅のやや北側が、山手線のなかで最も標高が高い標高41m地点。ここで中央線と立体交差する
開業時は貨物輸送主体の駅
新宿駅が開業したのは1885(明治18)年3月1日。日本鉄道品川線(品川-赤羽間)の開通に伴って開設されました。
開業当初、乗客数は1日50人程度で、乗客ゼロの日もあったといいます。現在の新宿駅の姿からは、想像もつかないほどの寂しい駅だったわけですが、これはこの時期に開業したすべての駅に当てはまることです。
開業当時の新宿駅付近は、東京市街の西の外れ。品川-赤羽間で1日わずか3往復しか運行されない日本鉄道品川線の中間駅でした。そもそもこの時代、鉄道の開業は旅客を見込んだものではなく、貨物をより大量に、より迅速に運搬する、そうした貨物輸送主体の鉄道だったのです。
日本鉄道品川線の開業は、高崎と上野を結ぶ日本鉄道本線と、新橋-横浜の官営鉄道線を連絡させるためのものでした。北関東方面からの物資を東京へ輸送する、なにより高崎から程近い国営企業「富岡製糸所」で生産した生糸を横浜まで運んで、船に積んで輸出する、私鉄であっても「外貨獲得」という国策に従って営業していたのです。
当然、駅の立地もそうした国策が影響していました。江戸時代からの物資輸送の要であった主要街道が、鉄道線と交わる所に駅が設けられたのです。具体的には、目黒駅(目黒通り)、渋谷駅(大山街道)、新宿駅(青梅街道と甲州街道)、目白駅(目白通り)、板橋駅(中山道)が挙げられます。江戸へ物資を輸送していた街道沿いに駅を設けるということは、郊外から運んできた物資を鉄道に載せて各地へ輸送する、ということでした。
新宿駅で鉄道に載せ替えていたのは、東京郊外で生産された茶葉や炭など。実のところ茶葉は、明治初期から昭和の半ばまで日本の主力輸出品でした。茶葉は加工の方法によって日本茶にも紅茶やウーロン茶にもなります。そうしたことから、日本から欧米向けの輸出品として、紅茶の茶葉は有力な商品となっていったのです。
鉄道が開通して貨物の輸送がそれ以前と大きな転換を見せたとしても、駅までその貨物を運んでくるのは人の手です。ということで、郊外の村々から数時間をかけて新宿駅まで貨物品を運んできた労働者たちは、駅で荷物の受け渡しが済めば業務が終了ということで、ひと息つこうと盛り場まで足を運んだことでしょう。
鉄道開業以前の盛り場は、現在の地下鉄新宿御苑前駅付近。そこまで歩かなくても、ということでやがて駅の周辺にも店が営業するようになり、それが駅近くの商店街の始まりにつながっていったのでしょう。「駅ができて周辺に街がつくられていく」ということの始まりはそうしたことだったと思われます。
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現在からは想像もできない片田舎のひなびた駅だった
明治時代の新宿の様子は、作家の田山花袋(たやまかたい)が伝えています。田山花袋は1906(明治39)年に現在の西新宿、文化服装学院の付近に転居しています。田山花袋はそれまで本郷付近に住んでいましたが、編集者などの来訪が多く悩まされていたようです。
随録『東京の三十年』のなかで「来客……ことにつまらない雑誌好きの来客に妨げられるに堪へない。何うかそれを免れたい。さう思って、郊外の畑の中に、一軒ぽっつりとその新居を構えた。(中略)場末の町の乗合馬車の喇叭(らっぱ)の音、霜解(しもどけ)のわるい路、それでも私は社から帰って後の時間を書斎に過ごすことを得たのを喜んだ」と記しています。
この文章から、新宿駅からさほど遠くはない場所が、品川線の開業から20年以上過ぎても閑静な郊外の地であったことが読み取れます。何より驚くのは、田山花袋が新宿の駅を「場末」と表現していること。明治末期でも、新宿は「場末」と表現される街だったのです。
本来の「新宿」は現在の新宿御苑の辺り
小さな木造駅舎の前に茶店が何軒か立っているくらいで、辺りは原っぱや茶畑が広がる田舎町。これが実は、開業当時の新宿駅東口付近の状態です。駅が置かれた場所も本来の「新宿」からは離れた場所でした。
当時、新宿でもっとも大勢の人でにぎわっていたのは、江戸時代の宿場町に端を発する「内藤新宿」の辺りでした。現在の新宿三丁目の交差点から四谷寄り、地下鉄新宿御苑前駅の辺りが内藤新宿の中心地。現在の新宿三丁目交差点は甲州街道と青梅街道の分かれ道に当たる「追分」だったため、人の流れが活発だったことが想像できます。
内藤新宿は新宿の地名のルーツになった宿場です。江戸五街道のひとつ、甲州道中(甲州街道)において、日本橋を出立して最初の宿場が内藤新宿でした。宿場の成立は江戸時代中期の1699(元禄12)年。江戸五街道の宿場としては、かなり後発です。この宿場が後発だったことには理由があります。
内藤新宿の宿場が成立する以前の甲州街道では、日本橋から最初の宿場は高井戸でした。日本橋-高井戸間の距離は4里12町(約17km)。この距離は、ほかの主要街道で日本橋から最初の宿場までと比較すると、異様に長いのです。
たとえば、東海道の日本橋-品川は2里(約7.9km)。中山道の日本橋-板橋は2里18町(約9.8km)。日光街道の日本橋-千住は2里8町(約8.7km)。いずれも、甲州街道日本橋-高井戸間の半分程度です。
