有楽町駅は、日本初の高架鉄道プロジェクトによって誕生した駅。このプロジェクトは2度の戦争による中断を経て、発案から20年以上の歳月を経て実現したものです。

工事期間中も土木技術が進化したため、場所によって異なる技術が採用されているのも特徴。駅開業から1世紀あまりにわたって、無数の電車を支えてきたレンガ造りの有楽町駅は、鉄道土木技術の発展史を見せてくれているかのようです。
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明治の開業時のレンガ外壁が残る有楽町駅

明治の開業時のレンガ外壁が残る有楽町駅

有楽町駅は、1910(明治43)年6月25日開業。開業を迎えるまでには、駅の開業計画の発案から20年以上の歳月がかかりました。

 

そもそも、東海道線の始発駅である新橋と、東北線の始発駅である上野を接続させる鉄道を、高架線で開業させる計画は1888(明治21)年には大まかな方向性が決まっていたのです。しかし、問題は山積みでした。

 

たとえば、明治初期に開業した新橋駅は、建設に際してイギリスの技師を招いたため、ロンドン駅などのような終着駅型となっていました。横浜方面からやってきた列車は新橋駅で折り返し、横浜方向へ向かうことを前提にしています。つまり新橋駅は、行き止まりの駅で、さらに先へ進むようにはつくられていません。

 

旧新橋駅跡地に復元された旧新橋駅のプラットホーム。線路は行き止まりになっている

旧新橋駅跡地に復元された旧新橋駅のプラットホーム。線路は行き止まりになっている

そのため、これまでの新橋駅に代わって通過型の駅である「新・新橋駅」を新設し、これに合わせて線路の位置も変更。あらためて建設用地を買収する必要がありました。

 

現地調査などの結果、内務省鉄道庁では煉瓦造連続拱橋(れんがづくりれんぞくきょうきょう)工法で高架鉄道の建設を決定し、1893(明治26)年には敷設工事の免許出願がなされました。なお、連続拱橋とは、アーチの連続で構成する高架橋のことで、現在の有楽町駅周辺に採用された工法です。

 

ところが、1894(明治27)年に日清戦争が始まったことで、すべての工事計画は中断となってしまいます。

 

日清戦争後の1896(明治29)年には、工事の再開が決定。1899(明治32)年から用地買収が始まり、1900(明治33)年から実際の建設工事が始まりました。この段階で、用地買収費用を削減するため、旧江戸城の外堀内に鉄道を敷設工事することが決定しました。

 

地理院地図

左は1897(明治30)年の地理院地図。下方に明治初期に建設された旧新橋駅が「停車場」と表示されている。上方には「有楽町」の地名は見えるが、鉄道や駅は未完成だ。右は1909(明治42)年の図。旧新橋駅は存在するが、新たに「からすもり駅」(後の新橋駅)が誕生。また旧江戸城外堀を利用して線路を敷設、その延長に「有楽町駅」を新設したことが分かる

しかし、日清戦争後の不景気が原因で、工事は再び中断。その後、再開するものの、1904(明治37)年からは日露戦争のため再び棚上げ状態となるのです。そして、日露戦争後の1906(明治39)年、この段階で初めて本格的な建設工事が進捗することになり、そして冒頭に示した1910年の開業を迎えることになるのです。

東京駅から有楽町駅へ向かう山手線電車

東京駅から有楽町駅へ向かう山手線電車

こうして開業した有楽町駅は、山手線の駅ではなく、東海道線の電車運転区間「京浜電車」(現在の京浜東北線の前身)の駅としての開業でした。有楽町駅は開業からしばらくは、横浜方面への京浜電車の始発駅となっていたのです。

 

その後、有楽町駅の北側に「呉服橋駅」(東京駅の前身)が仮開業し、山手線は呉服橋駅から上野駅までを往復する形で運転をしています。このときに有楽町駅は「山手線が停車する駅」となったのです。

 

JRの駅には、鉄道開業時から「所属線」という決まりがあります。その駅がどの路線の駅なのか、いわば駅の戸籍のような制度。これによれば、有楽町駅のスタートは「東海道線の電車区間の駅」としての開業のため、有楽町駅は所属線を東海道線としています。

 

現在も、有楽町駅は「山手線の駅」ではなく、「東海道線の駅」です。しかし、駅開業から現在まで、東海道線の列車がこの駅に停車したことは一度もありません。それでも有楽町駅は「東海道線の駅」なのです。山手線の電車は、東海道線に乗り入れ運転をして、有楽町駅に停車しているということなのです。

