現在の新橋駅が開業したのは1909(明治42)年12月16日のこと。

それ以前、鉄道唱歌で「汽笛一声新橋を」と歌われた最初の新橋駅は1872(明治5)年9月12日開業しました。この最初の新橋駅は、現在の新橋駅とは別の場所にありました。

鉄道開業当時の新橋駅は、事情があって、現在の新橋駅の場所に移転しているのです。今回は、新旧2つの新橋駅の歴史について見ていきましょう。

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2024年3月現在の新橋駅は複数のホーム全体を大屋根が覆う独特の構造

日本の鉄道は、1872年5月7日に品川~横浜間で試験的に運転、仮開業されたのが実質的な始まりですが、同年9月12日の新橋~横浜間の正式開業をもって、鉄道の始まりとされています。

 

なお、1872年9月12日は太陰暦(旧暦)の表示で、これを現代の暦(グレゴリオ暦)に改めた1872年10月14日が、日本に鉄道が開業したとする鉄道記念日となっています。

 

1897(明治30)年、大日本帝国陸地測量部『麹町區』より。新橋駅には「停車場」の表記がある

鉄道開業時の新橋駅は、現在の汐留の地に新橋停車場として建設され、東海道線の起点駅でした。

 

その後、東京の鉄道網の発達に伴って1914(大正3)年12月18日に東京駅が誕生。以降、東京駅が東海道線の起点となり現在に至ります。

 

1911(明治44)年、大日本帝国陸地測量部『東京南部』より。かつての「停車場」は「しんばし」と表記され、現在の新橋駅の場所には「からすもり」駅が存在する

この延伸の前提として、1909年12月16日、現在の新橋駅の場所に烏森(からすもり)駅が開業します。

 

烏森駅はしばらくの間、「烏森」の名称を使用していましたが、5年後の東京駅の開業に伴って「新橋」と駅名を変更し、現在の新橋駅となったわけです。

 

また、このとき、鉄道開業時に建設された新橋駅は汐留駅と改称し、貨物駅となりました。

 

東海道線が東京駅まで延伸する際に旧新橋駅が使用されなかったのは、新橋停車場の場所に理由があったと考えられます。

 

仮に旧駅舎に工事を行って線路を延伸した場合、延伸した線路を敷設する予定地は旧東海道沿い、すなわち現在の銀座通り(中央通り)沿いになります。この地域は江戸時代から市街地化が進んでいたため、多くの住民が住み、レンガ造りの街並みが完成していました。

 

そのような土地を買収して線路を敷設し、鉄道を通すというのはかなり困難な事業となることが予想されました。つまり、最初の新橋駅から東京駅方面への延伸は、当初から現実的ではないと判断されたわけです。

 

1897年大日本帝国陸地測量部『麹町區』に筆者が作図

そこで、新橋停車場から新たな場所に新橋駅を建設して、そこから有楽町駅~東京駅に延伸する、という方法が考えられました。この新ルートとして注目されたのが、旧江戸城の外堀を埋め立てて線路を新設するルートです。

 

この場合、旧江戸城外堀以外の部分は、旧松平家の屋敷と屋敷前の広い道路があるだけという状況であったことから、用地の確保も工事も旧東海道沿いのルートに比べると、比較にならないほど、たやすいと考えられました。

 

これが大きな理由となって、新橋駅は旧駅から新駅へと移転することになったと考えられます。

 

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新設する新橋駅は、有楽町駅と並んで、日本で最初の高架駅として建てられることになりました。背景には、新橋から延伸して上野駅へと接続させる、という計画があったのです。

 

新橋駅の周辺は、江戸時代初期に埋め立てによって陸地化した土地であり、標高は高くありません。新橋駅烏森口の烏森神社の標高は2.98m です。これに対し、上野駅は上野台地の南端である上野の山の際となり、現在の上野駅公園口改札の標高は17.13m です。

 

新橋~上野間の距離は約7.7 kmですから、水平距離1kmあたりの標高差は1.9m ほどとなり、明治時代の電車の性能では厳しいものがありました。上野駅はさらに標高が高い田端から南下してくるため、上記の数値よりも低い場所には造れません。

 

ということで、新橋駅から延伸する際に少しずつ高度を上げていくことになりました。こうした事情から、新橋駅からの延伸区間は高架化が求められ、その結果、日本最初の高架鉄道の誕生となったのです。