当時、宿場間を頻繁に往来していたのは馬子など運送業に関わる労働者たち。その労働者たちにとって、「次の宿場まで」が8km程度なのか、17kmもあるのかでは大きな差があります。江戸幕府もこの点を鑑みて、日本橋-高井戸の中間地点に新しく宿場を設けることになりました。そうして「新しく」設けられた「宿場」が、「新宿」なのです。東海道の品川や、中山道の板橋、日光街道の千住に比べると100年近く遅れての宿場開設でした。
宿場の用地は、それまで徳川譜代の大名である内藤家の屋敷地。その北側を幕府が召し上げて宿場町を新たに造営したため、宿場の名称は「内藤新宿」となりました。ちなみに屋敷の南側は残り、今日の新宿御苑となっています。
内藤新宿は後発の宿場だけに、宿場経営には厳しいものがあったようです。そのため、宿場の経営者たちは飯盛女(めしもりおんな:遊女のこと)を旅籠(はたご)に配して誘客を図りました。甲州街道の宿場であった新宿は、こうして経営されてきました。
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甲武鉄道も開業、発展の第一歩となる
新宿駅をめぐる鉄道では、品川線の開業から4年後の1889(明治22)年4月、新宿と立川を結ぶ甲武鉄道(現在の中央本線の一部)が開業。同年8月には八王子駅が開業し、新宿-八王子間が開通しました。
日本鉄道品川線に加えて甲武鉄道という鉄道の接続駅となった新宿駅は、それ以降、変貌を遂げていきます。甲武鉄道の延伸や市電の開通などで駅の利用者が増え、1906(明治39)年の拡張工事では、甲州街道追分への最寄り口として新たに駅舎が建てられ、新しい駅舎は「甲州街道口」(現在の南口)と呼ばれました。
ちなみにこの年は、日本鉄道と甲武鉄道が鉄道国有法によって国有化されたという、鉄道史上の大きな出来事もあった年であります。
西口を変貌させた淀橋浄水場
この間、新宿、さらには東京の歴史を語るうえでも重要な出来事がありました。1898(明治31)年12月、当時の東京府豊多摩郡淀橋町(現在の西新宿、北新宿)に淀橋浄水場の主要設備が完成し、近代水道の通水が始まったのです。
明治維新を迎え、急速に文明開化が進められていた日本でしたが、人々の暮らしの糧である飲料水の衛生面での整備は遅れていました。当時の飲料水の多くは、地上を流れる玉川上水などの河川の水を未処理のまま各世帯に給水していたのです。
そして、1886(明治19)年、東京にコレラが大流行し、1万人近くが死亡するという惨事が起こります。これが引き金となって「安全な上水道」の整備が進められることになり、1892(明治25)年から、東京で近代的な水道設備の建設計画がスタートしました。それが淀橋浄水場です。
7年間の工事期間を経て完成した淀橋浄水場は、玉川上水の水を引き入れて浄水処理をし、密閉状態の導水管を使って当時の東京市西部と西部郊外一帯に給水されました。
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次々と開業する私鉄、変貌する駅周辺
新宿駅は、大正時代以降、多くの私鉄が乗り入れるようになりました。1915(大正4)年の京王電気軌道(現在の京王電鉄)開業、1927(昭和2)年の小田急電鉄の開業などで私鉄との接続駅へと変わっていった新宿駅。
1923(大正12)年の関東大震災も人の流れを変えました。被災して家を失った人たちが、中央線、小田急線、京王線の沿線などに家を求めて、郊外の人口が増えていき、小田急、京王など私鉄線は新宿が終着だったため、結果的に新宿駅の利用客も増え続けることになったのです。
戦後の復興と発展
第二次世界大戦後の間もない頃の新宿は闇市からの出発でした。しかし、その後の発展は目まぐるしいものがあります。
1952(昭和27)年に西武鉄道が延伸して西武新宿駅が誕生。1959(昭和34)年には地下鉄丸ノ内線が開通。1964(昭和39)年に東口に駅ビル(旧マイシティ、現在はルミネエスト新宿)が完成し、駅周辺は繁華街として急速に発展していくのです。
同じ年の秋には京王百貨店が開店。さらに1967(昭和42)年には小田急百貨店が新宿駅と直結するビルで営業を開始。
こうした新宿駅と新宿の街の変化は、戦後日本の復興、高度経済成長期の流れとも重なります。130年前、のどかな田舎の駅だった新宿駅は、こうして今日の巨大ターミナルへと変わっていったのです。
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1965年、淀橋浄水場が廃止され、新宿駅西口エリアが大きく変貌
1965(昭和40)年、淀橋浄水場がその機能を東村山に移転して廃止されました。浄水場は生活の基本インフラですが、東京の街が拡大していったため、より多くのエリアに給水できるように上流部への移転が求められたこと、そして都心のターミナル駅の駅前に広大な面積を占める浄水場があって駅前が閑散としていたため、再開発が望まれていたのです。
淀橋浄水場が67年の歴史に幕を閉じたその跡地は新宿副都心として、新たな歴史が刻まれることになります。

