上野駅は、明治時代の開業後、紆余曲折を経て山手線の停車駅となりました。

そんな上野駅について、4回に分けて上野駅と周辺の魅力を探ります。第1回となる今回は、上野駅の誕生から山手線の駅となるまでの歴史を紹介します。
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山手線の各駅のなかで、上野駅はかなり特殊な始まり方をしています。

 

そもそも上野駅の開業の前提は「東京と京都を結ぶ長距離幹線鉄道の起点として」でした。上野駅の開業は1883(明治16)年7月28日。

 

この当時はまだ「東京の周囲を環状に走る鉄道」、すなわち現在の山手線のような発想はありませんでした。それどころか、「東京だけを運転する鉄道」という概念も存在しなかったのです。

 

江戸時代の中山(なかせん)道と東海道。日本の鉄道は、これに沿って敷設されるのが最初の計画だった

江戸から明治へと変わって間もない時期、日本でも鉄道の敷設が計画されました。このときは、江戸時代の幹線道路である旧東海道と旧中山道に沿って鉄道の敷設が計画されたのです。

 

この計画線を、ここでは仮に「東海道鉄道」「中山道鉄道」とします。前者は後の東海道本線のベースとなりましたが、後者は私鉄の日本鉄道により上野駅を起点として誕生し、高崎まで開業したものの地形が険しいことが主な理由となり、後年に計画が変更されました。

 

そして最終的には高崎線、上越線、中央線などいくつかの路線に分かれることになりました。つまり上野駅は「中山道鉄道の始発駅」として開業したのです。

上野駅錦絵

上野駅開業当時の錦絵。駅舎から蒸気機関車が発車しようとしている

こうして開業した上野駅ですが、実際は駅舎の工事が間に合わず、荷物取扱所を仮駅舎として上野~熊谷間の営業スタートでした。

 

そして営業運転を開始して1年近くを経た1884(明治17)年6月25日、熊谷~高崎間の開通による上野~高崎間の直通運転開始にともなって、「上野駅開業式」が行われました。

 

開業式には明治天皇が臨席して勅語を述べ、お召し列車に乗車して上野~高崎を往復しました。

 

当時の日本鉄道は私鉄。私鉄駅の開業に天皇が臨席するのは異例といってもいいのでしょう。それほど、日本にとって重大な出来事であったということです。

 

「東海道鉄道」は、官営鉄道として新橋~横浜が開業し、明治天皇が開業式に臨席しました。上野駅の開業はそれと並ぶ、大きな出来事だったのです。

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実際、開業後の上野駅は、明治の日本経済に大きな影響を与えました。それは、貨物輸送の幹線としてです。

 

明治初期の日本は、日本を外国と対等な立場にするため、欧米諸国の文明を取り入れ、産業や科学技術の近代化を進めました。そのための資金を集める方法として力を入れたのが、外貨の獲得でした。

 

外貨獲得のための主力となる輸出品、その一つは「生糸」です。生糸の生産のため、設立された官営の工場が、世界文化遺産に登録された「富岡製糸場」(群馬県富岡市)です。

 

つまり、創業間もない日本鉄道は、富岡製糸場で生産された生糸を運送するために利用されたのです。

 

上野駅開業以前の地図

上野駅開業以前の地図。図中の「草」とある一帯が、後に上野駅になる。寛永寺の子院を立ち退かせて得られた土地だ

日本鉄道では、すでに開業していた官営鉄道の新橋駅と接続させての鉄道敷設を計画したようですが、新橋以北の地域はすでに市街地化していました。

 

これに対し、上野駅の建設予定地は寛永寺の僧坊(僧や尼僧が生活する宿舎)だった土地で、明治維新後は政府官有地になっていたため、鉄道用地の確保が容易でした。そこで、この場所を選んでの上野駅開業となったと思われます。

1909(明治42年)の国土地理院地図

1909(明治42年)の国土地理院地図。神田川から引き入れた船溜まりのほとりに秋葉原貨物取扱所が設けられている

日本鉄道が新橋延伸を計画したのは、上野から先の物資輸送のため。上野まで運んできた生糸などは、外貨を稼ぐための輸出品です。したがって、貿易港である横浜まで生糸を運んで船積みさせる必要があります。

 

結局、上野から新橋までは、江戸時代から発達していた舟運で荷物輸送をすることになりました。運河や堀、神田川や墨田川などの水運で貨物輸送を行うのです。

 

この水運をより活用するため、上野から神田川のほとりまで延伸をして、神田川のほとりに貨物取扱所を新設します。上野駅開業の7年後、1890(明治23)年のことでした。この貨物取扱所が後の秋葉原駅となります。

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上野駅地平ホーム

終着駅の雰囲気が残る現在の上野駅地平ホーム

開業した上野駅はいわゆる「終着駅型」の駅となりました。上野駅へやってきた列車は上野駅で行き止まり、折り返してもとの方向に出発する形式です。

 

これは明治初期の鉄道が、イギリス人技師の指導によって始まったためで、ロンドンに多く見られる駅の形態にならって上野駅も建設されたことが大きな理由でしょう。

 

現在の地上1階ホーム(11~17番線)、常磐線や高崎線、宇都宮線の列車が発着するホームがその名残を見せ、いかにも「終着駅」といった雰囲気をかもしだしています。

上野駅山下口付近

現在の上野駅山下口付近。写真左側の上野駅と、右側の上野公園との間に切り通し状に道路が設けられている。山を削ってホームを増設したことが想像できる

1906(明治39)年に日本鉄道は国有化され、その後、上野駅を取り巻く環境は一変していきます。

 