 

これまで紹介してきたように、現在の新橋駅は日本最初の鉄道駅そのものではありません。しかし、「新橋」という駅名は日本最初の鉄道駅としてあまりにも知られています。

 

鉄道唱歌の碑とD51機関車の動輪

こうした背景から、現在の新橋駅の東側、ゆりかもめとの乗り換え口付近には、蒸気機関車の模型が載った石碑が設置されました。

 

これは鉄道唱歌の碑。1957(昭和32)年、わが国の鉄道開通85周年と、作詞者の大和田健樹氏の生誕100年を記念して建てられたものです。

 

ちなみに、その隣にある動輪はD51型蒸気機関車のもので、総武線と横須賀線の直通運転が開始されたことを記念して、1976(昭和51)年に設置されました。

 

鉄道唱歌は「汽笛一声新橋を~」で始まるおなじみの唱歌。児童の地理学習のためにつくられた曲で、沿線の地理、歴史、伝説やその土地の名産品などの紹介を織り込んだ歌詞になっています。

 

最初に発表されたのは1900(明治33)年。このときは東海道を新橋から神戸まで66番にわたって歌いました。東海道の次は「山陽・九州」68番、以後「奥州・磐城」64番、「北陸」72番、「関西・参宮・南海」64番、「北海道」40番と続きました。なぜか「南海」だけ私鉄線が歌われています。

 

日比谷側にある新橋駅西口広場は通称「SL広場」と呼ばれ、SLがモニュメントとして設置されています。SL広場はニュース番組などの街頭インタビューでもおなじみのスポットで、新橋駅前の代名詞ともいえる場所です。

 

ここにあるSLはC11-292号。1945(昭和20)年2月11日、日本車輛が製造したもので、山陽本線の姫路機関区に配属となり、中国地方のローカル線、播担線や姫新線などを走り、走行距離は108万3,975kmに及びます。鉄道100年を記念して、1972(昭和47)年に港区に無償貸与されました。

 

SL広場の蒸気機関車。基壇の麓には高輪築庭をイメージした石垣が再現されている

SLを設置した基壇の麓は石垣になっています。この石垣は、2019(平成31)年に品川駅改良工事の際に発見された高輪築堤の石垣をイメージし、鉄道開業150年の節目を迎えた2022(令和4)年に再現されました。

 

日本最初の鉄道は、高輪エリアでは海上に堤と石垣を築いて線路を敷きました。この歴史的事実を踏まえ、日本最初の鉄道駅にふさわしく高輪築堤の上を走る機関車をイメージしたということなのでしょう。

 

SL広場の付近ではガードレールや街灯も動輪をイメージしたものになっている

また、広場付近の歩道のガードレールや街灯は動輪をイメージしたものになっています。これも鉄道発祥の地にちなんでデザインされたもののようです。

 

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2024年3月現在の新橋駅ではホーム全体を覆う大屋根を整備中

1909年、日本初の高架駅として誕生した現在の新橋駅ですが、前述したように開業当時の駅名は「烏森」でした。その後、1914年12月、東京駅の開業に合わせて新橋駅と改称しました。

 

開業当時の烏森駅は東京駅をほうふつとさせる赤レンガ、ゴシック建築のものでしたが、関東大震災で被害を受けて解体。その後、古レールを使ってホーム上屋が復興されました。2024年3月現在、上屋は大屋根に替わりつつあり、古レールによる柱と梁はほぼ撤去されています。

 

烏森駅開業時にホーム上屋を支えていた鉄柱。歴史を伝えるモニュメントとして保存されている

ただ、烏森駅開業当時の柱は残り、保存されています。駅の北改札を出て正面にモニュメントのようにして立てられています。この柱はかつて3・4番線ホーム階段を支えてきた柱で、「明治四十一年一月 株式会社東京堅鐵製作所○○」の文字が読み取れます。

 

横須賀線地下ホームへの乗り換え通路を飾るステンドグラス。蒸気機関車、明治の貴婦人、レンガ造りの旧新橋駅、鉄道建設にあたった工部省の「工」の文字などが見てとれる

ほかにも、開業からの歴史をモチーフにしたステンドグラスや、レトロな意匠の階段などに駅としての歴史を感じます。

 