超高層ビル群は新宿のシンボル
1971(昭和46)年、京王プラザホテルがオープンし、その後も住友ビル、三井ビルといった高層ビルが次々に登場。1991(平成3)年には東京都庁が有楽町から移転し、世界でも屈指の超高層ビル街となりました。
この超高層ビル街はその後の新宿を、というより東京を象徴する光景となっています。
変わり続ける新宿駅

バスタ新宿と、新宿駅甲州街道口
新宿駅は巨大ターミナルとなった後も、変わり続けることをやめません。「新宿駅はいつ行っても何かの工事をしている」という印象です。
近年の新宿で大きな出来事だったのは、長距離バスのターミナルであるバスタ新宿の誕生とそれに伴って連絡口を新設したこと、南口から甲州街道を挟んだ向かい側に甲州街道口が開設されたことでしょうか。
また、西口改札と東口改札に分かれていた北側の通路を東西自由通路とし、改札口は新しい自由通路へ出るための改札口に統一したことも、大きな変化のひとつです。

2015年の新宿駅西口(筆者撮影)。小田急本館がある
そして今、新宿が直面している大きな変化は、西口の再開発です。
すでに2022年から工事が始まり、小田急百貨店本館の閉館、新宿地下鉄ビルと小田急百貨店本館、新宿ミロードなどの解体工事が進められており、2029年までに地上48階・地下5階・高さ約260mの超高層ビルが建設される予定です。