最も大きな変化は、山手線電車ホームの新設。1909(明治42)年には上野~新宿~品川~烏森(新橋)に山手線の前身となる列車の運転が開始されました。

 

当初は仮設ホームをつくっての運転でしたが、1910(明治43)年、上野公園の台地を掘削して電車用ホームを新設しました。こうして、田端~池袋~品川に運転されていた山手線が上野~池袋~品川に延伸されました。

 

当初、上野発の電車は1両だけの編成で、15分間隔で運転されたのですが、乗客が急増したため、車両を増結し、運転本数も次第に増やされていったのです。

 

1923(大正12)年、関東大震災で被災した上野駅は新しい駅へと復興していきます。この復興の際に、電車ホームは現在の2階ホームに変更されました。これは高架駅となっている東京駅への延伸を意識したものです。

 

この当時、秋葉原駅はまだ開業していませんが、現在の秋葉原駅の前身となる神田川のほとりの貨物取扱所はすでに営業していました。ここは神田川水運の船と鉄道貨物の連絡地ですから、取扱所は貨物の受け渡しが便利なように地上に設けられています。

 

しかし東京駅は、市街地走行ということもあって高架鉄道の駅として建設されていました。

 

明治42年

1909年。平地に駅の施設がまとまって設けられているが、上野の山の際にホームは設けられていない

大正8(1919)年

1919(大正8)年。駅の東側に新しく山手線のホームが設けられているが、まだ秋葉原方向への延伸はない。また、山手線と上越線のホームは連絡していなかったように思われる

昭和5(1930)年

1930(昭和5)年。山手線ホームから秋葉原方面へ線路が伸びている

こうしたことから、上野駅は高崎線・東北線の地上ホームと、山手線の2階ホームという、1階と2階にホームがある駅となったのです。

 

1925(大正14)年、上野~神田間の高架鉄道線が完成。このころ、上野公園側への「公園口」が誕生したようです。といっても公園口は電車ホーム、すなわち山手線にのみ通じており、高崎線方面へは連絡していませんでした。

 

山手線(電車)と高崎線・東北線(蒸気機関車)は駅の出入り口が異なっている状態で、別々の系統の駅といった性格だったと思われます。

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上野駅正面玄関口

現在の上野駅正面玄関口。奥にトラックが停車している場所がかつての地下1階、上野駅出口。地上1階の状況はさほど変化していません

現在の上野駅舎は、1932年の鉄筋コンクリート建築です。現在の正面玄関口は2階建ての構造で、地上1階が駅構内への出入り口である正面口、地下1階が駅構内のショップへ納品する会社のトラックが出入りする納品口となっています。

 

建設当時は、地上1階は列車に乗る人が駅へ入るための乗車口、地下1階は列車を降りた客が駅から出るための降車口となっていました。

 

上野駅

屋根材の鉄骨が現在もむき出しで、建設当時の面影を今も伝える中央広場

ほかにもあちこちで改修が繰り返されていますが、正面玄関口の周辺や中央改札の付近などに以前の面影が残されています。

 

特に中央改札口の外側にある一帯は、建設当初「待合広場」とされていた場所で、武骨な鉄骨がむき出しの天井など、建設当初の雰囲気はそのまま。ほかにも上野駅には昭和の建築の面影が各所に見られます。

 

上野駅

正面玄関口から中央広場、中央改札へ向かう通路。連続するアーチは歴史建築ならでは

上野駅

正面玄関口外に残る、旧貴賓室入り口。かつてのVIP専用の乗車口だ

上野駅

1番ホームの脇に残る、古レールを再利用した柱や梁(はり)。連続するトラス構造(三角形を基本単位として、その集合体で構成する構造形式)がなんともレトロな雰囲気をかもし出している

上野駅

上野駅から上野公園方面を望む

こうして誕生した上野駅ですが、歴史的地名でいえば、駅の場所の地名は上野ではありません。

 

「上野」は、地形に由来する地名で、武蔵野台地の先端にあたる上野台地の総称の地名です。現在は上野駅の周辺一帯の地名が「上野」となっていますが、本来は上野台地、現在の上野公園の一帯を示す地名でした。

 

上野の地名の由来について、文献で確認できる最も古いものは鎌倉時代、京都仏光寺派伝来の文書に、「覚念」の僧侶名と「ウヘノ」「ユシマ」といった地名が記されている例です。

 

時代が下ったものでは戦国時代、小田原北条氏の記した『所領役帳』に、「江戸衆島津孫四郎 上野内法林院分五貫七百文」「円城寺氏 江戸上野十八貫二百二十文」などとあります。いずれにしても、中世以前から成立していた地名であることは間違いなさそうです。

 

この「上野」という地名に関連して、江戸時代の『新編武蔵国風土記稿』では、上野台地に比べて低地である一帯を「下谷」としています。具体的には浅草寺周辺から寛永寺の山麓までで、この辺りは一面にアシやカヤなど湿地性の植物が茂る低地だったので下谷と呼んだ、としています。

 

前述の小田原北条氏『所領役帳』には「大谷十郎左衛門 下谷萱野分 三十五貫九百文」があります。かつて、「上野」と「下谷」は異なる地域だったのです。

 

こうしたことからすると、現在上野駅があるあたりは、まさしく「下谷」です。しかし、かつての「下谷」は、その大半が今は「台東区東上野」、一部は「台東区西浅草」などとなっており、上野駅周辺からは「下谷」の地名は失われています。

 

「下谷」に新設された駅の駅名がなぜ「上野」となったのかは分かりません。いずれにしても、上野駅の誕生によって、それまで明確だった「上野」と「下谷」の区分が次第にあいまいになっていったことはあるかと思います。

 

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更新日: / 公開日:2021.07.19