乗り換え階段に見られるレトロなデザイン

新橋駅浜松町寄りのレンガアーチは、アーチ間が狭くアーチの角度が急

現在の新橋駅は開業当時から高架駅で、レンガ造りの連続アーチの上に線路が設けられていました。

 

新橋駅から東京駅にかけて続くレンガ造りの高架建築は、この場所に鉄道が敷設された明治の創業当時のものです。これは日本に現存する最古の高架鉄道橋であり、それが現在も現役で使用されていることになります。

 

現在は、そのアーチの下には飲食店などが立ち並びにぎわいを見せています。その多くは居酒屋などで、「新橋のガード下飲み屋街」のルーツはこのアーチ下です。

 

かつてアーチ下は単なる通路でしたが第二次世界大戦敗戦後の混乱期、屋台の飲み屋が「屋根のある場所」としてこのアーチ下に注目し、店を出したのが始まりといわれます。

 

新橋駅有楽町寄りのレンガアーチは、アーチ間がゆったりとしてアーチの角度も緩やか。アーチ間には装飾のサブアーチもある

この高架橋、新橋駅の南と北、あるいは有楽町駅付近とではアーチの間隔が異なっています。

 

有楽町駅の北側(東京駅寄り)では、アーチと次のアーチの径間は8m。しかし、南側では12mと径間が異なっているのです。このため、スパンドレル(アーチとアーチの間)の意匠に違いをもたらしています。

 

この違いは、新橋駅~有楽町駅の周辺が江戸時代初期の埋め立て地だったことに起因し、地盤の強さを考慮して設計されたものといわれています。

 

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烏森神社は都内でも屈指の古社

新橋駅の烏森口を出て、駅前のニュー新橋ビルを左に見ながら右手の路地へ入り、こぢんまりとした飲食店が軒を連ねる通りを奥に進むと、烏森神社にたどり着きます。

 

旧新橋駅の駅名となった「烏森」、そして現在の「烏森口」の由来はこの神社にあるのです。

 

烏森神社は古くは烏森稲荷の名で呼ばれ、伝承によれば、940(天慶3)年、天慶の乱(平将門の乱)に出陣した藤原秀郷が、乱の平定と戦勝の礼に造営したと伝えられています。これは都内の神社としては非常に古く、また、平安時代の日比谷入り江の海岸線を考えるうえで興味深い資料となります。

 

文献的に確実な年代としては、1455(享徳4)年の足利成氏の願文を社宝として保存していることから、中世にはこの付近の鎮守として認知されていたことがうかがえます。

 

烏森の地名は、カラスが群れ住んでいたからでしょう。烏森神社は「椙森(すぎのもり)神社(中央区日本橋)」「柳森(やなぎもり)神社(千代田区神田)」と並んで「江戸の三森」にも数えられています。

 

しかし、ほかの2社は植物名の森であるのに、烏森だけは植物名ではありません。それだけカラスの鳴き声が目立っていたことが想像できますが、カラスが群れるためには一定以上の森林密度が必要です。このことから、かつて烏森神社はそれなりの規模を有する神社だったと思われます。

旧新橋停車場の駅舎を復元

鉄道開業当時の新橋駅(新橋停車場)は汐留駅と改称しましたが、関東大震災で焼失。その後、汐留駅は貨物駅として歴史を歩んでいったものの1986(昭和61)年に廃止されました。

 

そして1991(平成3)年、汐留地区の再開発のための調査の際に、旧新橋駅舎の礎石や旧駅のプラットホームなどが発掘されると、この結果をもとに、「旧新橋駅停車場跡」が国の史跡に指定されました。

 

駅舎とプラットホームの状況もよく分かる

これを機に、昔日の駅舎や旧ホームなどが再現され、地下に埋もれた往時のプラットホームの遺構なども見ることができるようになったのです。

 

0マイル標も復元されている。日本が鉄道の開発においてメートル法ではなくイギリス風のヤード・ポンド法を採用していた名残

再現されたホームの脇には往時のレールが保存され、また0哩(ゼロマイル)標も復元されています。

 

併設の鉄道歴史展示室では鉄道史や旧新橋停車場に関する資料を展示しています。新橋駅は日本の鉄道史を語るうえで、特別な駅であることを実感させられます。

 

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更新日: / 公開日:2024.04.05