- 「障がい者1500人雇用」に挑む総社市。そのリーダーの二十歳のころとは
- 政治家を目指したきっかけは?-「音楽少年からの転身でした」
- 二十歳の頃、熱中していたことは?-「音楽に熱中していたけれど“こうあるべき”に縛られていた」
- 人生の中での二十歳のころの位置づけは?-「浪人したこともあり、あまり自信を持てなかった頃」
- 二十歳の頃の経験は、現在のまちづくりにどう活かされていますか?-「当時感じた"辛さ"が、いわゆる弱者支援の取組みを後押ししています」
- 市長はSNSの達人と聞いていますが…-「SNSにはリアルでは会えない世代と交流できるパワーがあります」
- 今後の総社市のまちづくりの展望は?-「生きることが困難な人を助けていき、日本全国で一番市民にやさしいまちをつくりたい」
「障がい者1500人雇用」に挑む総社市。そのリーダーの二十歳のころとは
2022年秋、岡山県総社市が取り組んでいる「障がい者雇用」に関するオンライン勉強会が開催された。
総社市は「障がい者千五百人雇用」に取り組んでいる。2017年には千人の雇用を達成、同年9月7日には総社市議会が全会一致で「総社市障がい者千五百人雇用推進条例」を可決している。この障がい者支援のうわさを聞きつけて移住してくる人々もいる。
オンライン勉強会がひときわ盛り上がったのが、障がい者の子を持つ親からの手紙のエピソードだった。
「障害を持つ子を育てても、社会が迎え入れてくれるはずもなく、今後どのようにして生きていこうかと、途方に暮れていた。けれど総社市が、障がいを持つ子が18歳になるとどこかで働かせてくれることを約束してくれている。そう思うと、今後も頑張れる」
役所にありがちな「雇用の推進」ではなく、具体的に「障がい者千五百人雇用」と数値目標まで条例名に明記し、市ぐるみで取り組む姿勢は他の事例とは一線を画している。「一人でも多くの障がい者に生きる希望を」と語る片岡市長の想いの原点を探るべく、安田女子大学現代ビジネス学部公共経営学科(松本武洋ゼミ)3年の門田佳奈美、瀬戸明香里がインタビューを行った。
政治家を目指したきっかけは?-「音楽少年からの転身でした」
「私は大学4年間、かなり本気でミュージシャンになろうと思っていました。ピアノを弾いて一生を生きていきたいと思っていましたが、実力がありませんでした。
当時は、今でいう「ゆず」みたいな、私がピアノで相方がギターを弾いて、それで綺麗なコーラスをやるといったバンドでした。相方は非常にタレント性があったので、私は彼に頼っていました。その相方から、大学を卒業する1年前ぐらいに、「君とはやらない」という風に言われまして、解散しました。私もシングルでやる自信はありませんでした。
その時から、「人間は何のために生きているんだ」という悩みにぶち当たりまして、それで考えたんです。当時流行っていた『空海』という映画を見たり、本を読み漁ったり、まあ、病んでいた時期がありました。そこで至った結果が、自分のためではなくて人のために生きているということです。そこで、学校の先生になることを一度考えました。ただ、私は大学が法学部でしたので、取れるのは社会科の免許だけだ、と言われました。なんだかピンと来なくて、「最も多く人のために尽くせる仕事とは何だ」と思ったときに、「あぁ、政治家だ」と。それで政治家を志しました。「人は何のために生きているのか、自分のためではなく人のためだ。ならば政治家になろう」と」
二十歳の頃、熱中していたことは?-「音楽に熱中していたけれど“こうあるべき”に縛られていた」
「やはりずっと音楽をしていました。しかしその当時、音楽とは音を楽しむと書くのですが、決して楽しめなかった自分がいましたね。常に、「この曲、たいしたことないんじゃないの」とか「この指使いダサいよな」とか。上手い人は周りにたくさんいましたので、結構劣等感に苛まれていた時代ですね。今の方が、もっと楽しむ気持ちで弾けるし歌えます。
20歳の頃は暗かったし楽しくなかったですね。音楽をやっていた時は、「こうあるべき」というものが多すぎて、もっと自由にやればよかったと今頃思います」
