大崎駅は、2021年2月25日で開業120周年を迎えました。そこで誕生したのが、大崎駅のキャラクター「おうさき」です。

「おうさき」は、駅員の制服をまとったウサギ。「大崎」と「うさぎ」をかけて「おうさき」と命名されました。誕生日は駅の開業日と同じ2月25日とのこと。
その表情は眉が下がってどこか悲しげです。その理由は、「大崎って何もない」「大崎止まりの山手線はいらない」「他の駅と間違えて降りた」などと言われ続けたため。
悲しさからだんだんと眉が下がってきたという、なんとも自虐的なキャラですが、これからはこの悲しげな眉が上がってうれしそうな顔になるように、大崎駅をアピールしていくそうです。
「おうさき」は悲しげな顔をしていますが、大崎駅には120年という長い歴史があります。1901(明治34)年2月25日の誕生から今日までの歴史をたどりながら、駅と街の魅力に迫ってみたいと思います。
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平成の再開発で駅も周辺も一変、街はまだまだ変わろうとしている

西側から見る大崎駅。駅舎の背後には大崎ニューシティ、ニューオータニイン、大崎センタービルなど再開発で誕生したビル群が立つ
大崎の特徴をひと言でいうと、平成の再開発によって大きく姿を変え、しかもまだ再開発が進行中の街ということになるでしょう。
そもそも大崎は鉄道の運行上の理由で誕生した駅でした。駅の設置について地元の要望などがあったわけではありません。
駅の誕生後、周辺は工場街となって、工場で働く人たちの最寄り駅となり、工場への通勤客以外はほとんど利用客がいない状態でした。駅前広場すら存在していなかったほどなのです。
しかし、昭和末期ごろからの工場の移転に伴って再開発が進み、駅と駅を取り巻く環境は一変しました。それでは120年の歴史の中でどう変わってきたのか、見ていきましょう。

1886(明治19)年の「迅速測図」に山手線を書き加えた。品川からいったん南下し、大きくカーブして北上するU字型のルートになっていることが分かる。品川駅の西には御殿山の台地が立ちはだかっていて、ここに鉄道を通すには山を切り崩すか、あるいはトンネルを掘るなどの難工事となることが予想され、御殿山の台地を迂回するルートとなった
大崎駅は1901年2月25日の開業。その背景には、ほかの駅と異なる特別な事情がありました。
山手線の品川~池袋の区間は、日本初の私鉄である日本鉄道により、1885(明治18)年3月1日に開業した「品川線」を前身としています。
品川線は、東海道線の品川と高崎線の赤羽を結ぶ鉄道で、開業当初の駅は品川と渋谷、新宿、板橋、赤羽の各駅。その後、目黒と目白の両駅も開業しています。
この品川線の状況に変化が訪れるきっかけは日清戦争でした。
日清戦争が開戦した1894(明治27)年当時、現在の戸山公園(新宿区)や神宮外苑(新宿区・港区)には陸軍の施設があり、これらの施設から横浜など東海道線方面へ軍用列車が走り、物資や人員の輸送に利用されるようになったのです。
ところがここで問題が生じました。目黒から品川へ向かう列車は、品川では新橋方向に向かう線路で入線していくことになります。ここから東海道線で横浜方面に向かう場合は、進行方向を逆転、すなわちスイッチバックさせる必要があるのです。
蒸気機関車が客車や貨車をけん引する当時の列車では、列車を停車させた後、次のような工程が生じるのです。
- 先頭の機関車を客車や貨車から切り離し、
- 機関車を新橋寄りの待避線などに入れ、
- 横浜寄りの別の待避線で待機していた機関車を本線に入れ、
- 機関車をバックで走らせて列車の最後尾に連結、
- 逆方向へ発進
輸送の迅速化が求められた戦時下では、これが問題となったのでした。
こうした事情から、品川駅での機関車の付け替えを省くため、目黒方面から品川駅を経由せず横浜方面へのショートカット路線「品川西南線」(後に「大井支線」)がつくられることになったのです。
ひとつの路線から別の路線を分岐させるためには、信号やポイント切り替えなどの設備と操作のための人員が必要で、このために新設されたのが大崎駅です。
「旧来の路線と新設路線との分岐点として設けられた駅」としては、大崎駅は日本でも有数の古い駅といえます。
のどかな農村から工場地帯へ急変
大崎駅開業以前の駅周辺は、目黒川河口の品川湊にも近く、のどかな雰囲気の農村地帯だったようです。1915(大正4)年の地図を見ると、駅の周囲、特に目黒川の沿岸は水田が広がっています。
駅の西側には家屋の密集地がありますが、これは居木(いるぎ)神社を中心とした古くからの集落です。神社を含め一帯が高台にあり、川沿いの水田で作業する人々の集落となっていたところです。
しかし、こうした状況はその後に急変していきます。駅の開業によって周辺が市街化するのは珍しいことではありませんが、大崎の場合はほかの駅とは異なる市街化が進みました。それは「工場地帯」としての発展でした。
「工場地帯」としての発展
大崎駅周辺は、本来の地形に由来する目黒川沿川の工業用水の便の良さに加え、駅の存在により輸送力が飛躍的に増強されたことが大きな理由となり、工場を建設するのに適した地として注目されたのです。
その背景には、日清戦争や第一次世界大戦によって工業製品のニーズが高まったことによる好景気の影響もありました。1918(大正7)年以降、大崎駅周辺には比較的規模の大きい機械器具や化学、金属工場が数多く立ち並ぶようになります。
ちなみに、かつて大崎駅周辺にあった工場には、明電舎(機械工業)、園池製作所(工具)、高砂工業 (後の高砂鐵工)、日本精工(ボールベアリング)、森永製菓といった企業の工場が挙げられます。
つまりは、大崎は日本のものづくり産業の発展を支えた街でもあったのです。
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工場街への入り口の駅として利用された
大崎駅の周辺は、1980年代までは工場が立ち並び、どちらかというと殺風景な雰囲気の地帯。したがって、大崎駅を利用する乗降客の大半は、周辺の工場に通勤する労働者でした。
一般論ですが、工場地帯は、ひとたびでき上がってしまうと、その後は街並みなどが変わっていくことはさほどありません。
工場があると、周辺の商店街も労働者相手の個人商店が中心になるため、大型店舗は出店しにくいといった事情もあるのでしょう。大崎も工場街が誕生してから長きにわたって、駅をとりまく状況はほとんど変わることはありませんでした。
つまり長い間、大崎駅の利用客は地元客と通勤客に限られていたわけで、不特定多数の来訪者はほとんどなかったのです。そうしたことから、大崎駅は多くの人々が「降りたことがない駅」「駅周辺に何があるのか知らない駅」といった感想を持ったのでした。
これは都心部の幹線である山手線の駅としては特異的で、郊外の私鉄沿線駅に近い性格といえるでしょう。それほどまでに、大崎駅は山手線の駅の中で地味な存在だったのです。
1980年代初めに大規模開発がスタート、街の表情が変わっていった