 

ちなみに「浜松町」「田町」の両駅も、有楽町と同じポジション。つまり「山手線の電車が停車するけれど山手線の駅ではなく、東海道線の列車が停車しない東海道線に所属する駅」となっています。

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1・2番ホームの東京駅寄り

1・2番ホームの東京駅寄り

有楽町駅は開業後、1923(大正12)年の関東大震災で被災し、その後復興します。その正確な年代は分かりませんが、現在の有楽町駅には、大正末期から昭和初期ごろの復興工事の面影をとどめています。それが1・2番ホーム。山手線内回りと京浜東北線北行きのホームです。

 

古レールを再利用して建材に利用している

古レールを再利用して建材に利用している

まずは、古レールを再利用した柱や梁材。これはホームの複数箇所で見ることができます。

 

垂木にも古レールを再利用。古レール断面の「工」字形が分かる

垂木にも古レールを再利用。古レール断面の「工」字形が分かる

主屋の屋根を受ける垂木(たるき)にも、レールの古材と分かる工字形の切り口が見られます。

 

ただ、最近になって、柱などの鉄骨材を黒色で塗装し、旧来の塗装色のイメージを一新しているので見つけにくいかもしれません。

 

ホームの基礎工事部分に古レンガの構造物が見える

ホームの基礎工事部分に古レンガの構造物が見える

1・2番ホームは計画当初、レンガ造りで基礎工事が行われていました。そのレンガの部分もわずかですが見られます。

 

これを見ると、レンガの基礎を残したまま、現在のホームを上からかぶせるようにしてつくった、と想像できます。現在のホームの下におぼろげに姿を見せるレンガ構造は、まぎれもなく有楽町駅が開業した明治時代の構造物なのです。

 

なお、3・4番ホームは1950(昭和25)年以降に増設されたホームであるため、こうした古材などを利用した部分は見られません。

有楽町駅

 

有楽町駅は開業当時から高架線で、レンガ造りの橋の上に線路が設けられていました。有楽町駅から新橋駅にかけて続くレンガ造りの高架建築は、ここに鉄道が敷設された明治の創業当時のものです。これは日本に現存する最古の高架鉄道であり、それが今も現役で使用されていることになります。

 

このアーチ、有楽町駅の南と北では、アーチの間隔が異なっています

 

有楽町駅の北側(東京駅寄り)では、アーチと次のアーチの径間は8m。しかし、南側では12mと径間が異なっているのです。このため、スパンドレル(アーチとアーチの間)の意匠に違いをもたらしています。

 

連続アーチの上に設けられている有楽町駅。スパンドレルにはメダリオンの痕跡が見られる

連続アーチの上に設けられている有楽町駅。スパンドレルにはメダリオンの痕跡が見られる

有楽町駅の北側のアーチは円弧が小さく、スパンドレルにはメダリオンと呼ばれる装飾が施されていました。現在はメダリオンの大半は失われてしまいましたが、痕跡は分かります。

 

有楽町駅よりもやや新橋駅側では、アーチが低く、スパンドレルに余裕があって意匠が異なる

有楽町駅よりもやや新橋駅側では、アーチが低く、スパンドレルに余裕があって意匠が異なる

これに対し、ゆったりした円弧になる有楽町駅南側では、スパンドレルにもうひとつの小さなアーチが施されています。この小アーチの下にさらに小扉を設けた部分もあります。

 

この違いは、新橋寄りの場所と東京寄りの場所の地盤の差によるものと思われます。有楽町~新橋のエリアはかつて海だったところで、江戸時代に埋め立てられて陸地となりました。したがって、強固な地盤とは言いがたいのです。

 

そこで、レンガの使用量を減らし、高架部分の軽量化を図ることにしたのです。そのためにアーチを長くして空間を増やし、スパンドルにも空洞を設けたのでしょう。ただ、その分強度は落ちるので、地盤のしっかりした東京寄りの部分はレンガの量を増やした、ということと思われます。

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駅周辺のガードは武骨なリベット打ちのものが見られる

駅周辺のガードは武骨なリベット打ちのものが見られる

日本最古の高架鉄道ということなので、駅周辺の架道橋(道路をまたぐ鉄道橋)もまた古く、明治末期の建設によるものが現存します。鉄骨の橋脚や橋桁に、武骨そのものに感じられるリベット打ちの跡が数多く見られ、時代を感じさせます。