現在の新宿西口広場。小田急本館は解体され東口のビルが見えている
また、京王百貨店・ルミネ1を含む新宿駅西南エリアも、着工時期は未発表ですが、大規模再開発が予定されています。
現在の甲州街道・西新宿一丁目交差点付近から青梅街道大ガードの手前までは駅に沿って南北にペデストリアンデッキが整備され、このデッキは線路をまたいで東口へと通じるようになります。
さらに甲州街道を横断する国道デッキが整備され、新宿サザンテラス、バスタ新宿方面への行き来についても利便性が高まります。

新宿西口に建つ予定の地上48階のビル。小田急百貨店もこのビルに入る(小田急電鉄/東急不動産)
現在の西口駅前広場は、地下へのロータリーなど自動車中心の空間構成となっていますが、これを人中心の駅前広場に変更するといいます。
このようにかなり大規模な再開発であり、計画の完成は2046年とされています。つまり、少なくともあと20年近く新宿駅の工事は継続していくということです。
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西口高層ビル街は淀橋浄水場の跡
西口の超高層ビル街は、ほかの土地とは異なる特徴があります。それは、ビルの多くが地上から数メートル下がった土地に建てられていることです。
これはかつての貯水池プールの跡にビルが建てられているためで、地上から掘り下げた貯水池プールの底にビルを建て、貯水池と貯水池の間の通路だった部分が現在の道路に生まれ変わった、ということです。
ですから、超高層ビル街の街路は碁盤目状になっていて、しかも貯水池プールの底と、本来の地上の高さとに応じて道路が設けられたため、立体交差となっているのです。

住友ビルの敷地に保存された、淀橋浄水場で使用されていたポンプの蝶形弁
新宿住友ビルの敷地にはかつて浄水場の送水管に使用されていた蝶形弁(ちょうがたべん)が保存されています。

新宿中央公園に残る淀橋浄水場の展望台
また、新宿中央公園内の富士見台は、淀橋浄水場があったときに貯水池を見渡すことができるようにつくられた展望台だった所で、実際に富士山が見えたのでこの名があります。
駅から東口へ。江戸時代の盛り場の名残を訪ねる

下に示した広重の浮世絵とほぼ同じ場所の現在
江戸時代、「内藤新宿」の宿場町は、信濃高遠藩内藤家の屋敷地の北半分を利用して整備され、内藤家屋敷は南半分だけとなりました。このとき境界線のような役割となったのが玉川上水です。
玉川上水は江戸時代の上水道。多摩川上流の羽村で取水され、武蔵野台地に掘削された約42kmの運河を流れ、四谷三丁目付近にあった水番所でごみや土砂が取り除かれ、暗渠(あんきょ)となって神田や日本橋方面へ給水していました。
その玉川上水が地上を流れる最後の区間が、新宿付近です。現在の新宿御苑の北側に沿って流れる上水は、春は桜の名所として歌川広重の浮世絵にも描かれました。

歌川広重 名所江戸百景「内藤新宿 玉川 堤の桜」
この浮世絵に描かれている家並みが、内藤新宿の宿場の家並み。前述のように飯盛女が多かった宿場なので、建物の2階から桜並木を眺めているのはそうした女性なのかもしれません。

左/太宗寺の奪衣婆像 右/正受院の奪衣婆は「綿のおばば」と呼ばれ親しまれた
その宿場の女性たちに信仰されていたのが、近くの太宗寺(たいそうじ)や正受院(しょうじゅいん)にまつられている「奪衣婆(だつえば)」です。
奪衣婆は、三途の川の渡守(わたしもり)で、亡くなった人を渡し舟に乗せて対岸、すなわちあの世へ送り出す役割の老婆です。このとき亡者の衣類を剝ぎ取ることから「奪衣」婆と呼ばれました。
この奪衣婆が遊女たちの信仰の対象になったのは、奪衣婆が亡者の着物を奪う、つまり相手の着物を脱がせるから。遊女は客が着物を脱いでくれなければ商売にならない、ということのようです。

日本最大級、高さ5m近い閻魔大王像
太宗寺では、奪衣婆像に並んで都内最大という閻魔(えんま)大王像もまつられています。

江戸六地蔵のひとつである銅造地蔵菩薩坐像(都指定有形文化財)
また、この寺には江戸六地蔵のうちの一体が安置されています。
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更新日: / 公開日:2024.07.19

