大崎エリア再開発の先駆けとなった大崎ニューシティ。スーパーマーケットがテナントとして入り、地元住民にも喜ばれた
その大崎駅が、昭和から平成へと時代が変わるころから次第に姿を変えていきました。1982(昭和57)年に東京都が大崎・五反田地域を副都心のひとつに策定し、再開発が始まったのです。
1989(平成元)年には、大崎駅東口に「大崎ニューシティ」が誕生。オフィスが中心の施設でしたが、スーパーや飲食店なども入居しました。
当時の駅周辺は工場街であり、商業施設はさほどなかったため、近隣住民の生活インフラを向上させるテナントの入居として歓迎されたようです。

現在の大崎駅東口の顔、ゲートシティ大崎
1999(平成11)年には、大崎ニューシティの南側にオフィスビルと店舗が入る「ゲートシティ大崎」がオープン。
そして翌2000(平成12)年には商業施設とタワーマンションの「オーバルコート大崎」が完成します。大崎駅周辺で最初の大規模集合住宅であり、駅周辺のイメージを工場地帯から一新させることになりました。
その後も大崎駅周辺には「東京サウスパークタワー」「大崎フロントタワー」などの建設が進み、さらに西口エリアにも「ThinkPark(シンクパーク)」「東京サザンガーデン」「大崎ウエストシティタワーズ」といったオフィスビルやタワーマンション、複合施設が建設されていき、駅周辺の風景は激変していったのです。
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山手線だけの駅からターミナル駅へと変化

1・2番ホーム(内回り線)。写真右はこれから発車する電車、左は大崎駅止まりの電車でこれから車両センターへ向かう
駅周辺の状況だけではなく、大崎駅そのものも大きく変化しました。以前の大崎駅は、山手線以外の電車が停車しない「単独駅」でした。
ただ、単独駅としては珍しく、ホームは島式ホーム2面4線、つまり内回り線(1・2番ホーム)と外回り線(3・4番ホーム)が別々になった状態でした。
これは駅の南側に車両センターがあり、「大崎駅始発」「大崎駅終着」の電車が待機するケースがあったからで、大崎駅ならではの特徴でした。

写真右が山手線ホーム、左が湘南新宿ラインとりんかい線のホーム。中央は駅を通過する山手貨物線。山手線ホームだけだった駅にりんかい線や湘南新宿ラインのホームが増設されたことが分かる
しかし、2002(平成14)年にりんかい線が開業し、埼京線との相互乗り入れが開始され、大崎駅はりんかい線と埼京線の起点駅となったのです。
すでにその前年に湘南新宿ラインが運転を開始し、その停車駅ともなっており、大崎駅は3線が発着するターミナルとなりました。
これにともなって、埼京線、りんかい線、湘南新宿ライン南行き(5・6番ホーム)と同北行き(7・8番ホーム)の2面が増設され、大崎駅は4面8線のホームを持つようになったのです。

りんかい線開業にともない、駅構内にはコンコースが設けられた。さらには飲食店やドラッグストアなどのショップが入り、エキナカの「Dila大崎」として親しまれている
乗客数も大幅に増加。りんかい線開業以前の2001(平成13)年では5万7,069人と、山手線のなかでも下位グループで、JR東日本の駅としては74位になっていたのですが、2019(令和元)年には17万7,095人に増加。
山手線内で10位、JR東日本全体でも14位の乗客数に増加しました。

南改札口に接続したペデストリアンデッキからゲートシティ大崎へ向かう
現在の大崎駅は、駅と東口・西口の複合施設がペデストリアンデッキで結ばれ、駅から周辺の一部施設までは雨天時でも傘を差さずに移動できる構造になっています。
かつての大崎駅周辺を知る人が、久々に足を運べば、あまりの変わりように驚かされるはずです。
逆に、現在の大崎駅しか知らない人には、ここが山手線の中でもかなり地味な存在だったことが信じられないかもしれません。それほど大崎駅は、駅周辺も、駅そのものも大きく変化しています。
次はそんな大崎駅について、周辺の見どころなども含めてさらに紹介していきたいと思います。

更新日: / 公開日:2021.03.12