 

高架下のアーチ部分には飲食店などの店舗が入っていることが多く、店舗がアーチに装飾を施していることもあります。耐震補強のための工事が進められ、店舗が退去しているところもあります。

 

有楽町駅近くのガード下に誕生した「日比谷OKUROJI」

有楽町駅近くのガード下に誕生した「日比谷OKUROJI」

そうしたなか、2020年に誕生したのが「日比谷OKUROJI」です。

 

有楽町駅付近は、在来線と東海道新幹線の2つの高架が並列しています。在来線の高架下アーチに店舗を、新幹線の高架下には通路と店舗を配置する再開発プロジェクトで、これまでは在来線と新幹線の高架下が別々の状態だったところを一体化したものです。

 

現代建築による鉄筋コンクリート製の新幹線の高架柱列なのに、まるで長い歴史に彩られているかのようなレトロな印象すら感じさせてくれます。

 

有楽町の地名は、織田有楽斎(おだうらくさい、以下「有楽斎」)に由来する、とされることが多いようです。

 

有楽斎は織田信長の弟で、茶人としても名をはせた武将。この有楽斎の屋敷が、関ヶ原の戦い後に数寄屋橋御門の近くに置かれ、その屋敷跡が“有楽原”と呼ばれていたことから、「有楽町」と名付けられた、とする説です。インターネットなどではこの説の引用が圧倒的に数多く目に入ります。千代田区が有楽町駅付近に設置した「町名由来」の案内板も、この説を採用しています。

 

しかし、ここはあえて「有楽町の地名=有楽斎の屋敷に由来」説には異論を唱えます。

 

有楽斎は、関ヶ原の戦い後も豊臣家に仕え、1614(慶長19)年の「大坂冬の陣」の際には、大坂城内にいて徳川軍と戦いました。豊臣家にあって徳川との和睦を主張し、翌年京都に隠棲、茶道三昧の日々を過ごしました。

 

しかしながら、有楽斎が京都を離れ、江戸を訪ねた記録はありません。また『寛永江戸全図』など江戸時代初期の古地図には、有楽斎の屋敷は記されていません。ちなみに有楽斎が建立した茶室「如庵」は愛知県犬山市に現存し、国宝茶席三名席のひとつになっています。

 

有楽斎は豊臣家滅亡直前まで豊臣家の重臣でした。徳川幕府の政権がまだ定まっていない江戸時代初期に、江戸城大手門の近くの要地に、豊臣家重臣の屋敷を配置することが現実的といえるでしょうか。また、有楽斎の屋敷が実際にあったとしても、有楽斎が屋敷を使用しなくなった場合、屋敷は別の家臣に与えられるはずで、江戸城近くの用地を「原」、すなわち空き地にすることは考えにくいです。

 

ちなみに、有楽町=有楽斎由来説の根拠は1772(明和9)年の『再校江戸砂子』だけです。『江戸砂子』は地誌ですが、民間伝承を多く採用しており、記載された内容には数多くの異説が存在します。つまり『再考江戸砂子』は、有楽斎の時代から170年後に、民間伝承を記したもの。同時代の記録ではありません。

 

すなわち、有楽斎の屋敷が現在の有楽町にあったという確実な客観的史料は存在せず、また、当時の状況を考えると、江戸に有楽斎の屋敷があったことも考えにくいのです。

 

江戸時代初期、寛永年間(1624~1644)の江戸図。織田有楽斎の記述は見当たらない

江戸時代初期、寛永年間(1624~1644)の江戸図。織田有楽斎の記述は見当たらない

では、「有楽町の地名=有楽斎屋敷に由来」とする以外の、地名の由来説を紹介しておきます。

 

17世紀初頭の江戸幕府開府期には、このあたりまで海が入り込んでいました(日比谷入江)。このため「浦原(うらはら)」「浦ヶ原(うらがはら)」などと呼ばれ、これが転じて、有楽原(うらくはら)となり、有楽町の表記につながったのではないかとする説。

 

この説が正しいかどうかは分かりませんが、「有楽斎屋敷説」よりは可能性があるような気がします。こうした地名にまつわる謎も有楽町という街の奥深さともいえそうです。

 

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更新日: / 公開日:2022.04.25