ドーム天井の丸の内北口

丸の内北口のドーム天井を見上げる
東京駅丸の内駅舎の復元で最も印象的なのは、ビザンチン様式のドーム屋根です。この部分は、高さ35mと、中央部(高さ28m)よりも大きくなっています。
また、ドームに沿って2階と3階に回廊が設けられています。回廊は、東京ステーションホテルの施設で、3階部分は宿泊者専用ですが、2階部分は宿泊者以外でも上ることができます。
ドームは中心の円形の部分から8方向に梁が伸びて、梁の先には翼を広げた鷲の彫刻。日本から世界に羽ばたく、という意味が込められているといわれます。この鷲の彫刻は翼を広げた幅が2.1mほどになる大きなものですが、高さがあるので小さく見えます。
天井の下は3階の回廊部分。ゴシック風の細長い窓が立ち上がり、その上には半円形のアーチ模様が設けられています。アーチとアーチの間には、淡いグリーンの地に十二支のうち八支が彫刻させたメダリオンが配置されています。
十二支を方位に見立てるのは日本古来の習慣で、北を子とし、時計回りに「子丑寅」です。ただし、東京駅ドームの場合は、建物が8角形で、東西南北の正方向には梁が設けられていません。このため、子(北)、卯(東)、午(南)、酉(西)の4種類の動物が省かれています。
2階回廊からの眺め

丸の内北口2階回廊から天井を見上げる
2階回廊からは3階回廊がより近くに眺められます。またドーム天井を支える柱の柱頭飾りが目の前に見られます。

丸の内北口 柱の柱頭飾りに刻まれたAD MMXIIの文字
柱には「AD MMXII」の文字が刻まれています。MMXIIはローマ数字で、Mは1000、Xは10、Iは1を表します。すなわち2012ということ。丸の内駅舎の復原工事が完了した2012年を示しています。
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復原された赤レンガと昔日の赤レンガ

外壁の覆輪目地
【山手線の魅力を探る・東京駅 1】丸の内駅舎は国指定重要文化財にして現役 でも述べましたが、丸の内駅舎外壁の赤レンガは、「覆輪目地」によって仕上げられています。
特殊な鏝を使って目地の中央部をかまぼこ型に盛り上げさせる、現代の職人には伝承されていない技術です。
レンガに近寄って目地を見てください。目地が盛り上がっていて、さらに横目字の上に縦目地が乗っていることがわかります。細かいことではありますが、これも見どころのひとつです。
また、丸の内南口近くの改札口内には、開業当時のレンガ壁が残されています。
丸の内駅舎の改札外の外壁はレンガの小口を見せるドイツ式の積み方でしたが、改札内の古い構造レンガの部分は小口積と長手積を段ごとに変えて積んでいくイギリス式の積み方であることも興味深いことです。
開業当時の柱が残る5・6番線ホーム

5・6番線ホームに残る創業時の柱
東京駅のプラットホームは、そのほとんどが建築当時のものではなく、後年に増改築されたものです。ただ、現在の山手線・京浜東北線5・6番線のホームの一部に開業当時の柱や梁が現在も使用されています。
東京駅創業時の柱は緑色に塗られていてわかりやすくなっています。西洋建築によく見られるモチーフであるアカンサス模様の鋳抜き装飾がほどこされています。
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JRの営業距離の起点となる0キロポスト

0キロポスト
鉄道には、その起点を示す場所があり、その場所には0キロポスト(起点標)が設置されています。
東京駅の場合、1番線(中央線高架)脇、3番線(京浜東北線)脇、5番線脇(山手線)、7番線(東海道線)脇などに設けられています。
このうち最も古いのが、5番線と6番線の間に設置されたポスト。線路脇に数字の0をイメージした標柱が見られます。
総理大臣がテロに遭った事件現場

中央コンコースの床の模様は浜口首相襲撃事件の現場を示す。奥の柱に解説表示がある
東京駅では、歴史上、二人の首相がテロに遭遇しています。一人は昭和初期の浜口雄幸総理。場所は、中央コンコース、東海道・山陽新幹線改札口の近く。
1930年、特急「つばめ」に乗車しようとした浜口雄幸首相が、右翼青年の銃弾に狙撃されたのです。コンコースの床面に印があり、近くの柱に説明表示があります。
当時、浜口首相はロンドンでの国際軍縮会議で日本海軍の軍縮を国際公約。これが狙撃の原因となったといわれています。浜口首相は一命を取り留めたものの、このときの怪我がもとで翌年に亡くなります。そして軍部が次第に台頭してゆき、日本は戦争への途を歩み始めていくのです。
もう一つのテロ事件現場は丸の内南口。自動券売機近くの床に印があります。1921年、原敬首相が改札口に向かって歩いていたとき、19歳の少年に短刀で刺されて即死したのです。このテロ事件については背景がよくわかっていません。
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江戸の奉行所跡もあった

通路の隅にある北町奉行所跡の碑
八重洲北口近くの通路脇には、あまり目立つこともなく、「北町奉行所跡」の標識があります。この一帯は、江戸時代には呉服橋門内と呼ばれ、1806年から幕末まで北町奉行所が置かれていた場所。
江戸の町奉行所は北町と南町の2ヵ所の体制(時代によっては北町・中町・南町の3奉行所体制)が敷かれていましたが、この場所の北町奉行所は2奉行所体制のときのもの。
現在の有楽町駅前にあった南町奉行所と、ここ北町奉行所の2奉行所が毎月交代で業務にあたっていたといいます。
「八重洲」の地名の由来となった外国人

ヤン・ヨーステン記念碑
東京駅八重洲中央口から正面に延びる道を行くと、道路の中央分離帯に、ヤン・ヨーステン記念碑があります。
ヤン・ヨーステンは、1600年に豊後(大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号の船員。徳川家康の通訳として重宝され、江戸城下、現在の東京駅周辺に屋敷を与えられました。日本名は耶楊子(やようす)。これが「八重洲」の地名の由来といわれています。
ヤン・ヨーステンはその後日本人女性と結婚、幕府から朱印状を得て、東南アジアを中心に幅広く貿易を営みました。1609年、長崎・平戸にオランダ商館が開設されると、幕府の顧問的な立場となって、日本とオランダとの貿易の発展に尽力しました。
東京駅は戦後、一時的にGHQに接収されています。このとき、「進駐軍を驚かすような意匠を設けたい」ということで新たに作られたのが、RTO(進駐軍鉄道事業所)レリーフです。
これらは東京駅がGHQに接収された昭和22年(1947)に丸の内北改札口付近や米軍専用待合室などに飾られたもので、壮大な規模の「日本地図」をはじめ、「江戸の船出」「奈良東大寺」「流鏑馬」など、日本の各地を題材としたもの。
製作に当たったのは建畠覚三、白井謙二郎、本郷新、田畑一作など、昭和前期を代表する芸術家たち。すべてをあわせると総延長は52mにもなる壮大な作品です。
レリーフは東京駅がGHQから返還された1952年に取り外されましたが、丸の内駅舎修復を機に、東京駅地下京葉口付近に移設され、公開されています。
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更新日: / 公開日:2016.06.17