人生の中での二十歳のころの位置づけは?-「浪人したこともあり、あまり自信を持てなかった頃」
「今の自分が市長として頑張っていけている基本のところは、学生時代だと思っています。コックのアルバイトをしながらパチンコ屋に通ったり、音楽をしたり、友人と過ごした日々、それからあの頃の感受性、読んでいた本、歌っていた歌、作っていた曲、そういうものが今を形作る原動力になっていると思います。
ただ、大学に入学してからはハッピーだったのですが、私は自分のことを落ちこぼれだと思っていました。それでなんとなく劣等感を持ちながら、自分にあまり自信を持っていなかった時代です。高校生から大学の最初の頃までは、浪人もしましたし、結構暗い時代だったのですが、大学時代の経験があったからこそ、今、頑張れているのかもしれません」
二十歳の頃の経験は、現在のまちづくりにどう活かされていますか?-「当時感じた"辛さ"が、いわゆる弱者支援の取組みを後押ししています」
「二十歳の頃は私にとってつらい時期でしたので、そういう時の気持ちが弱者支援に取り組んでいる一つの要因だと思います。
政治家になり、自分自身が市長となって感じたことは、まさしく「弱者のための政策をやろう」ということです。以前、橋本総理の秘書官をしていたのですが、その秘書官時代の経験は全然別のところで生きています。様々なことを見てきましたけれども、障がい者雇用というのは、私の人生の中で感じたことを具現化したものだと思っています」
市長はSNSの達人と聞いていますが…-「SNSにはリアルでは会えない世代と交流できるパワーがあります」
「SNSについて感じていることは二つありまして、一つは納税者に対してその税金で何をやっているのかということを伝えるという事です。もう一つは、SNSの威力です。
私は、最初に出た選挙では、70票差で落選したんです。そして何もすることがなく、途方に暮れていました。それでも次の選挙を目指して頑張らざるを得ないということで、政治活動として朝から晩まで1軒ずつ政策を説明して歩いていました。
1日どんなに頑張っても150軒ほどしか歩くことができません。実際に在宅していてお会いできるのは50人くらいです。そして、若者に会うことはほとんどありません。ということは、人間がアナログ的に1軒ずつ歩いて私の想いを訴えたとしても、いろんな世代の人に会えるというわけではありません。
だけどもSNSで、例えば私のTwitterのフォロワーが約4万人いますが、「おはよう」と一行書いただけで4万人に届くということ。このパワーは、私が朝から晩まで歩くよりも何倍もの力を持つという意味で、重宝していますし、活用すべきだと思っています」
今後の総社市のまちづくりの展望は?-「生きることが困難な人を助けていき、日本全国で一番市民にやさしいまちをつくりたい」
「私は、人口が増えようとも減ろうとも関係ないと思いますね。たまたま総社市は増加していますけども、それが立派だということでもないと思います。
これから、どうまちづくりをしていくかと言えば、「市民一人一人にピッタリと寄り添って、市民に最も優しいまち」にすることです。そういう仕組みや制度をたくさん残していくことが大事だと思います。
大きい橋を架けたり、高規格道路を作ったり、市民会館を建て替えたりといったことは、裕福な時代の市長がやればいいことだと思っています。それよりも、一人の障がい者をはじめとする、生きることが困難な人を助けていき、日本全国で一番市民にやさしいまちを目指したいですね」
【インタビューを終えて】
市民に寄り添い、誰一人取り残さない制度作りに力を入れている、という姿勢に魅力を感じた。そして、片岡市長の20歳のつらい時期の経験が、現在の障がい者千五百人雇用に代表される弱者のための政策に繋がっている、というお話が印象的だった。経験が熱い想いに繋がっている、そして、取り組みの推進力になっている。私も、自分が経験したこと、これから経験することを、今後の挑戦に生かしていきたい、と思った。(門田佳奈美)
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